詐欺師の逆鱗


 それは、一本の電話から始まった。


 RRRRR…RRRRR…
「何じゃ、誰もおらんのか?」
 部室の中から聞こえる呼び出し音に急かされるように、レギュラーの仁王は中に入ると同時に備え付けの電話の受話器を取り上げた。
「はい…?」
 向こうの声を聞き、一瞬だけ意外そうな顔をした男は、次にはもういつもと変わらぬそれに戻っていた。
「お久し振りです…いえ、今日はまだ…え?」
 そして少しの時間が経過して後、彼の表情は厳しいそれに変わっていた。
「…そんな筈は」


 その日、立海のテニス部の活動時に、一人の客人が訪れていた。
「竜崎、飲むか?」
「あ、仁王さん…有難うございます」
 その客人に仁王がペットボトルのお茶を差し出すと、彼女は嬉しそうに笑って受け取った。
 竜崎桜乃という、青学の一年生…同校のテニス部顧問竜崎先生の孫である。
 彼女は立海のメンバーとも親しく、その素直で純粋な性格の前では、『コート上の詐欺師』とも呼ばれている仁王ですら調子を狂わされることがあったが、彼は寧ろその刺激を何より楽しんでいた。
「お前さんも、よくここまで来てくれるのう。大変じゃろ?」
「そうでもないですよ、電車を上手く使えば、そんなに時間、かかりませんから」
「そうか…まぁ、俺としてはお前さんに会えるのは嬉しいがな。あまり、帰りが遅くならんようにの。家の人も心配するじゃろ」
「…はい」
「……」
 微かに…相手の笑顔に翳りが差した事実を、仁王は見逃さなかった。
 そして同時に、最後の返事の時に相手がこちらへの視線を逸らした瞬間もしっかりと捕えた。
(…やっぱりのう)
 この子は、嘘をつくのが下手だ。
 会った瞬間にそう感じ、さして時間をおかずに真実であると確信していた。
 詐欺師と呼ばれる自分は、全く逆…嘘をつくことの方が得意であり、馴染みのある行為だけに他人のそれを見破ることにも長けている。
 どんなに相手が上手く取り繕おうとしても、逃れることは出来ない。
 だから…少女が自分に敵う筈も無かった。
 間違いない…この子は何か、後ろめたい事を隠している。
 流石に超能力者ではないので、彼女が何を隠しているのかまでは知ることは難しい…しかし、その事実が分かりさえしたら、後はそれを探るだけでいいのだ。
 問題はその探り方である。
(…嘘は下手な子じゃが、意志はやたらと強いからの〜…無理に言わせるのも俺の流儀には合わんし…)
 問い詰めた挙句、真実を得られないばかりか泣かせてしまった、なんてことになれば、詐欺師一世一代の不覚である。
(…少し、様子見じゃの)
 そこでは敢えて何もそれ以上問いかけることもなく、仁王は会話を打ち切り場を離れた。
「じゃ、俺も試合があるけ、そろそろ行くぜよ。何か困ったことがあったら、すぐに言いんしゃい」
「は、はい、仁王さん」
 素直に返事を返す桜乃の頭を優しく撫でた後、仁王はコートへと真っ直ぐ向かって行った。


 部活動が終了した後、桜乃はいつもの様にレギュラー達に駅まで送ってもらっていた。
 秋から冬にかけての時期は日も短くなるため、辺りはすぐに宵闇に包まれる。
 年頃の女性は特に気をつけなければならない時間帯だ。
「気をつけて帰れよ、おさげちゃん」
「またな」
「有難うございました、皆さん」
 いつもの様に挨拶を交わし、彼女が駅に入っていく姿を見送った後、メンバー達もそれぞれの家路へ向かった…一人を除いて。
 仁王だ。
 彼だけは、家へと通じる道を辿り…そのまま踵を返すと、そっと物陰に身体を寄せ、先程少女を見送った出入り口を見つめていた。
 どれだけそうするつもりだったのかは分からないが、彼がそんな不可思議な行動を取らなければならない時間は、ほんの数分で済んだ。
 鋭い視線を向ける先に、彼が探していた存在が現れる。
 それは、今しがた駅へと送った筈の、桜乃だった。
 何故か彼女は駅の改札口を抜けることも無く、そのまま外へと出て来ると、きょろっと辺りを見回して、元来た道を引き返してゆく。
 その一連の行動さえも仁王にとってはお見通しだったのか、彼は驚く様子も見せずにすぐに影から出てくると、相手に気付かれないように一定の距離を保ちながら後を追った。
 元々つけられているなどと考えてもいない桜乃が、気配を消した仁王の追跡に気付く筈もない。
 きっと彼なら何キロ先まででも尾行は可能だっただろう、しかし、それもそう長い時間ではなく、桜乃は道の途中にある一軒の店に吸い込まれて行った。
「…?」
 その店は、特に何のいかがわしい点もない、ただのファミリーレストラン。
 自分や他の部員達もよく利用しているから、店の雰囲気などもよく知っている。
 その店に入ること自体は別に責められるべきものではないが…何故、今なのだろう。
(まぁ、あの子がいかがわしい処に向かうなんて事はないじゃろうがのう…しかしわざわざ駅からこっそり戻って来る様な場所じゃあない…誰かと待ち合わせでもしとるんか?)
 誰にも見られたくない、何者かとの逢瀬でも企んどるんか…?
「…まさか」
 つい拒絶の言葉を口にして、仁王はそんな自分に気付いて自嘲の笑みを浮かべた。
 こんな場合は、どんな可能性でも頭に入れて考慮するべきだという事は分かっている筈なのに、それすら無意識に排除してしまっているのか…
(いかんの…そんなに入れ込んどるんか、俺は…)
 あの、普通の内気な少女に…
 頭を振って気を取り直し、仁王はそれから暫く外で相手の様子を伺っていたのだが、いつまで経っても彼女の座った窓際のテーブルに新たな客が来る様子はなく、また、彼女も別に誰かを待つ素振りも見せず、手持ち無沙汰に注文したジュースをちびちびと飲んでいるだけだった。
 どうやら、彼女はここで単に時間つぶしをしようと考えている様だ…何故かは分からないが。
(…そろそろ教えてもらってもいいじゃろ)
 わざわざ駅から出てここに入っている時点で十分に追求は可能だと判断し、仁王はいよいよ本格的に行動を開始した。
 自分もまたレストランへと入店し、店員の誘導を軽く断りながら真っ直ぐ桜乃の座るテーブルへと向かう。
「よう、竜崎」
「っ!!」
 呼びかけられ、窓の外からこちらへと視線を向けた少女の表情が一気に強張るのが見えた。
 本当に、嘘をつくのが苦手な、正直過ぎる子だ…
「に…仁王、さん?」
「奇遇じゃの、今頃は電車に揺られとると思っとったが…何しとる、こんな所で一人で」
「あ…その…ちょっと、疲れたからここで休もうと思って…」
「わざわざ駅からここまで歩いてか?」
 問いながら仁王は空いていた彼女の前の椅子へと腰掛けると、じっと相手を真っ直ぐに見つめた。
 もし嘘をつくのに慣れている人間、罪悪感を隠せる人間なら、こちらを見つめながらまた新たな嘘をつくなど容易だっただろう…自分の様に。
 しかし、彼女はそれすらも出来ず、唇を噛んで俯くだけだった…
「…お前さん、前にウチに来た時も、ここで時間潰しとったんか?」
「え…!」
 ぎくっと更に強張る表情が、何より答えを雄弁に語ってくれ、仁王は確信を持って相手に止めを刺した。
「…今日、竜崎先生から電話があったんじゃよ…最近のお前さんの帰宅がやけに遅いってな」
「! おばあちゃんが…」
「もしかして立海の部活動の時間が遅いからかとも思ったらしいんじゃが、それにしても不自然だってことで、確認の電話が入った。俺が受けたんじゃ」
「……」
 真っ青になる少女の視線がテーブルの上に落とされ、それでも彼は続けた。
「こっちもおかしいと思うじゃろうが。俺達の活動時間は別に変更も無いし、ちゃんと駅までお前さんを送っとる…なのに、向こうに帰宅する時間が遅いっていう事は、明らかにお前さんが俺達も知らん行動を何処かで起こしとるんじゃ……ここにおったんじゃな」
「……」
「理由を教えてくれんか」
「!…それは…」
 口ごもる相手は、なかなか真実を告げる勇気を持てない様子だ。
 これがもっと別の問題であったのなら、仁王も特にこだわりなく引き下がったかもしれない。
 しかし、今回ばかりはそう出来ない理由があった。
「…お前さんがこれ以上理由もなく遅れて帰るという事であれば、もう立海に来る事は許可出来んと、竜崎先生が言うとった」
「え!!」
 驚く桜乃同様、仁王もまた、その意見は到底受け入れられなかった。
 だからこそ、この問題は解決しなくてはならない…一刻も早く。
「そ、んな…」
「…言うてくれんか、竜崎。俺は詐欺師と言われとるが、お前が望むなら秘密は守る…それは約束するぜよ」
「……仁王さんっ…」
 仁王の、決して責めるではなく、諭すような言葉はより強く桜乃の心を揺らし、彼女は揺られて零れる涙を瞳から溢れさせた。
「っ…り、竜崎?」
「ごめんなさいっ…そんな事になってるなんて、知らなかった……知らなかったんです、私…皆さんに、そんな迷惑かけてるなんてっ……!!」
 ぼろぼろと流れる涙を拭おうともせず何度も詫びる桜乃に、仁王の方が寧ろうろたえた。
「竜崎、大丈夫、大丈夫じゃけ…! まだ誰も知らん、俺しか知らんのじゃ…な? そう自分を責めんと、ゆっくり話してくれたらええよ」
 言いながら自分のハンカチを相手に渡して、仁王は桜乃を慰める。
 こういう場合でも、俺が泣かせたことになるんじゃろうか…と思いつつ、ぽんぽんと頭を撫でてやりながら、彼は相手が落ち着くのをひたすら待った。
「っく…時間が遅くなったら…ひく…大丈夫だったんです…だから私…わざと乗るのを遅らせて…」
「? 大丈夫…? 何がじゃ…?」
「…嫌だった…恐かったんです…だって、逃げ場がないのに、あの人寄ってきて…私の身体を…っ」
「っ!!」
 そこまで言われた瞬間、仁王のそれまでの穏やかな表情が一変する。
 電車という逃げ場が無い空間で、女性の身体を狙う…その卑劣な犯行を示す言葉は…!
「…痴漢、じゃな」
「…」
 睨むような表情で尋ねる男に、桜乃はこくっと頷いた。
 男としても人間としても蔑むべき行為である。
 無論、仁王もその程度の常識は持ち合わせており、更に、そんな恥ずべき行為が目の前の少女に対し行われていたという事実が、彼の怒りに火を注いでいた。
 よりによって、この子に…
「…相手を見とるんなら、いっそ捕まえて警察にでも突き出してやればどうじゃ?」
「でも…! 私一人だったから…恐くて何も言えなくて…それに、もし警察に言ったら…」
「…言ったら?」
「…恥ずかしいこと、色々聞かれたら…私…駄目です、耐えられません…っ」
 思春期の少女には、男の腕を捕らえて声を上げる事も、第三者から詳細な質疑を受けることも、辛いことなのだ。
 ただ耐えるしかなかった少女の苦しみは、如何ばかりだっただろうか…?
「…そうか」
 瞳を伏せて頷いた男は、ぱちりとそれを開き、ぐい、と桜乃の手を掴んだ。
「え…?」
「行くぜよ、竜崎」
「行く…って…?」
「…俺がそいつを追い払ってやる…辛かろうが、もう一度だけ我慢して乗ってくれんか?」



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