流石は紳士の柳生、こういう手回しは完璧だ。
「うん…多分桜乃ちゃんも呼んでたから間違いないと思うけど、念の為に本人と確認出来るものはあるかい? お客の預かり物だからね、ちゃんとしておかないと」
尤もな話である。
「じゃあ、学生証で」
「有難う」
ポケットに入れておいた学生証を店長に渡すと、相手はそれを確認した後にそれを再び仁王に返した。
「うん、オーケーだ。じゃあ、レジの方に来てくれるかな」
「分かった。邪魔したの、竜崎」
「あ、い、いえ…」
ぽんっと軽く桜乃の頭に手を置いて笑うと、仁王はそのまま店主の後についてレジへと向かった。
レジスターを置いた台の向こうにある一室へと通じるドアを抜け、店主が一時姿を消す。
どうやらその部屋に、預かり物などを置くスペースがあるらしく、それから一分としないうちに彼は見慣れたラケットを抱えて戻ってきた。
相棒が握っていたことのあるラケットであり、そして彼に化けていた時には自分も握っていたものだ、見覚えがあって当然である。
「随分使い込んでいるからね、調整は難しかったよ。柳生君は、君なら細かいところも分かっていると言ってたが、本人じゃないとやっぱり…なぁ。どうだい?」
「どうも…ふむ」
受け取った後の仁王は、その数秒前までの穏やかな表情とは一変、厳しい視線でラケットを様々な角度から見つつ、ガットに指を掛けて軽く引っ張るなどして張り具合を確かめた。
(以前、使った時より少々硬い感じもするが…やっぱり打ってみないことには分からんのう)
しかし、特に大きな違和感というものはなさそうだ、いい仕事をしてくれていると思う。
「…ま、大丈夫かな」
うん、と頷く仁王に、店主はああ、と思い出したように店の壁を指差した、いや、正しくは、壁の先にあるものだ。
「隣にテニスコートがあるから、もし気になるなら打ってきたらいい。違う感触だったら、また戻ってきて言ってくれ、今日中だったら追加料金なしで再調整も受けられるから」
「そうか、それは有り難い」
折角だから、軽く打ちに行くか…と仁王はラケットを手にして笑った。
いつもと違う環境で打つのも悪くない、それに、コートで遊んでいたら、相手になってくれる人も見つかるかもしれんし…
テニスコートへ移動後…
仁王がいるのは、しかし、コートではなく、一人練習で使う壁打ちの場所だった。
「はぁ…やっぱそう甘くはないか」
とんとんとラケットを肩たたき代わりにして、仁王は壁に向かって苦笑する。
移動したのは良かった。
が、コートは空いていたのだが、肝心の打ち合う相手が見つからなかったのだ。
来ている客は皆個人ではなく団体や家族で、既に相手がいる、或いは見つけている人ばかり。
一人ぐらい見つからないかと思っていたが、こればかりは時の運、どうにもならなかった。
結局、仁王は壁を相手にラケットの機嫌を見るしかなかったのだ。
「よ…っと」
軽くトスを上げ、力を込めてボールを打つ。
鋭く風を切る音と、ボールが弾ける音が耳に心地よく、続けて壁が鳴く音が辺りに響いた。
腕に残った感触を実感しながら、少年は銀髪を揺らせつつラケットを持った右腕を軽く振る。
本来は左利きの彼だが、柳生のラケットを使う時は彼と同様に右腕を使っている…だから、今回も右腕で試す必要があるのだ。
しかし、ここで初めて仁王を見る人達は、彼が実は左利きだとは思わないだろう。
「…いい感じじゃ」
続けてもう二、三球打ってみたが、特に問題はない。少し手応えの硬さを気にしていたが、これなら許容範囲内だ。
「…ところで」
ふ、とラケットを不意に下ろすと、仁王はぐるっと背後へ視線を走らせ不敵に笑った。
「さっきから俺に何か用か? 竜崎」
「う…っ」
柱の陰からこそ〜っとこちらの様子を伺っていた少女は、名を呼ばれてびくんと身体を震わせた。
隠れていたつもりだったが、彼には全てお見通しだったようだ。
「何じゃ? 偵察ならそのまま見とってもええよ、参考になるかは知らんがな」
「い、いえ…偵察とかじゃないんですけど…その…」
「ん?」
「あの…少しだけ…私と打ち合って、もらえません、か?」
意外な申し出に、おや、と仁王が瞳を軽く見開いた。
「打ち合い? 俺とか?」
「あっ、に、仁王さんには私なんかとても敵わないし、正直、退屈させて御迷惑だとは分かってるんですけど…上手な人の動きをたくさん見て、上手な人とたくさん打ち合わないと、上達しないっておばあちゃんが…それで、あの、もしお時間があればって思ったんですけど…ダメ、ですか…?」
やはり、知り合いとは言え他校の生徒にここまで願うのは甘えすぎだろうか、と思っていた桜乃に仁王がゆっくりと歩み寄る。
(断られるかな…やっぱり)
半分既に諦めていた彼女が、くしゃっと髪に優しく触れられ顔を上げると、銀髪の男が優しい笑顔で自分を見下ろしていた。
「やる気のある子は好きじゃよ。ええよ、お相手させてもらおうか」
「もっと速く走れ! 追いつけんぞ!!」
「はいっ!」
それから彼等はコートの一面を借りて打ち合いを始めたが、意外にも仁王は厳しい指導を桜乃に対して行っていた。
無論、全国の頂点に立つテニス軍団の中でも最も恐ろしいと囁かれる男だ、ほぼ初心者の少女との実力差は計り知れない。
右手での動作の上かなりの手加減をしているのは確かだが、それでも桜乃の息は先程から上がりっぱなしだ。
「ボールをよく見んか! 集中せんと取れるもんも取れん! そら行ったぞ!!」
「くっ…!」
鋭い音と共にこちらに来るボールに、桜乃が必死に食らいついてラケットを振るう。
追いついたのは彼女の努力の結果だったが、打った時のラケットの向きまでは考えが及ばず、彼女が返したボールは見た目完全にアウト。
「おっと、残念」
やっちまったな、と言うように笑って仁王は軽くジャンプすると、軽々とそのボールをラケットで受け止め、そのまま着地した。
「はぁ……はぁ…」
結構続いたラリーに、桜乃はくたっと膝に両手をついて身体を前屈させる。
(こんなに激しい打ち合い、部活でもしたことない…・手を抜いてもらっているのにこんなに疲れてしまうなんて…でも、仁王さん、息一つ乱れてないし、汗も…)
ボールとラケットを手にこちらに向かってくる仁王を見ながら、桜乃は再度上体を起こす。
それだけの動作で、ぽたぽたと汗がコート上に落ちた。
「す、すみません。続けて…」
「いや、休憩じゃ、無理な負担は身体を壊す。水分補給もしたほうがええ」
「…はい」
真面目な口調で桜乃の反論を封じると、仁王は彼女を傍のベンチに座らせ、近くの販売機で買ったスポーツ飲料を与えた。
「飲みんしゃい、おごっちゃるき」
「え、でも悪いです…私がお願いしたのに…」
「先輩の言う事は聞くもんよ。学校は違うが、俺はお前さんより年上じゃよ」
「…ありがとう…ございます」
「おう、汗もしっかり拭いとかんとな、風邪ひくぜよ」
そう言うと、タオルを手に取った彼が桜乃の顔にそれを優しく押し当てた。
「ふあ…っ」
「はは、汗だくじゃな。真っ赤になって、可愛いぞ」
「っ…!!!」
スポーツによる熱がようやく引き始めたところで男性の言葉を受け、桜乃の顔は最高潮にまで紅潮してしまった。
きっと、相手はからかうつもりでそう言ったのだろうが、唐突に言われた所為で心の準備が出来ていなかった。
桜乃の過剰反応に、仁王は再び困惑する。
どうもコート上とは違って、女性相手では上手くいかない。
それに、今の反応で更に真っ赤になった彼女は何となく可愛さが増している気がして、ガラにもなく仁王はつい視線を固定させてしまった。
越前…こんな子を放っておくんか? もしそうなら…
「…あー、その…お前さん、本当に素直じゃの…」
「ご、ごめんなさいっ…や、やだ、私、お世辞なのに照れちゃって…」
「………」
何でそうなる、と心の中で仁王が突っ込む。
もしかして、自分が『コート上の詐欺師』だからか…?
「仁王さん…?」
急に静かになった相手に少女が顔を向けると、銀髪の男は視線を逸らしながらぼそっと呟いた。
「…俺がいつでも嘘を言うとは限らんよ」
「え?」
「ああ、いや、何でもない。言ったらお前さん、もっと混乱するじゃろ」
「…何だか気になりますけど」
「それはええの…好都合ナリ」
嘘か真か、仁王は実に楽しそうに笑ってみせ、桜乃は更に混乱してしまう。
この人は、悪い人ではない…のに、いつも自分を翻弄してしまう…悔しいくらいに。
(ダメ…また熱上がりそう…なんでかな)
桜乃は気を取り直し、くぴくぴと仁王に貰った飲み物を飲むことに集中した。
まだ、後半の打ち合いも残っているから…
二人が打ち合いを終えた時、既に空は茜色だった。
もうそろそろ帰らないと、仁王も帰宅時間に響くということで、二人は玄関口で別れることになった。
「有難うございました、結局こんな時間まで付き合って頂いて…」
「なに、俺も楽しかったから構わんよ。それより後半はのんびりやったが、今日のお前さんはかなり筋肉を使っとる。家でもしっかりストレッチやって寝た方がいい」
「はい」
「ああ、時に竜崎。一つ聞きたいんじゃが、お前さんはよくあの店には行くんかの」
「え? ええ、ウチからも近いし、よく立ち寄ります。たまにですけど、フェアとかもやってるし」
「ほう、そうか…で、だ、物は相談なんだが…」
「? 何ですか?」
月曜日…
「有難うございました、仁王君。助かりましたよ」
「おう」
教室で、仁王と柳生はそれぞれラケットとダーツ矢を物々交換していた。
「早速、今日の練習で使うことにしましょう…時に仁王君、あの店は如何でした?」
「ああ、色々と品揃えが豊富で楽しかったの…新しい出会いもあったし」
「新しい出会い?」
何です?と訝る柳生に仁王はくるっと振り向くと、左手の小指を立て、ウィンクまでしてみせた。
「可愛い女の子と、デ・エ・ト」
「はい!?」
何ですって!?と大声を上げる柳生に、周囲の生徒達が一斉に振り向く。
仁王はそれを見て、我が意を得たりとばかりににやっと笑う。
「あなた、あんな遠方に行ってナンパしていたんですか!?」
「行かせたのは柳生じゃろうが、それに何で俺がナンパしたって事になるんじゃ。声を掛けてきたのはあっち」
これは嘘ではない。
「…そういう女性は、苦手だったのではないですか? 仁王君」
これまで告白されたことはあっても応じたことはない、意外と硬派の相棒の性格を知っている柳生は尚更納得いかない様子だったが、仁王はにやにやと笑っている。
「いや…それが、本当に可愛くてな…ん?」
本気か冗談か、ノロケまで始めようとしていた仁王が、ぴくんと身体を震わせ、ポケットから携帯を取り出した。
流石に学校内ではマナーモードにしている為、バイブレーションに反応したのだ。
誰かからのメールが届いたようだが、その内容を確認すると、仁王は実に楽しそうに笑った。
「ああ、やっぱりなぁ」
「? 今度は何です」
「いや、何でもない。柳生よ、もしまたおつかいがあったら俺が行ってやるき。今度からは礼はいらんよ」
「…何だか、物凄くお断りしたい気分ですね…・理由は分かりませんが」
「そりゃあ残念」
くっくっと笑う詐欺師は、閉じた携帯を大事そうにポケットへと戻す。
その最後の画面には、絵文字も混じった短い文が綴られていた。
『早速ですが、来月の一週目にテニスラケットの新作が入荷するそうですよ。P.S 体中が筋肉痛でうまく歩けませーん!』
了
前へ
仁王main編トップへ
仁王編トップへ
サイトトップへ