おててにぎにぎ


 或る日の放課後
 その日の部活動を終えた立海大附属中の男子テニス部レギュラーメンバーが、帰り道の途中にあるドラッグストアに立ち寄っていた。
「おっ、これ安い…・っても風船ガムじゃないんだ、どうしよう」
「そろそろウチのシップ、在庫切れそうなんだよな〜〜」
 丸井とジャッカルがそれぞれの目的の品を見つけてあれやこれやと悩んでいる隣では、幸村が物珍しそうに店の中を見回している。
「蓮二は何を見ている?」
「栄養ドリンクの成分をちょっとな…・今後の新作に役立てられないかと。弦一郎は何か気になるものが?」
「丁度、プロテインを切らしていたからな。馴染みのものがあればいいんだが」
 真田と柳が同じく話に花を咲かせている向こうでは、切原が目薬を色々と見て回っている。
「えーと…すぐ効いてしみないヤツ…何が何だかわかんねーなー」
「最近のドラッグストアって、本当に何でも置いてあるんだね…俺はあんまりこういう店には来ないから、見てるだけでも面白いよ」
 にこにこと笑いながら、近くの籠に入れられていた入浴剤セットを取り上げて見ていた幸村に、近くの若い店員から声が掛かった。
「キレイなおねーさん、安いよ。おまけしとくからどう?」
「………・」
 周囲のレギュラー一同が全員、例外なく硬直する。
 確かに、幸村はスポーツをやっている人間の割には華奢で、女顔で、更に言うと美形の部類に十分入るだろう。
 だがしかし、根本的に間違っている。
 おねーさんではなく、おにーさんです…・・と訂正したいところだが、誰もが敢えてその現場から視線を逸らして無言を守った。
「…」
 当人の幸村は、その店員にくるっと顔を向け、にこにこっと惜しみない笑顔を向けて言った。
「おねーさんじゃないけど、まけてくれる?」

 笑顔の脅迫キタ――――――ッ!!

 その他の面々の心の中に、悲鳴にも似た声が上がる。
 視線は恐怖のために向けられないが、あそこの現場には今、見えない猛吹雪が吹き荒れてることだろう。
(おまけするだろうな…)
(そりゃもう嫌ってぐらい値切ってくれるだろうな…)
(でも幸村、もうここには来ないだろうな…・)
(制服を着ていてあれを言われては…・)
(気の毒に…・寿命が十年は縮んだぞ、あの店員)
(よく見ずに声を掛けるから…・)
(心中、察するが…自業自得だな)
 程なく、紙袋に山盛りの入浴剤やら洗剤やらを抱えた幸村が、やはり笑顔のままで向かってきた。
「沢山おまけしてもらっちゃった。お母さん達へ良いお土産になったよ」
「…それは良かった」
 真田が無難な言葉を選んで声を掛けている陰で、こそこそと切原が柳に話しかける。
「あの内、どんだけがおまけなんですかね…」
「データ的に、向こうが赤字になったのは間違いないな」
 いいお店だね、と幸村が話している少し向こうでは、早めに避難していた仁王と柳生二人が、一つの棚の前で新たな話題に意識を向けていた。
「柳生、ハンドクリームか?」
「ええ、丁度切れそうなので購入しておこうかと」
 テニスをする人間は、当然、手を大事にしている。
 冬ともなれば手も荒れやすくなり、普段より一層のケアが重要になるのだ。
 無論彼らもその例には漏れず、いつでも最良の状態でラケットを握れるようにと、手入れは入念に行っていた。
「そう言えばお前さん、最近お気に入りが出来たと言っとったが?」
 柳生は暫く棚を見ていたが、残念そうに首を横に振った。
「やはりこういう所には置いてないようですね。外国製のものなんですが」
「ああ、そりゃあ期待出来んな…どんなんじゃ?」
 純粋な興味で仁王が相手に尋ねると、彼はごそっと自分の鞄の中を探って、一本の小さなチューブを取り出した。
 緑の外装で、外には何やら小さなアルファベットが並んでいる。
 既に形はぺったんこで、中身は殆ど無いだろうと言う事が伺えた。
「香りも良くて、肌に良く馴染むんですよ。最初は母がくれたんですが」
「ほう…」
 受け取り、キャップを取った仁王がくん・・と香りを嗅ぐと、確かに不快ではない。
「…カミツレ、かの」
「そうです」
 言い当てた仁王は、くんくんと更に匂いを嗅いで、柳生に尋ねた。
「ちょっと、塗ってみてもええか?」
「どうぞ」
 あっさりと許してくれた相棒に礼を言うと、仁王はチューブの出口近くを押して、まだ残っていた分を手の甲に乗せた。
 白いクリームが出てきた途端に、ふわんと微かなカミツレの香りがまた鼻腔をくすぐった。
「ほう、のびもいい…変なものは下手すればラケットを握るのも苦労するが、これはベタつく感じもないし」
 自分の両手に擦りこみ、指を広げてみたり感触を確認していた仁王だったが、随分とこの品物については気に入った様子である。
「置いてある店は知っていますから、今度は仁王君の分も買ってきましょうか?」
「そうか? 助かる」
 相棒の好意に甘える形で、仁王は新品を買うことをすぐに決定する。
 自分の分も、この調子だとあと二週間もしない内になくなりそうだったのだ。
「はい。ああ、それ、いるのなら差し上げますよ?」
「いや、そこまでは…・」
 いい、と断ろうとした仁王が、一瞬、ふ・・と表情を消し、じっとチューブを見つめた。
 せいぜいもう一回分ぐらいが限界だろうそれを見つめ、二秒後に顔を上げると、
「…やっぱり、貰ってもいいか?」
と訂正した。
「ええ、どうぞ。そこまで気に入ってくれたとは、私も嬉しいですよ」
「すまんの」
 親友ににこ、と笑って礼を述べた仁王は、受け取った殆ど空のチューブを自分の鞄に入れて、外からぽん、と軽く叩いた。


 日曜日…
「おーう、絶好の詐欺日和じゃ」
 朝、窓から外を見て快晴の空を確認した仁王は、いそいそと出掛ける準備を始めた。
 今日は立海テニス部の活動も休みで、完全なオフ日である。
 メンバー達と何処かに集う予定もない。
「さて、折角こんなに良い天気じゃし、誰か騙しに行こうかの〜」
 折角こんなに良い天気なのに、そんな事しか考えられないのか、という誰かのツッコミが入りそうだが、無論、気にするような男ではない。
 RRRRR…・
「ん?」
 携帯の着信音が鳴り響き、仁王は腰に付けていたポーチからそれを取り出した。
(誰じゃ?)
 相手が誰であろうと、つまらない用事だったら速効で断るのが彼の信条である。
 特に、こういう貴重な休日の日であるのなら尚更に。
 しかし、液晶表示に示された相手先の名前を見ると、仁王はいつもの彼より動作も機敏に電話に出た。
 他人が見てもそうだとは気付かない程度の行動ではあったが、普段の仁王にしては珍しいことである。
「・・おう、おはようさん。元気か?」
 電話の向こうにいる相手に挨拶し、呼び掛ける声も気さくで、どうやら彼にとって、望まざる相手という訳でもなさそうだ。
「何じゃ、いきなり珍しいの……・え?」
 何かを向こうが話し続けるのを、仁王は暫く部屋の中で立ったまま聞いていた。
 ふむ、ふむ…と時折、相槌を入れながら最後まで聞き終わり、彼はにやっと唇を歪めた。
「そうじゃなぁ、やってもええが、タダでは出来ん」
 そして、おそらく向こうの問い掛けの間を挟み、続けた。
「一億よこせとは言わん。終わった後、茶の一杯でも御馳走してもらおうか」


 朝の電話から約二時間後…・
 仁王は、都内の或るスポーツクラブ経営のテニスコートにいた。
 いつもの愛用のテニスバッグを肩から下げ、受付がある建物に入ると、受付嬢の『いらっしゃいませ』という声が掛けられる。
 そして、その声からさして間を置かず、
「仁王さん!」
と自分を呼ぶ声が聞こえた。
 誰なのかは見ずとも分かる。
 今日、ここに自分を呼んだ電話口の相手だ。
「よう、竜崎」
 声のした方へと振り向き、仁王は笑う。
 既にテニスウェアに着替えたおさげの少女が、嬉しそうな笑顔でこちらに向かって走ってくると、彼の前で止まり、そのままふかぶか〜とお辞儀をした。
 青学の一年生女子、竜崎桜乃だ。
 奇妙な縁で立海のレギュラーメンバーと懇意になった彼女は、無論、仁王とも仲が良く、先輩としてテニスについて相談をすることもある。
 そして今日は、桜乃が出る予定の女子テニス部の親善試合が近いということで、彼女が仁王に直々の特訓をお願いしたのだ。
「あの…こんにちは! 今日は、来て下さって有難うございます」
「おう、準備がええの。しかし、すまん、ちょっと電車が遅れてしまってな…待ったか?」
「あ、全然大丈夫です。来て下さっただけで凄く嬉しいですよ」
「…そう言われると、流石に照れるの」
 真っ直ぐな言葉は、詐欺の毒に浸した言葉の様に人の心に巧妙に入り込み、隙を狙ってくるような器用な真似は出来ない。
 ただ、真っ直ぐなのだ、しかし強い力で問答無用に突き刺さる。
 その威力を知っている仁王は、自覚も何もない相手を困った様な笑みを浮かべながら見つめた。
(確かに、誰かを騙すつもりではあったが…・こりゃまた一番の難敵じゃのう)
 しかも、自分自身がそれを面白いと思っているのだから始末に負えない。



仁王main編トップへ
仁王編トップへ
続きへ
サイトトップへ