綺麗な唇
「君って凄いね、人の気持ちを分かってるんだね」
『アイツ、知ッタフウナクチキイテ、ムカツクヨナ』
「何だかあなたってミステリアスよね、素敵」
『何ダカ彼ッテ気持チ悪イワ、恋人ニハシタクナイカモ』
「君のアイデアって斬新だから面白い」
『アノ男、詐欺師ッテ言ワレテルンダロ?』
『ナニ考エテルカ、分カラナインダヨ、アイツ』
彼は人の言葉を盗む
いつでも、何処でも、誰のでも
綺麗な言葉
汚い言葉
有象無象の玉石混合
だけど心に残さない…
「はあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
秋も深まった或る日、二年生の切原赤也はテニス部部室で深い深いため息をついていた。
彼の目の前には、うず高く積まれた教科書の山。
秋という季節の割に、あまり汚れていないのが彼の勉学への熱意を何より顕していた。
「ううっ…何で世の中にテストなんてあるんだよ〜〜」
「言うなよぃ…俺だってブルーになってんだから」
切原から少し離れたロッカーの前では、丸井も珍しく沈んだ顔をしている。
そう、世の中は秋の新作とか、秋限定のスウィーツとか、やたらと賑やかで楽しい話題に満ち溢れているこの季節。
学生には、楽しい楽しい恐怖の期末テストなるものがバッチリ控えているのだった。
立海のテニス部メンバーも例に漏れず、刻一刻と近づいてくる恐怖のテスト期間に、恐れおののいている面子はいたのである。
「取り敢えず、予習復習こなしていれば補習とかとは無縁だろう?」
毎日きっちり学生の義務をこなしているジャッカルは、その言葉の通り学年一番とかは望めないものの、これまではまぁ人並みの成績を修めており、それ程テストを毛嫌いしているという訳ではなさそうだ。
「やればそれだけ自分に返ってくるものです。若い内の努力と苦労はしておくものですよ」
柳生の言葉も、彼の行き方を如実に示しており、無論、彼も生まれてこの方、補習だの赤点だのという不吉な単語とは無縁な人生であった。
「…赤也には、あまりそういう説教は効きそうにないな」
この程度の言葉で発奮してやるような殊勝な性格ならば、真田の拳骨制裁をあれだけ受けることもなく、とっくの昔に品行方正な生徒になっている筈だ…という柳の一言に、全員が頷いた。
「そうだよなぁ…品行方正な…」
「赤也…」
「……」
全員がしばらく無言になり、うち仁王がぐっと相手の手を固く握った。
「そんな赤也はいらんから、是非これからも真田の鉄拳制裁を受け続けてくれ。折れた線香の一本ぐらいはあげちゃるき」
「さんせーい」
「同感だな」
「ちょっともしもし?」
先輩達の理由の分からない激励を受けて逆に嫌な汗をかいてしまった後輩は、目の前の銀髪の男に不審な目を向けた。
「俺は勉強やってないから成績悪いのはトーゼンっすけどね。そーいや仁王先輩ってどうしていつもあんなに順位高いんスか?」
「お前、自分で言ってて空しくならないかその台詞…」
ジャッカルから哀れみの目を向けられた切原は、普段から真面目に勉強している姿を見たことがない銀髪の先輩に疑問をぶつける。
「部活の時はテニスに集中してますけど、いつもは専ら学校中をふらふらしてるじゃないッスか…かと言って、どっかで勉強してる感じもしてないし…」
「ふらふらって…まぁその通りじゃけどな」
別に授業さぼったりとかしている安い不良じゃないぞ、と心で否定する仁王に、丸井もじーっと疑いの目を向ける。
「…もしかして、カンニングとか?」
丸井の言葉に、仁王はあからさまに肩を竦めて渋い顔をする。
「アホ。もしやるなら『俺、今度カンニングするけ』って教師に宣戦布告してからやるぜよ。そのぐらいのハンデを与える程度の度量はあるんじゃ…けどやらん、面倒臭いからの」
(面倒じゃなければやるんだな…)
そしておそらく誰も彼の手管を見抜けまい…と柳は判断した。
「んー…何か納得いかないッス。何か秘訣でも?」
「…まぁのう、読唇術ぐらいは多少心得があるが…確かに、試験が近づいたら屋上に上がる日は多くなるのう…」
食い下がる切原に、仁王は唇を僅かに歪めて、不思議な言葉を呟いた。
読唇術に屋上…?
「屋上で勉強してたんスか?」
「いや? ぼーっと景色を見とっただけよ…での、あそこからじゃと、職員室がよーく見えるんよ」
「はぁ」
「休みともなると、色んな先生が日光を求めて窓際で一服しとってな」
「へぇ」
「『いやいや先生、どうですか授業の方は?』『いやー、相変わらず自分はペースが遅いので、配分が大変ですよ』『そういえばそろそろ期末試験ですなぁ』『ええ、問題も作成しないといけませんから教師も忙しいばかりで…今回の二年の問題は特に(以下自主規制)を出そうかと』『ほう、三年生の英語の範囲では…(以下自主規制)という問題を…』」
微妙に声色まで変えて再現してくれた仁王に、切原と丸井がダッシュで縋りついた。
「仁王先輩っ!! その以下自主規制のトコロを是非解禁にっ!!」
「人助けと思ってっ!!」
「ん〜〜〜、どーしよーかのー」
二人に縋られた仁王が天井をぼーっと眺めているところに、会話の中に新たな参加者が加わった。
部長の幸村と、副部長の真田が入って来たのだ。
「…お前ら一体ナニをしとるんだ」
「げっ、真田副部長!?」
「何だか、楽しそうだね」
続いて一人の女生徒が顔を覗かせる…竜崎桜乃だ。
「こんにちは」
「おう、竜崎もか」
青学の女子を迎えた部室は、それだけで何となく空気が変わる。
別に元から雰囲気が悪い訳ではなく和気藹々とはしているのだが、彼女が来ると彼らの心が軽くなるのだ。
いつも変わらぬ朗らかな笑顔を浮かべている少女は、厳しい練習に打ち込む部員達の心のオアシスになっているのだろう。
「途中で会ったんだよ。竜崎さん、今度の女子の親善試合にも選手として選ばれたんだって」
幸村のにこやかな言葉に、他のレギュラーも全員笑顔でそれを祝った。
「おう、良かったなぁ」
「すげー、教えてる俺達も鼻が高いよぃ!」
「これに慢心せず、今後も努力を怠らないことだ。お前ならば…まず大丈夫だろう」
「えへ…有難うございます。頑張りますね」
「…」
照れ笑いを浮かべて立海メンバーの激励に答える桜乃に、ふい…と仁王が近づいて、その細く小さな顎を持ち上げた。
「?」
「…お前さん、疲れとるんじゃないか? 何となく、顔色が優れんの…あまり無理しちゃいかんぜよ」
「え…!」
がーんっとショックを受けた顔で両頬を手で押さえた桜乃は、慌てて仁王に縋った。
「わ、分かっちゃいます!? やだ、そんなに疲れた顔してますか!?」
「い、いや…そんなに人生に絶望した様な顔じゃあないが…」
逆に指摘した仁王の方がたじろいだが、他の部員はきょとんとして、二人の様子を見守っていた…一人、幸村だけを除いて。
「? そうか? 俺は別に変わりないように見えるぜ?」
「おさげちゃん、そうなのかい?」
ジャッカル達も信じられないという様子で少女に尋ね、続いて仁王へと視線を移す。
「いえ…それ程酷くって訳じゃないんですけど…そろそろ期末試験ですから、つい夜更かししちゃって。うわ〜〜ん、ショックー…」
「女の子ですねぇ」
「…いずこも同じだな〜」
思い出したくない事を思い出してしまった切原が再び机に伏して力なく呟き、その机の上に、桜乃は自分の鞄をよいしょと置いた。
「今日は主要科目の試験範囲の発表でしたから、鞄も重くて〜。あ、切原さんも頑張ってるんですね」
彼の教科書の山を見て、偉いですと素直に褒めてくる一年後輩の女子に、切原は表向きだけでも良い先輩を演じようと起き上がって胸を張る。
「お、おう! まぁ竜崎も、何か分からないことがあったら俺に…」
『………』
その背後から、切原の先輩達からじ〜〜っと冷たい視線…
「分からないことがあったら…」
『………』
更に冷たい視線…
「…ああ手伝ってやるよ先輩達への取次ぎぐらいは! まかせとけちくしょーめ!!」
「わぁ、有難うございます」
無邪気に礼を述べる桜乃の前で、背後の無言の脅迫に屈した切原がわなわなと肩を震わせ、その彼を当の先輩達は無情な一言で一蹴する。
「うむ、流石に自身の能力は把握しているようだな」
「コケて転ぶのは自分自身のみに留めておいてほしいですからね」
「竜崎まで犠牲にする訳にはいかないもんな〜」
「今に見てろよ先輩ども――――っ!!!」
半泣きになりながら憎まれ口を叩いてみても、否定出来ないところが切原の哀しさだった。
見ていたとしても、今の生活習慣を改めない限りはおそらく何も変わらないだろう…
「…まぁ、あまり根を詰め過ぎないようにね。何となく唇も荒れてるような…?」
「は、はい。ちょっと乾燥したみたいで切れちゃって…今は朋ちゃんから勧められたリップを使って、少しはマシになった感じです。前はもっとかぴかぴだったんですよ」
「そうなんだ」
うんうんと幸村が桜乃に頷きながら談笑している間に、仁王は桜乃の鞄を興味深そうにちらちらと見つめ、彼女に軽く切り出した。
「青学ではどんな教科書を使っとるんじゃ? ちょっと見せてもらってもええかの?」
「あ、いいですよ。でも、ちょっと恥ずかしいですね」
「ああ、教科書だけじゃよ、そんなに怯えなさんな」
「あは、怯えたりなんかしませんよ。仁王さんは優しいですもん」
「……」
自分を評価してくれる優しい言葉に、仁王は僅かに唇を歪めた、が、それと同時に僅かに苦痛の表情を浮かべた事に、桜乃は気付かなかった。
「……」
何かを思ったのか、幸村は肩に羽織ったジャージを軽く握り、部員と桜乃へ視線を送りながら笑顔で提案した。
「ちょっと時間があるから、みんなで竜崎さんに軽いトレーニングをしてあげよう。竜崎さん、どう?」
「え!? いいんですか!?」
「勿論。勉強もいいけど、たまには身体も動かした方が頭もすっきりするし、気分転換にもなるよ」
「わぁ…是非お願いします! 実は、最近は教科書とにらめっこばかりで身体がなまっちゃって」
すっかり乗り気の少女に、真田副部長はうむと軽く頷いた。
「そういう時は非常に怪我をしやすいからな。選手として選ばれたのならば、十分に注意をする事だ。蓮二、少しついてやった方がいいか?」
「そうだな…アップで正しい姿勢を保てているか、見てやろう」
「んじゃ、終わったら俺達も教えてやるぜぃ! おさげちゃんはやる気あるから、教える俺達も逆に気付くこともあるんだよな〜」
「…じゃあ、みんな外に行こうか。仁王も満足したらおいでよ」
「おう」
メンバーと桜乃がぞろぞろと部室からコートへと移動するべく退室していき、最後に出て行く幸村がつと振り向いて仁王を見た。
「…観察力がありすぎるのも、困り者だね…仁王」
「ん? そーでもない。色々見えたら、色々企みも出来るしのう…何かと便利じゃよ?」
「見たくないものが見えてもかい?…恐いよね、それって。でも、あまり深入りしてしまうと、君の方が大変になるかもね」
「……」
答えない仁王にそれ以上何を言うこともなく幸村はドアを閉め、部室の中は仁王一人だけの空間となった。
「……相変わらず恐ろしい奴じゃの…」
俺の心をあっさり読みよった…と仁王は幸村が去った後のドアを暫く見つめ、それから再び教科書へと視線を落としながらため息をついた。
「けどな、大抵の人は裏切るモンよ」
何故って、俺は見てきたから。
興味本位に習得した読唇術がそもそもの始まりだったのかもしれない…いや、元々心が冷めていたのか?
何気なしに学校の友人の唇から言葉を盗んだ時、周りの世界は一変した。
仲が良いと知られていた人達が、陰で互いを罵り合い、愛し合っているとされていた男女は、互いの愛さえ裏切っていた。
知っていた、そういう人間がこの世にいることは知っていた。
だが…この世が「そんな人ばかりである」とまでは、まだ知らなかった。
そして、知識で知っていることと、この目で認めたことはあまりに違ったのだ。
この世は欺瞞に満ちている
自分は、幸いなことに、不幸せだった。
本来ならオトナになる過程で徐々に学んでいくこの世の理を、この年で知ってしまったのは、不幸せだったかもしれない、けれど、人の言葉を盗んで、自分を守る鎧に出来たのは幸せだった。
いつか、自分は人の言葉を盗んでは、詐欺師の言葉に変えていった。
それが、癖になってしまった。
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