「だって、折角のお休みなのに、来て下さいましたから…すみません、無理言って」
「ああいや…試合が近いと、とにかく身体を動かしたくなる気持ちは俺にも分かる。壁に向かって打ってもつまらんしな。しかし青学の奴らが遠征中とは、タイミング悪かったな」
「はい、帰りは随分遅くになるみたいでしたから…」
「…………」
 微かな笑みを浮かべ、視線を横に逸らしている男をじーっと見つめて桜乃が指摘する。
「…コテンパンにのされて帰ってきたらいい…って思ってませんか?」
「いやいや、しっかり頑張って、戦って勝てばいいと思っとるよ?」
 即答する仁王に、む〜っと疑いの視線。
「…ホントですか?」
「ああ、ホントじゃよ」
 仁王の笑顔は全く動揺しない。
 真意か虚偽か見破るには、桜乃の眼力はあまりに幼く、純粋過ぎた。
「……じゃあ、信用します…けど」
「けど?」
「…嘘でも本当でも、ちょっと恐いですね…よく考えると」
「ひどい言われようじゃの。折角、お前さんの相手になりに来たのにのう…」
「きゃー! ごめんなさいっ!!」
「はは、冗談じゃよ」
 慌てて謝る相手の姿がおかしくて仁王は声を上げて笑い、ぽんぽんとその小さな頭を軽く撫でるとそのまま手をひらっと振った。
「じゃ、俺も着替えて来る」
「あ、はい・・じゃあ、コートで待ってますね」
「おう」


 それから十分後には、コートの上で、立海のテニスウェアを着た仁王と、青学のテニスウェアを着た桜乃が打ち合いをしている姿があった。
 周囲の目も先程からこの二人に向けられており、結構目立っている。
「女子の方で打ち合う奴はおらんのか?」
 ボールを返しながら仁王が声を掛けると、桜乃も必死に追いついて打ち、そして声も返す。
「してますけど…! 手の内知られちゃうから、断られたりもするんです」
「修行が足りんな、逆に騙す絶好のチャンスじゃろ?」
 軽い口調で話す仁王に対し、桜乃の方は結構きつそうだ。
「仁王さんみたいに出来る人…そんなにいませんよっ!」
「そうかの」
 男子と女子の違いは無論のこと、レベル差もまるでお話にならない二人だ。
 仁王が本気になって打てば、桜乃のラケットなど一発で弾き飛ばされるだろう。
 今、左利きの仁王は敢えて右腕を使って桜乃の相手を務め、更にかなり力も加減しているのだが、相手の少女はその彼にすら追い付くのに必死だ。
 しかし、仁王は決して甘いボールは送らず、ギリギリ彼女が受けられるだろうレベルのボールを敢えて打った。
 同レベルの人間には出来ない高度な調節…それこそ仁王ぐらいの技術がないと難しい技だ。
「あ…っ!」
 遂に追い付けなくなり、ボールを逃した桜乃の声が上がる。
 立ち止まった少女の汗と息さえ熱を帯びていたが、その目はまだ、疲れよりも強い意志を宿していた。
「…辛いか?」
 休憩するか?という仁王に、ぶんぶんと首を激しく横に振って拒絶する。
「いいんです…・動いてたほうが、安心するし…・強い人とやったら、自分が駄目なところ見えてきそうだから…お願いします、やれます」
「…良い根性じゃ」
 見た目はひょろいが根性は結構ありそうだ、ウチの二年生エースに似たところがあるかもしれん。
「……こっちの方が、よっぽど可愛いがの」
「…え…?」
 ぜいぜいと息を整えている桜乃には、殆ど聞こえなかった言葉。
「いや、何でもない…」
 結局、伝えることなく、仁王はラケットを握り直した。
「続けるぞ、動きは確かに良くなっとる。今日中に身体に叩き込んで覚えさせろ」
 厳しい言葉だったが、それこそが仁王の思い遣りでもある。
「はいっ!」
 彼の気持ちを理解している桜乃は、それをしっかりと受け止め、答えた。


 徹底的な特訓の後、仁王と桜乃はコートを出て、喫茶店に入っていた。
 無論、桜乃が仁王に対して今日の報酬を払うためだ。
 仁王の前には湯気の立つカップが置かれ、相対する桜乃の前には、少し前に来ていたココアが置かれていた。
 私服に着替えたお互いは、コートで流した汗をシャワーで洗い流し、さっぱりとした出で立ちだったが、流石に桜乃の顔には僅かに疲れの色が滲んでいた。
「疲れたじゃろ。お前さん、今日はよく休まんとな」
 気遣ってくれる仁王に、桜乃は却って不安げに尋ねた。
「あのう…本当にそれだけでいいんですか? 今日一日、殆ど付きあわせてしまったのに…」
「構わん。俺も十分楽しんだ」
「で…でも、仁王さんぐらいの実力だったら…その、私の相手なんて退屈だったでしょう?」
「退屈だと思うなら最初から来やせんよ?…テニスじゃなくても、来ただろうがのう」
「え…?」
 問い返す桜乃の声をはぐらかすように、仁王はポケットからチューブを取り出した。
 あの柳生から貰った、殆ど空のハンドクリームだ。
 キャップを開け、慣れた手つきで残り少ない中身を己の手の甲に乗せると、仁王は両手にそれをすりすりと擦りこませる。
 二人の周囲にふわんとあの香りが漂い、それははっきりと桜乃にも感じ取れた。
「…いい匂い…」
「柳生から貰った。結構手によく馴染んでな、俺も気に入っとるんよ」
「そうなんですか…」
「お前さんもテニスをするなら、手は大事にせんとな…けど、何だか少し指が赤いのう?」
 見ると、確かに彼女の手は所々、赤みが強い部分があり、言い当てられた少女は両手を重ねて恥ずかしそうに笑った。
「あー…ちょっと皮膚は弱くて。水仕事とか手伝ったりするからかも…クリームは使ってるんですけどね」
「…そうか」
 女性らしい理由にゆっくりと頷くと、銀髪を揺らして、男は自分のチューブに視線を移した。
「これ、試してみるか? 俺が今まで使った中では結構オススメだぞ?」
「あ、いいんですか?」
 良い香りにも惹かれたのか、何となく桜乃が興味津々といった目で見ていた事を見透かした仁王は、チューブを持って彼女の方へと差し出す…が、そのものを渡す素振りはない。
「じゃ、ちょっと手ぇ出してみんしゃい。乗せてやるけ」
「あ、はい…」
 何の疑問も持たず桜乃は右手を差し出し、それを仁王はチューブを持っていない方の右手で優しく取った。
 大きな手と小さな手が重なり合い、一層その大きさの相違を明らかにする。
(わ…大きな手…あったかいし…男の人の手って、もっとごつごつしてるかと思ってたけど)
 意外な優しい力で捕らえられ、柔らかな感触に桜乃がどきりとする。
「よ…っと」
 相手の心中に気付く様子もなく、仁王はチューブを彼女の手に近づけ、中身を押し出そうとする。
 しかし、なかなか出てこない。
 先程、仁王が使ってしまったのが本当の最後だったのだろう。
「ん〜〜…なかなか出てこんの」
「あ、仁王さん、いいですよ。気にしないで下さい」
「そういう訳にもいかん。俺が言い出したことだしな…ああ、そうじゃ」
 遠慮する桜乃に仁王は首を横に振ると、手にしていたチューブをテーブルに置き、空いた手も桜乃へと伸ばした。
「え…?」
 そして彼女の両手を自分の手の中に収めると、すりすりと擦り始めたのである。
「え…っ、仁王さんっ!?」
「俺、さっき塗ったばかりじゃから。これで半分こじゃな」
 少女の紅潮した様子にも気付かないのか、仁王は至極真面目な顔で、相変わらず相手の手をにぎにぎぬりぬりと握ったり擦ったりしている。
「確かに、少し指が荒れとる…・水仕事も頑張っとるんか、偉いのう・・よしよし」
 いたわる様に手を触れ合わせ、褒めながら頷き、とても優しく笑う。
 そして、指と指を絡めるようにして、その間にあるクリームの成分も二人で分け合った。
「〜〜〜〜〜〜!!」
 絡み合う手に桜乃の顔はいよいよ真っ赤になり、言葉も閉ざされてしまう。
(きゃああぁぁ〜〜〜〜〜〜!)
 仁王の、その名の通りのお手入れによって徐々に桜乃の手がしっとりと潤いを帯び、ほこほこと暖かくなってくる。
「ん…結構イイ感じになってきたの・・どうじゃ?」
「あっ…その…はい…すごく…気持ちいいです」
「え?」
 クリームではなく、つい集中して見ていた仁王のマッサージの感想が飛び出してしまい、相手がひょっと顔を上げる。
「あっ!! い、いえ…そのう…」
 どもる桜乃に、仁王はにやっと意味深な笑みを浮かべてみせた。
「…ほーう、いい事を聞いたのう。じゃあこれから竜崎の手は、俺がケアしてやるか?」
「ちょっ…ニヤニヤしないで下さい!」
「お前さん、本当に面白いの。折角じゃ、サービスしちゃる」
「も、もう! 仁王さんっ」
 それからも暫く、桜乃は仁王の手から自分のそれを離すことを許されることはなかった…


「じゃ、今日は有難うございました」
「おう、こちらこそ、ごちそうさん。じゃあ、柳生には俺から伝えとく」
「はい、お願いします」
 笑顔で笑う桜乃を駅まで見送った後、仁王は暫く彼女の後姿を見つめていたが、その視線はポケットに入れられていた例のチューブに向けられる。
「…こんなに早く使うとは思っとらんかったが…まぁ、上出来じゃな」
 お陰で、予想以上に長い時間、少女の手に触れて楽しめたし…・
 柳生にチューブをねだった時から計画していた作戦は、まぁ成功に終わったと言っていい。
「…さて、次はどういう手を使うか…」
 そして、先ずは柳生に、桜乃に頼まれたハンドクリームの追加を頼んでおかないと…
(けど…彼女の分は俺が受け取っておかんとな…誰にも譲るつもりはないし)
 空のチューブ一本で、怪しまれることなく思うまま少女の手に触れた詐欺師は、次なる詐欺を考えつつ、ゆっくりと家路を辿っていった……






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