「どうぞ」
「有難うございます…少し、ここにいます。身体が動かなくて朦朧と…」
「じゃ、じゃあ、やっぱり病院に行った方がいいですよ! 私、すぐに呼んで…!」
「竜崎?」
不意に呼びかけられた桜乃が、はっと振り仰ぐと、金網の向こう…コート側から、銀髪の若者が自分の姿を見つけて歩いてきている所だった。
「外におったんか、何して……っ! どうしたんじゃ!?」
いつもの口調から、こちらの状況を確認したところで彼も歩みを速め、緊張を増した声に変わる。
「良かった、仁王さん! すぐに救急車を呼んであげて下さい! 何か、発作が起こったらしいんです。私、ここについていますから…」
「分かった。待っとれ、すぐに呼ぶ」
銀髪の若者がコートの方へ走って行ってから間もなく、すぐに他の部員達も揃ってこちらの道路へと回り込んで来てくれた。
先頭に立って先導しているのは当然、仁王だ。
「どうじゃ? 竜崎」
「あ…はい、今のところは…」
がやがやと、辺りが少し賑やかになる。
「……ははぁ、多分、低血糖の発作ですね」
「低血糖?」
桜乃から大体の経過を聞いた柳生が、うん、と軽く頷いて簡単に説明してくれた。
彼は医師ではない…が、父親がその職業であり、その背中を見て育ってきた為、専門的な知識とはいかないまでもかなり確率が高い推測が可能だった。
「ええ、糖尿病の方の、薬の副作用で時々起こるんです。発作と言いますが、その場合、糖を摂取しさえすれば、血糖も元に戻りますので、大事には至らないでしょう…ああ、やはり汗をかいていますね、低血糖の発作でよく見られる症状なんです」
では、あの濡れた感触は汗によるものだったのか…と桜乃は納得しながら、また、脇に置いた箱の中のチョコを婦人に与える。
「さぁ、どうぞ」
「有難うございます、随分、楽になりました」
確かに、最初に見た時よりかなり言葉もはっきりしてきており、顔色も良くなっている。
そうこうしている内に、救急車が到着し、婦人はそのままかかりつけの病院に搬送されることになった。
「お大事に」
何度も感謝を述べる老婦人を見送り、救急車がサイレンを鳴らしながら去っていった後には、また普段と同じ景色、同じささやかな喧騒が戻って来て、桜乃は我に返ると部員達に頭を下げた。
「すみません、お騒がせしてしまって」
「何を言う、お前はやるべきことをしっかりとやったのだ。人を助けたのだから、胸を張れ」
褒めてくれた真田に対し、桜乃はでも…と苦笑する。
「殆ど、柳生さんがお力添えをしてくれましたから…仁王さんもすぐに救急車を呼んでくれて、傍についていてくれて…私一人だったら、きっともっと取り乱していたと思います」
あくまでも控えめで、決して驕る事のない少女に、皆はただ感心する。
「いえ、貴女の初期の対処が早かったからですよ…しかし、よく手元に甘いものがありましたね。不幸中の幸いです」
「あ、それは…」
応えようとした桜乃が…
「……」
無言になった。
そして、そのまま見る見る真っ青になってゆく。
「? どうしました?」
「い、いえ…別に、何でも…」
ぱたぱたと手を振って誤魔化しつつ、少女は心の中で悲鳴を上げていた。
(どうしよおおおぉぉぉ〜〜〜〜〜〜〜っ!! 咄嗟に仁王さんの分のチョコ、開けちゃったぁ〜〜〜〜!!)
部活動が終了した時に、改めて覚悟を決めて渡す筈だった本命チョコが、見るも無残な姿に…
いや、決して酷い見た目ではないのだが、綺麗に包んでもらった包装紙は慌てていたから破ってしまったし、無論、箱の中のチョコは殆ど残っていないし、そして何より…
(…ああ、やっぱりない…書いてたメッセージ)
箱の外側のリボンに挟んでおいたメッセージカードは、もう姿が消えていた。
箱は手当てをしている間は道の脇に置いてあったのだが、おそらく屋外でのこと、風に飛ばされていってしまったのだろう。
いずれにしろ、もうこんな外観になってしまってはプレゼントするどころの話ではない。
「……少し疲れたようじゃな、無理はせんほうがええ」
桜乃の様子を気遣った仁王の言葉に、他の男達は、ああ、と納得した様子で頷いた。
確かに…いきなり急病人に会って、これまでずっと付いていたのだ、極度の緊張で酷く疲れてしまったのだとしても何ら不思議はない。
「だ、大丈夫ですよ」
気を遣ってくれているのが仁王本人だという事実に、更に桜乃は申し訳なさで一杯になる。
そんな彼女の心中を知ってか知らずか、仁王はふいと顔を上げて幸村達に申し出た。
「ちょっと心配じゃ、みんなは先に行ってくれ。俺は少しゆっくりこいつと行くけ…なに、すぐに追いつく」
「…そうか、分かった。確かに大勢でいても却って落ち着けないね…行こう、みんな」
仁王の申し出を受けて、幸村はすぐに頷いてそれを了承すると、他のレギュラーに指示を出す形でその場を離れていった。
そして後には、少しゆっくりと歩く桜乃と仁王の二人だけになった。
「あの…仁王さん…」
「気にせんでええよ、丁度いい休憩じゃ。俺のためにもゆっくり歩きんしゃい」
「はぁ…」
仁王の為に…とは言うが、実は自分の事を思っての言葉に決まっている…
読めない彼でも、流石にそのぐらいは分かるようになっていた桜乃に、相手が不意に尋ねた。
「少し小腹が空いたの…貰っていいか? それ」
「は? え…これ、ですか?」
桜乃が差し出した、例の本命チョコ…だった物に、男はうんと頷いた。
「余ってないか?」
「い、いえ…ありますけど…」
「じゃあ、貰うぜ」
「あ…」
す、と彼は箱を桜乃からさりげなく受け取ると、早速、蓋をぱかりと開けた。
「ほう、美味そうじゃな。手作りか?」
「はい…」
「そうか、どれ…」
ぱく、と一つを口に入れて味わう仁王に、桜乃は覚悟を決めて向き直った。
もし自分がこのまま言わないでいたら…きっと後で彼が傷つくことになる…
他のメンバーにはあげておいて…彼だけにそれがないなんて…
それにどうせあのカードはもうない…それなら自分が名乗っても、問題ないだろう。
「あの、仁王さん」
「ん?」
「…ごめんなさい…それ、本当は、仁王さんにあげるための物だったんです」
「……」
きょとんとする相手に、更に申し訳なく思い、桜乃は深々と頭を下げる。
「あげようと思っていたんですけど…つい、咄嗟にあの時…本当にごめんなさい、決して、あげる気持ちが軽かった訳じゃなくて…あの、また今度、作り直してきますから…」
「……俺へのチョコだったんか?」
「はい…」
「本当だな?」
「はい」
「間違いないな?」
「はい」
「絶対だな?」
「はい……何だか、今日はやけにしつこいですね」
「いや、こういう事はしっかり確認しておかんとな」
「はぁ…?」
どういう事なのかよく分からないが…確かにバレンタインのチョコなら、誰にあげるのかは重要事項だろう。
貰ったと思って、実はそれが他人宛のものでした、などという事になったら、普通の男性なら凹む。
しかし…
「……」
「……」
仁王と桜乃は、暫く無言のままに歩いた。
(仁王さんには何か、そんなイメージ沸かないなぁ…失礼かもしれないけど…)
二人は更に歩く。
「……」
「……」
あまりに相手が無言なので、ふと桜乃が隣の様子を伺うと、彼は何かの紙切れをじっと見つめていた。
紙切れ…紙き…
ずさっ!!!!
鋭い音と共に、桜乃が道端に飛びずさり、目を見開いて仁王を見つめる。
「…お前さん、元気がいいのか悪いのか、よう分からんリアクションじゃの…」
一応本気で心配しとったんじゃが…と言う相手に、まだ動揺を抑えられない桜乃はぱくぱくと口を動かしながら相手の持つ紙切れを指差した。
「に…に、仁王さん…それっ! どこでっ!?」
指差す紙切れは、ただの紙切れではない…あのメッセージカードだ!!
てっきり飛ばされていったと思っていたものが、どうして、よりによって彼の手の中に!?
「箱の隣に落ちとった。こういういかにもな物は、読まんと失礼に当たるじゃろ?」
「〜〜〜〜〜〜!!」
既に無いものとして話してしまったのが、墓穴だった…
その彼女の気持ちを見越してか、仁王はカードを指で挟んだまま、にやりと笑う。
「肝心の宛名が無かったからのう…なかなかのサプライズだったぜよ」
(やられた〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!)
桜乃は今度こそ悟った。
最初から…きっと婦人の手当てをしている時から、彼はこのカードを既に手に入れていたのだ。
箱の傍にあり、その箱が自分の物であるという事実は彼にも分かっていた筈…ならば、このカードが自分によって書かれたということも予想は出来ただろう。
彼が言った通り…このメッセージカードには宛名も送り主の名も記されていない。
忘れていた訳ではない…敢えてそうしたのだ。
彼がこのメッセージを開いた時、このチョコを自分が渡したのだという事実を覚えてくれているかどうか…一つの賭けだった。
しかし、状況が変わり、カードは渡す相手が不明の形のままでこの人の手に…
だから彼は、詐欺にかけたのだ。
カードを隠すことでこちらの油断を誘い、チョコを求めることでその送り先の人物を探ろうとした。
自ら告白しなければ、また別の手で聞きだすなりしていただろう…彼にとっては簡単な事だ。
そして、自分はまんまと詐欺に掛かり、心の中まで暴き出されてしまった…
「う……」
「このゲームは俺の勝ち、じゃな」
「…あんな形で仁王さんに渡るなんて、誤算でした…」
はぁ…とため息をついて、桜乃は俯く。
心が暴かれてしまった以上、隠し立てしても意味が無い…
「…でも、そうでなかったとしても、私に勝ち目なんて無かったですね」
「ん?」
「あんなにチョコが沢山あったら…私のなんか覚えられっこないですよ。きっと他の誰かの…」
「そうかの…簡単じゃよ、俺がお前さんのだけ覚えとったらええんじゃ」
「そんなにあっさり…」
「俺にとっては、一番簡単な事じゃ」
「え?」
尋ねると同時に顔を上げた桜乃の前髪が、さわ…とかき上げられ、額に柔らかなものが押し当てられた。
「……っ!?」
それが彼の唇だと知った時には、もうそれは離されており、いつもの優しい笑顔を浮かべた仁王が、こちらを見下ろしていた。
「…に、おう…さん?」
「お前さんのしか、いらんのじゃ…俺はこれだけで十分じゃよ」
もう空になってしまった箱を掲げた相手に、桜乃は思わず口走った。
「で、でもそれは…っ…私が勝手に…」
「人助けよりチョコを優先しとるような女だったなら、俺はこんな事は言うとらんよ、竜崎」
「っ!」
「…そのままでええんじゃ、お前さんは」
ぎゅ、と抱き締めてくる相手に、桜乃の全身が、かぁっと熱くなり、意識までもが朦朧とする。
「私…だって…私なんか…その…あんな事、書いておいて何ですけど…仁王さんの好みには全然…っ」
「…ああ、駆け引きってトコか?…けど、お前さんも、俺に勝っとる勝負もあるんじゃけどな…分からんか?」
「…分かりません」
「じゃあ、俺も教えん」
「…ずるいです」
「ははは」
桜乃の発言を封じる様に、仁王は更に強く少女を抱き締めた。
(全く…バレンタインで俺が焦るなんて、初めてじゃ。こっちこそここまで夢中にさせられるとは、とんだ誤算じゃよ)
幸村の持つチョコを見て、自分が持っていない事に焦り、箱の傍のカードの中身を読んだ時には更に焦った。
誰が相手なのかと、ずっとずっと胸の奥で嫌なものが渦巻いて止まらなくなった。
これが詐欺にかけずにおられようか…しかし、結局蓋を開けてみれば、自分が一人で勝手に邪推し、想像を膨らませているだけだったのだ。
(…詐欺では勝っても、真剣勝負では負けっぱなし…俺の心をこれだけ掴んでおいて、分かりませんもないもんじゃ、全く)
自嘲気味に微笑んだ仁王は、桜乃を抱き締めながら、あのメッセージカードを器用に指先で開く。
(まぁ、いつかこれを口で言わせてやろうかの…それまでは俺も言わん、せめてもの仕返しじゃ)
『あなたが、とても好きです』
あまりに単純で、素直で、真っ直ぐな愛の告白に、詐欺師もやられたバレンタインデーだった…
了
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