人というのは、目の前に敵がいなければあまりに無防備だ。
 その場に当人がいなければ、ちょっとつつかれただけでぼろぼろと本音を唇から零してゆく。
 アノ人ガ……ダケド…デモ……ナノヨネ…
 毒の華の雫のように…悪びれもせず、笑顔のままで。
 その人の唇が、悪意の言葉で黒く黒く汚されていくのを、俺は見ているだけ。
 別に指摘もしないし、責めることもない…ただ、眺め、時に詐欺師の言葉で煙幕を張る。
 それで自分は守られた。
 汚く汚れた唇を持つ人には近寄らず、自分の心は決して見せず、ふらふらと上手く批評を避けて、何も知らない顔をして生きていけばよかった。
 陰でこちらの事を悪し様に罵っていた相手が、自分の前では惜しげもない程に賛辞を述べた時、悲しみよりも怒りよりも、滑稽さが先に立ち、爆笑したこともある。
 それでも、向こうは理由なんて分からなかったみたいだけど。
 嗚呼、醜いな、俺もアンタらも…
 俺が知らないと思って嘘を紡ぐお前も醜ければ、お前が知らないと知って笑顔を浮かべる俺も醜い。
 言葉を盗んで、盗んで捨てて…自分も醜くなってゆく。
 そんな醜い俺でも、この場所は心地よく迎えてくれた。
 誰も汚い言葉を零すこともなく、ただ、テニスに打ち込んでいるだけで…自分もそれに埋没していたらよかった。
 いつしか、彼らの唇を読むことは無くなった。
 やろうと思えば出来るけど…やればやるだけ無駄だから。
 そして、やたらと人の言葉を盗む悪癖も、ここ暫くは抑えられていた。
 詐欺の言葉だけは相変わらず生み出されてはいたけれど。
(…このままで良かったんじゃがなぁ)
 このまま醜いなりに、気の良い仲間達と楽しくやっていけたら良かったのに…
 アイツが来た…竜崎桜乃。
 他の誰よりも彼女の事を見抜けてしまうようになった自分は、気付かなくていいところまで気付いてしまいそうで…相手を知りたいのに、知るのが恐くなった。
 彼女が来てから、自分は毎日、また、醜い己を思い知らされている。
 アイツの言葉を疑って、アイツの心を疑って、その言葉を盗みたくなって…
 信じていたいのに、疑いたくなって…信じていたいから、疑いたくなって…
 信じているから試すのだ、なんて、ご都合主義の一言にさえ縋りたくなって…
 相手のささやかな優しさのこもった言葉にすら、喜びと同時に裏切られる恐怖と、諦めの気持ちが湧きあがる…
「はは…もうダメじゃな…俺は」
 お前の心を確かめたい…そんな気持ちが、もう抑えられないトコロまで来ている…
 もし、お前が俺を裏切り、汚れた言葉を零した時には、俺はまた笑うんじゃろう。
 そしてまた少し…醜くなってしまうんじゃな、凝りもせずに…



 その翌日
 仁王は、部活が始まる前に屋上へと足を伸ばし、外の風を受けていた。
 もう少ししたら、また職員室で先生方が貴重な情報を漏らしてくれるだろう…
 そう思っていた仁王の瞳に、ふと、職員室では見慣れない姿が映った。
「ありゃあ……青学の」
 竜崎の祖母であり、向こうのテニス部の顧問が、立海の女子テニス部の顧問と何か楽しげに談笑している…そしてその隣には…
「…竜崎じゃ」
 あの子も一緒におるんか…
「………」
 彼女すら信じてやれないのかと思いながらも、仁王の瞳は彼女の唇を見つめていた。
 ここからなら、盗むのは容易い…それなら盗んでみようか、一度だけ…
 ダメだという言葉が心に響いたが、仁王はまるで己から傷つくことを、穢れることを望むように、その唇から転がり出る言葉を掬い上げていた。
 もう飽きた。
 もうこんな苦しい思いは続けたくない。
 裏切られるのならいっそここで裏切ってくれ、早くに決着が着くのなら、それでもいい。
 俺のことを罵ってくれ、俺のことを蔑んでくれ。
 今まで俺が見てきた数多の人間達と同じ様に…
『こんにちは』
 何気ない挨拶から始まり、祖母に連れられた少女は、立海の教師の一人と会話を交わしている。
 自分がここにいることも知らずに…
『竜崎先生のお孫さんは、最近、こちらの男子テニス部にも顔を見せているようですね。楽しいですか?』
『はい、とても楽しくてためになります。皆さん、すごくテニスが上手くて熱心で…見習いたいところばかりです』
 きり…と胸が痛んだ。
 優しい言葉で自分達を褒めてくれる彼女を、疑い、盗み見ている自分への良心の罰だ。
 痛いのならばやめたらいいのに、それでも仁王は少女の唇を見つめたまま。
 裏切れば…裏切ってくれたら楽になるのに。
 お前も所詮、今まで見てきた奴らと同じなのだと知ったら…俺は醜くなっても楽になれる。
 お前に下手な期待を抱かずに済むのに…
『テニス部と言えば、アイツもいましたね。仁王君』
 別の教師が話に加わり、あろう事か自分の事を話題に乗せてきた。
『アイツは俺達教師でも、全く理解できない生徒です。テニスは上手なようだが、普段の振る舞いは理解に苦しみますね』
(余計なお世話じゃ、ほっとけ)
 心の中で毒づきながらも、仁王は桜乃の発言に注目する。
 さぁ、誘いがきたぞ、竜崎…お前はどうする?
 やっぱりお前も、その教師達の言葉に合わせて、本音を漏らすのか?
『そうですね…』
 教師の言葉を聞いて、少し考えて…竜崎はにこ、と笑う。
 いつもと同じ…優しい笑みだ。
『仁王さんは、傍にいて、とても楽しい人ですよ。確かに行動は予想出来ませんけど…それが仁王さんじゃないですか? 型に嵌めようとしたら、誰だって窮屈ですよ、きっと』
「!」
 きり…とした痛みが、ずきっと激しい痛みに変わる。
(なん…じゃ、それは)
 何でそこまで俺を受け入れるんじゃ、お前は…
 裏切ればいいなんて思っとった自分が、バカみたいじゃ……
『まぁ、確かにあれがない仁王君は想像出来ませんがね』
『見た目大人しく見えても、結構、厄介者ですよ』
 教師達は苦笑いして相変わらず批評めいたことを言っていたが、桜乃はにこにこと笑顔を崩さない。
『そうですか? 仁王さん、とても良い人ですよ?』
 逆に、何でそんな事を言うのか、と疑問に思っているようにそう言い切った。
『ほれ、桜乃。こっちの話もあるからね。少し席を外していなさい』
『はあい、おばあちゃん』
 祖母と少しだけ言葉を交わした少女は職員室の窓際へと移動して、そこから暇を潰すためにか中庭を眺め始めた。
『どうしてだろ…』
 自分からの観察にはもってこいの場所に、相手はそうと知らずに立ち、庭の木々を見つめながら一言、誰に言うとも無く呟いた。
『…仁王さん、すごく優しくて良い人なのに……私は、大好きだけどな』

 暗転

「…………」
 屋上から、自分がどうやって部室に移動したのかも覚えていない。
 仁王は椅子に力なく座り込み、何も考えられず、全身を弛緩させていた。
 どっぷりと…自己嫌悪の海に漬かってしまった心は、引き上げるのも一苦労。
 しかし、何とか他の奴らが来る前に、いつもの自分を取り戻さないと…
「はぁ…」
 取り敢えず、ため息でもついてみようか…それで何が変わる訳でもないけれど…
(あ〜…とにかく、他の奴にバレんようにせんとな。特に竜崎じゃ。よし、アイツから声を掛けられても、絶対に動揺せんように…)
「仁王さん?」
「っ!!??」
 心の中で言った傍から動揺も激しく、仁王の身体はずざっと椅子から立ち上がった後、数メートルは離れていた。
「わっ…」
 その素早さに、部室に入ってきたばかりの桜乃が驚き、まじっと仁王を見つめる。
「……・」
「……・」
「…どうしたんですか?」
「心の準備がまだ…」
「はい?」
「いや…」
 落ち着け落ち着けと心の中で呪文の様に念じながら、仁王はゆっくりと椅子の傍に戻り、桜乃も彼に静かに近づいた。
「…珍しいですね、仁王さんがため息ついているなんて」
「あ? ああ…何じゃ、それも聞かれとったのか?」
「はい…何か悩み事ですか?」
「いや…まぁ、大したことはないんじゃ。いかんの…部室に入って、少し気が緩んだか?」
 自嘲めいた笑みを浮かべる若者をじーっと下から覗き込むように見つめていた桜乃は、不意に、ふふっと嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「? 何じゃ?」
「部室に入ってつい本音が出るくらい、本当にテニスが好きなんですね。いつもはそんな隙、絶対に見せないじゃないですか」
「あー…いや…」
「…仁王さんがテニスをしている間だけでも、少しだけ肩の力を抜いて、楽しい時間を過ごせたらいいですね」
「……」
 見えるところでも、そうでないところでも、お前の唇は綺麗な玉しか産まないのか。
 仁王の足が動き、桜乃の方へとゆっくりと歩み寄る。
 その身体が密着する程に近づいたところで、彼の上げられた左手の指が、ふ、と少女の唇に触れた。
「っ!?」
「…」
 持ち主が無言のまま、仁王の白く細い指が桜乃の柔らかな唇をゆっくりとなぞってゆき、相手はされるがままに、声を出すことも出来ない。
「…お前さんの唇は、綺麗じゃの」
「…?」
「どうしたら、そんなに綺麗になるんじゃろ…」
 柔らかで温かい唇に触れていると、そこから指を通じて自分の事も清めてくれるような錯覚さえ覚えてしまい、離れたくなくなってしまう。
「……」
「に…仁王…さん?」
 桜乃の唇に触れたまま、そっと顔を近づける仁王の瞳には、いつもの余裕の色はない。
 塞いでしまおうか…
 この綺麗な唇をこのまま己のそれで塞いでしまいたい…
 俺だけのものだと、示してしまえば…
「……っ」

 ダメじゃ

 仁王の顔が寸でのところで止まり、彼は顔を背けつつ指も離した。
 大好き…と言われたが、それは自分に向かってはっきりと言われたものではない。
 これでは、自分の勝手な独りよがりじゃないか…そんなもので、彼女の綺麗な唇を汚すことは出来ない…
 いつか互いの心が通じた時、その時に…
「…仁王さん?」
「すまんの、ちょっと見蕩れとった…」
 詐欺師は、腰を伸ばしながら最後にぎゅっと桜乃の身体を抱き締め、ぽんぽんとその背中を叩く。
「有難うな」
「?」
 お前が一緒にいてくれたら、醜かった俺も少しは変わることが出来るかもしれん。
 有難うな…俺の前に現れてくれて…
 欺瞞に満ち満ちたこの世界にも、お前のような奴はいるのだと、そう教えてくれて…
 俺に…こんな想いがあるのだと、教えてくれて…


 その日の練習が終わり…
「仁王さん?」
「ん? 何じゃ竜崎?」
 もうすっかりいつもの様子に戻っていた仁王に桜乃が声を掛け、すっとその掌に一本のリップクリームを乗せて差し出した。
「はいこれ、予備の分ですけど、あげますね?」
「え?」
 何の事か分かりかねている若者に、桜乃はにこにこと笑いながら説明した。
「仁王さんも唇荒れる方なんですね。これ、朋ちゃんに教えてもらったんですよー。確かに自分でも良い感じに唇が綺麗になって…私の唇を褒めるぐらいだから、仁王さんも苦労しているのかなって…」
「……・」
「だから、おすそ分けであげますね」


「あれ? どうしたの、仁王」
 部室の中に、最後に入ってきた幸村は、一人、リップクリームを前に置いて机に伏している詐欺師に声を掛けた。
「随分疲れているみたいだけど…珍しいね、君がそんな格好で…」
「…幸村」
「ん?」
「…長年、山を見ては難癖つけとるばっかりだった奴が、初めて登山を思い立った時、目の前にチョモランマが現れた場合はどうしたらええと思う?」
(また訳の分からない例えを…)
 何かあったな…と思いつつも、幸村は少し考えた後に相手に応じた。
「…腹を括って登るしかないんじゃない?」
 引き返すとか、山を低いものにするとかいう後ろ向きの考えをする人間は、この部にはいない。
「…やっぱりそうかの」
 頂上は、かなり遠くなりそうだが……


 それから後日、青学で、桜乃にちょっと嬉しいハプニングがあった。
「うわ、桜乃すご〜〜い! 順位が物凄く上がってるじゃん!!」
「う、うん…自分でもビックリしてるんだけど…」
 期末試験の結果発表日、廊下に張り出された成績順位表の前で、多くの生徒達の中で桜乃と朋香が興奮気味に話し込んでいた。
 過去の成績と比べて、桜乃の順位が異常に上昇している。
「何か特別な勉強でもしてたの? 臨時で塾に行ったり…」
「全然! そんな事してないよ…ただ…」
「ただ?」
「…いつの間にか、教科書に貼ってあった付箋のアドバイスの通りにしてみたんだけど…」
「? 何それ」
「うん…やっぱり…」
 仁王さんのお陰だよね…
 付箋で『ここが出る』とか、『ここは注意』と記されたものを重点的にやってみたら、それが見事に試験のヤマで大当たり。
 あれを貼ることが出来るタイミングで、教科書を自分以外で手にしたのは彼しかいない。
 どうやら仁王の成績の良さは、別に読唇術に頼っただけのものではなさそうである。
(本当に、不思議な人だなぁ…)
 まさか向こうにもそんな風に思われているとは露知らず、桜乃は、のんびりとそう呟いていた…






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