互いの誤算


『理想の女性? 駆け引きの上手い奴なら退屈せんで面白そうじゃの』


『いつもお世話になってます。感謝の気持ちを込めて。これからもテニス頑張って下さい、応援して』
「……」
 書いている途中でペン先が止まり、桜乃は、ため息をつきながら机に突っ伏した。
「ダメだなぁ…これじゃあまるでお歳暮かお中元じゃない…何のひねりもない」
 休み時間の間、何度も考えては書き直す作業を繰り返している所為か、頭がぼーっとしてしまう。
 運命の瞬間まで、もう数時間しかないのに……
(…チョコは上手く作れたんだけどなぁ…けど、メッセージが…つけない訳にもいかないし)
 本日は、運命のバレンタイン・デー。
 女性達が意中の男性にチョコや贈り物と一緒に自分の気持ちを伝える日である。
 数多くの乙女の例に漏れず、桜乃もその日、一つの決意を胸に秘めていた。
(うう…でもプレッシャーかかるぅ)
 今日、自分は、放課後に立海大附属中学に向かう予定だ。
 目的は二つ。
 一つは、恒例となった男子テニス部の練習の見学…これは別に問題ない。
 今までも何度もお邪魔しているし、レギュラーの皆さんにもすごく親切にしてもらっているから、困ることはないだろう。
 そしてもう一つの目的…
(仁王さん、受け取ってくれるかなぁ…ううん、受け取ってはくれるだろうけど…チョコだけの話なら…)
 それが大きな問題だった。
 今日、自分は、一人の男性に本命チョコを渡すつもりでいる。
 仁王雅治…言わずと知れた立海のテニス部レギュラーメンバーの一人だ。
 クセのあるメンバーの中でも彼については奇妙奇天烈摩訶不思議、という言葉がぴったりだった。
 悪人ではない、それは間違いないと思う…と言うより優しい人と言ってもいいだろう。
 しかし…一般人としての常識からしたら、かなりかけ離れた場所に存在している男なのだ。
 先ず、何を考えているのかが分からない。
 表情や言動からそれを推測しようと思っても、思った傍から裏切られてしまう。
 『コート上の詐欺師』という異名を持つ男ではあるが、詐欺師的な行動は決してコート上に限られた話ではない。
 右と言って左だったり、左と言って左だったり…そして次第に自分にとっての右も左も分からなくなってくるのだ。
 二手も三手も先を読んで行動するような彼に対し、自分はこれまでの人生、殆どが行き当たりばったり。
 敵う筈もないのである…のに、いつの間にか好きになってしまった。
 いや、よく考えたら彼の読めない行動を気にしている内に、見えない罠に掛かってしまったのかもしれない…彼にそのつもりは無かっただろうけど。
 そんな彼の女性の好みを立海で偶然聞くことが出来たのだが、よりにもよって、自分とはまるで正反対のタイプ。
 きっと、彼へのバレンタイン・チョコは多くの女性達の奇策に満ちたものになるだろう…が、自分にはどうしてもそいういう器用な真似が出来ない。
 その時点で、自分はスタートラインがかなり後方に引かれていると言っていいだろう。
「……」
 しかしそれでも、例え半周遅れでも、この気持ちだけはリタイアさせる訳にはいかない。
 桜乃は、覚悟を決めた様子で何かをカードに記すと、それをきゅっと二つに折り畳んだ。
(…気付いてくれるかな…)


 放課後、立海のテニスコート
「あ、幸村さん、これ、受け取って頂けますか?」
「やあ竜崎さん。バレンタインのチョコ? どうも有難う、喜んで頂くよ」
 立海に到着した後、桜乃は早速お世話になっているレギュラー達に、手作りのチョコレートを配って歩いていた。
 皆、一様に喜んで礼を言ってくれたのだが…
「…あれ? 仁王さんは…」
 肝心の仁王本人が見当たらず、桜乃はきょろきょろと辺りを見回したが、それらしい人物はいない。
 一瞬、柳生に化けているのでは…とも思ったのだが…
「ああ、仁王ならさっきまで教室に監禁されていたからね、少し遅れるかもしれないよ。まぁ、すぐに抜け出してくるだろうけど」
「かっ、監禁!?」
 何で学校でそんな物騒な事を!?と驚く少女に、幸村が笑って首を横に振った。
「いや、本当に監禁されている訳じゃなくてね…バレンタインだから、色々な人達に囲まれているんだよ」
「ああ、成る程……」
 納得しかけた桜乃は今度はまじまじと幸村を見つめ、その視線から、彼女の意図するところを察した美丈夫が苦笑した。
「俺は最後の授業が男女別れての体育だったから、そのままコートに避難してきたんだ。チョコを貰えるのは感謝するべきことなんだろうけど、あの混雑はちょっと苦手でね」
「…納得です」
「ふふ…あ、噂をしたら、だね」
「?」
 幸村が指差した方角を見ると、桜乃が探していた人物が、両手に大きな紙袋を持って気だるそうに歩いてくるところだった。
 彼も既に自分達の存在を確認していたのか、最初から真っ直ぐこちらへと向かってくる。
「よう幸村、竜崎もよう来たの……ん、元気そうじゃな」
 傍まで来ると、仁王はひょいっと桜乃の顔を覗き込み、顔色を確認して笑いながらうんうんと頷いた。
 本当にこうして見ると、普通のテニス好きの若者なのだが…
「やあ仁王、お疲れ様」
「こ、こんにちは、仁王さん」
 ぺこっとお辞儀をした桜乃はそれに伴い視線が下に向き、仁王の持つ紙袋の中身を見て唖然とした。
 幾つあるのか想像もつかないチョコの山…
 確かに沢山貰うだろうとは予想していたけど…こんなに?
 私、もしかして…かなり無謀な事しようとしてるのかも……
 数に押されて弱気になっているところに、うんざりといった仁王の声が聞こえてきた。
「はぁー、参った…いきなり告白されて、その上キスまで迫られての…ああいうんは逃げるが勝ちじゃよ」
(ええ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?)
 そこまでしないといけないの!?
 仁王さんのファンって…私なんか足元にも及ばない程、過激〜っ!!
「そんな人までいるの? もてるね、仁王は」
「お前さんが言うんかそれを…幾ら俺でもロクに知りもせん奴らに唇許すほど無節操じゃないぜよ、ああ、ぞっとした。かといって、受け取らんと言ったら泣き出す奴もおるし…かなわんの〜」
「流石の『コート上の詐欺師』でも、女心は手強いか」
「……」
 幸村と仁王の会話が最早半分程度しか耳に入っていない少女は、それからも呆然とし、言葉もなく俯く。
 相手がキスを許さなかったのは良かったとしても…何か色々とショックで、チョコを差し出す気力が…
「…どうしたんじゃ? 竜崎」
「あ、いいえっ…何でも…」
「ちょっと、竜崎さんには刺激が強すぎる話だったかな。あ、そう言えば、君、まだ仁王にはチョコ…」
「しっ、失礼しますっ!!」
 幸村が肝心の話題を振ろうとしたが、寸でのところで桜乃は相手の言葉を封じると、手渡す筈だったチョコを持ったまま、すたたたっとその場を離れてしまった。
 渡すつもりではあるけれど…今はちょっと精神的に無理っ!!
「…行っちゃったね」
「何じゃ、せっかちじゃのう…ん?」
 ふと、仁王は幸村が手にしていたチョコレートの化粧箱に目を留めた。
「…幸村、それは…」
「え? ああ、さっき竜崎さんから貰ったんだ。君以外のレギュラーもみんな貰っているみたいだし、仁王にもてっきりここで渡すかと思っていたんだけど…手元に無かったのかな?」
「…ほう」
 興味深そうに、仁王は幸村の手にあるチョコから、桜乃が向かった方へと視線を向けた。


「あ〜〜〜〜…びっくりした」
 部室に入る気にもなれず、少し外に出たまま頭を冷やそうと、桜乃は部室の裏まで足を伸ばした。
 ここなら、多分誰にも見られないし…この赤くなった顔も。
 それにしてもあんな大胆な行動にも出る女性がいるというのなら、自分のチョコなど有象無象の中でもみくちゃにされて、存在すら気付かれないまま終わるかもしれない。
 覚悟は小さくなかった筈だが、やはり敵は更に大きな存在だったかも…
「ああ、でもやっぱり、さっき幸村さんの誘導に乗って渡していたら良かったかも…あんなに変な形で抜けちゃったから、今更渡し辛いなぁ…よし、こうなったら部活が終わって帰る時にさりげなく…」
 頭の中で彼女なりに挽回の時を画策していた時だった。
『うう…』
「…?」
 何か、今…変な呻き声の様なものが聞こえた。
「え…?」
 まさか、と思い、耳を澄ましてみると…
『う…』
 確かに聞こえる!! 空耳じゃない!!
「えっ!」
 部室は窓も閉まっているし、この厚い壁を通してのものではない。
 自然と桜乃は部室の建物のすぐ側に面している公共の道路へと注意を向けた。
 無論、道路と敷地が何の隔たりもなく存在している訳ではなく、そこには外界との境界を示す形で、目隠し用の木々と金網が存在していた。
 先ず木々を抜け、金網の隙間から道路を見た桜乃は、すぐ傍、向こう側の金網の傍でうずくまっている老年の女性を見つけた。
「どうしたんですかっ!?」
 きっと、さっきの声はこの人のだ!
 二人を隔てている距離が短かったのが、この場合は幸いした。
 もしもう少しでも離れていたら、声すら聞こえなかった筈だ。
 直感した桜乃は、きょろっと辺りを見回して、近場に出入り口がないと判断するとすぐに金網を乗り越え始めた。
 それ程に高くないから、多少無理をしたら女性の自分でも大丈夫…
 スカートだけど、今は誰もいないし…とは言え自分も女性のはしくれ、部室の影になっている所で良かった。
「…っしょっと!!」
 金網を乗り越えてようやく老婦人の傍に駆け寄り、彼女の肩に手をかける、とそのしっとりした感触に桜乃は大いに驚いた。
 まるでシャワーを服ごと浴びた様にびっしょりと濡れている。
「あの…どうしたんですか!?」
「す、すみません…なにか…甘いものを、下さい…」
 意識ははっきりしているらしいが、口調はたどたどしく、普通の状態でないことは確かだ。
「甘いもの?」
「多分、発作です…甘いものを食べたら、すぐに良くなりますから」
「? は、はい…」
 何かよく分からないが、それが改善の切っ掛けになるのなら…と、桜乃は丁度持っていたチョコの包装紙を破って箱を開くと、中身を相手の口元に持っていって食べさせた。



仁王main編トップへ
仁王編トップへ
続きへ
サイトトップへ