それから桜乃は、仁王に促されるまま、本来乗るべき電車内に身を置いていた。
乗客に揉まれ、いつもの様に車内は混雑している…全く動けない程ではないが。
(仁王さん…)
彼女は今、周りに誰も居ない状況だ。
仁王も間違いなく同じ電車に乗っている筈なのだが、訳あって離れているのだ。
しかしその理由を桜乃は知らない。
『必ず助けに行ってやるけ、少しだけ我慢してくれ。必ずじゃ』
そして、今、もう電車は発車し、目的の都内へと走り出していた。
桜乃は座席の片隅とドアの間に生まれる空間に立っていたが、人の乗降に伴い身体が流され、なかなか一定の態勢を保てないでいた…と、
「っ…!」
来たっ!!
来ないでほしいと願っていたが、それは無残にも打ち砕かれた。
見覚えのある顔…眼鏡をかけた、一見真面目そうな男性…が、すぐ傍まで来ていた。
明らかにこちらに狙いを定め、じりじりと寄って来る男性の視線に怯えながら、桜乃は自分のヘアピンに手をやった。
(仁王さん…仁王さん…!)
前もって決めていたサイン…気付いてくれたら、彼が来てくれる筈…
さわ…
(ひっ…!!)
声はかろうじて抑えたが、心の中で悲鳴を上げる。
(やだやだやだっ!! 触らないで! 仁王さん! 助けてっ!)
スカート越しに、相手の掌がゆっくりと触れてくる。
柔らかで丸みを帯びた臀部を…まるで舐めるように触れてくる手…おぞましさしかもたらさない感覚に、少女は今にも悲鳴を上げそうになる。
恐い…恐い…恐いっ!!
ぎゅっ…
「!?」
突然、桜乃は横から伸ばされてきた手に身体を捕らえられ、続いて誰かに抱き包まれた。
丁度、ドアと座席の脇の、直角になった空間に閉じ込められる形で。
「…あ」
顔を上げると、そこに銀の髪が光っていた。
(仁王さん…)
上から覗き込んでくる瞳と視線が合うと、にこりと微笑んでくれた彼はそのまま桜乃の耳元に唇を寄せた。
『よう頑張ったの…もう大丈夫じゃ…そのまま俺に掴まって』
『え…?』
つい相手につられて小さな声で聞き返すと、向こうは更に笑みを深くした。
『もう誰にも触れさせん…お前さんは、俺だけに掴まっておればええんよ。必ず守っちゃるき』
仁王の言葉の通り、彼の身体が盾となり、あの痴漢の魔手から桜乃の身体を守っていた。
(…仁王…さん…)
テニスをしているところを見ているだけでは、あんなに細く華奢な身体に見えたのに、実際に触れてみたらこんなにも力強い…
『…はい』
相手の『男性』を認識して赤くなりながらも、桜乃は言われるまま遠慮がちに彼の胸の中へと身を寄せた。
(あったかい…それに何だか…凄く、安心する…)
同じ男性である筈なのに、さっきの痴漢の手とはまるで違う…仁王さんには、触れられても構わない…ううん、触れて欲しいとすら思えてしまう…
すり…と身体を摺り寄せてくる少女の姿が可愛らしく、仁王は更にしっかりと相手の身体を抱く。
『よしよし…いい子じゃ』
それから目的の駅に付くまで、桜乃は夢見心地で男の腕の中に抱かれていた……
翌日…
「え? 竜崎さんが痴漢の被害に……!?」
朝錬の合間に、仁王から初めて事実を聞かされた他のレギュラー達は、当然その事実に驚き、怒った。
「何という卑劣な!!」
もし今、真田の目の前にその痴漢がいたら、間違いなく命に関わる制裁を受けていた事だろう。
「本当は内密にしようかと思っとったんじゃがのう…あの子がどうしてもみんなに詫びたいと言うとったから、一応俺から知らせとくことにしたんじゃよ。立海に対する竜崎先生の誤解は解いたし、何より一番の犠牲者はあの子じゃ…あまり責めんでやってくれ」
仁王の申し出に、部長の幸村は即座に首を縦に振った。
「当然、彼女を責めることはないよ。竜崎さんの気持ちを考えたら、取った行動も理解出来る。みんなも、もうこの件については極力触れないでおくこと、いいね」
誰一人反論はしなかったが、そこで何かに気付いた切原が、はいっと右手を上げた。
「で、でも、単に仁王先輩が盾になったぐらいじゃ、向こうは全然凝りてないッスよきっと! もし竜崎が一人で電車に乗ったら、また狙ってくるんじゃないスか? 内気な子っていうのはもう分かってると思うし…」
「そうですね…確かに、またの被害に遭わないという保証はありません。やはり、ここは法の裁きを受けさせた方が良かったのでは?」
「仕方ないじゃろ…竜崎がそういう事件で晒されるのは耐えられんと言うとったんじゃ」
柳生が同意を示している脇で、仁王はちら、と自分の腕時計の示した時間を確認して頷くと、ポケットから一枚の名刺を取り出した。
見たこともない会社名と役職と名前などが記されている、普通の名刺だ。
「だから…のう」
「?」
みんなが不思議に思っている前で、仁王は名刺を見ながら自分の携帯で、そこに記されている電話番号へとかけ始めた。
RRRRR…RRRRR…
程なく、回線が繋がったところで、仁王は向こうの相手に…
「もしもし〜? 昨日、電車で痴漢しとった専務さん、おるかのう〜?」
開口一番、そう切り出した。
(スッてきたのか、この詐欺師ッ!!)
レギュラー達が一斉に青くなる。
あの名刺は、昨日、仁王が一緒に乗り合わせた時に、痴漢からスッたのだ!
「はぁ? 何の事か分からん? 本人に聞けばええじゃろうが、いたいけな中学生女子の身体を触りまくっとったスケベ野郎じゃよ。○△って奴じゃ、おるんじゃろ? そっちの会社に」
きっと受付嬢が対応しているのだろうが、流石にこういう客の応対は慣れていないだろう…
「今頃向こうは大騒ぎだろうな…」
「一応、専務って役職の奴だからなぁ…もしもう出社してたら、呼び出されてるんじゃね?」
レギュラー達の前で、更に仁王は向こうに驚くべき発言をする。
「どうしても分からんというなら、そっちの会社のホームページを見てみるとええ…面白いもんが見られるぜよ。因みに警察も動き出しとる、お宅さん、しばらく荒れるぜよ」
(この上、何しやがった〜〜〜〜〜!!!)
ぞぞっと嫌な予感を覚えている周囲の男達の中で、仁王の手にした名刺を覗き込んだ柳が、自分の携帯にそのアドレスを物凄い速さで打ち込んでいく。
「何してんだぃ? 柳〜」
「最近の携帯は、フルブラウザも対応しているからな…どれ」
ぴっと決定のボタンを押した柳の携帯が暫しの準備画面を映した後、目的の会社のホームページのトップを映し出し、それを見た全員が、一様に顔を強張らせる。
そこには一つの動画…おそらく桜乃に対する男の痴漢行為を完全に捉えたものが載せられていたのだ。
おそらく、と言ったのは、被害に遭っている女性の顔は角度的に隠されていたからであり、それが撮影者の意図するところであったのは言うまでもない。
電車の中は混んではいたが、人と人の間の微妙な空間から、男の顔と彼の不届きな手が、ばっちりと犯行の瞬間を捉えられていた。
それが会社の顔とも言えるホームページのトップに堂々と…
朝からこれが上げられていたとしても、一体この国の何人の人が、この決定的瞬間を見たのだろうか?
「……仁王?」
「ピヨッ」
携帯の画面に視点を固着させたまま、柳が呼びかけたが、相手はいつもの調子で視線を逸らしつつ、ニヤ…と笑うだけだった。
その表情は、昨日彼が桜乃に対して向けた優しさに満ちたものとは程遠い、彼が『悪魔』とも呼ばれる所以を如実に示すものだった。
物凄く冷たくて、物凄く恐い…詐欺の悪魔。
(痴漢の男は、こいつの逆鱗に触れたのだな…)
そしてその逆鱗は、間違いなく桜乃だろう、と柳は分析した。
「お前…これは明らかに犯罪ではないのか?」
他人のホームページを勝手に改竄することは、法にも触れる事だ、と真田が強張った顔で仁王に訴えるが、相手はふんと、それを鼻で笑った。
「…俺がやったなんて一言も言っとらんがのう」
「しかし、お前が…」
「無駄だよ、弦一郎」
尚も詰め寄ろうとした真田を止めたのは、部長である幸村だった。
彼はもう、全てを見通しているかのように静かな視線で仁王を見つめると、ふぅとそれをそのまま伏せた。
「仁王がそんな足跡を残すようなヘマはしないよ…それに先に犯罪を起こしたのはあっちの会社の社員だ、向こうもなるべく騒ぎを起こさずに済ませたいのが自然だろう?」
「う…それは、そうだが」
真田が言葉に詰まったその間に、柳が幸村の後を受けて今後の予想を行った。
「ホームページの動画はすぐにでも削除はされるだろうが、第三者の手で保存でもされていれば今後もネットに広く拡散する可能性が高い。更に、会社の関係者などには間違いなく周知の事実となっただろうから、この男は社会的に抹殺されたも同然だ、おそらくもうこの会社にはおられまい…一人暮らしならばまだ一人だけで犠牲は済むだろうが…もし家族がいたら悲惨の極みだな」
「警察が本当に動き出したら、更に酷いことになるかもね」
幸村によって締め括られた痴漢男の人生の転落を聞き、他の部員達は背筋にぞっと薄ら寒いものが走るのを感じていた。
確かに仁王がやったことに違いないのだが…その確たる証拠がなければ、彼がそうだと名指しする事も出来ない。
(何なんだよぃ!! 中学のテニス部なのにこのギリギリ感はっ!!)
(そこまで相手が転落することを知っていながら、尚、攻撃を止めようとしない精神力の強さは、マジで悪魔並みだな…よっぽどムカついていたのか)
(うっわ〜〜〜…俺、絶対に仁王先輩は敵に回したくないな〜〜〜!!)
(私でも、ここまで真似が出来るかは未知数ですね…)
痴漢に見事に鉄槌を下した詐欺師は、それからすぐに冷たい笑みを顔の奥へと押し隠し、いつもの表情に戻って言った。
「まぁこれでもう、竜崎も被害に遭うことはないじゃろ…鬼畜の人生なんぞ知らん、せいぜい馬鹿な自分を恨めばええんよ」
今頃向こうは、それを実践しているんだろうな…と思いつつ、他の男達は彼の台詞に対し適切な返事を返しかねていた。
「仁王さん」
「おう、竜崎か」
あの日以降、桜乃が立海へ来る事を禁じられることはなく、彼女はこれまでと同じ様にここを訪れては朗らかな笑顔と和やかな空気を振りまいていた。
その日、彼女は銀髪の詐欺師にとことこと近寄り、嬉しそうに下から相手を見上げてきた。
「あの…あれからもう痴漢の人、いなくなりました。本当に追っ払ってくれたんですね?」
「…まぁの、思い切り、睨みつけてやったからの」
あれからあの会社のホームページはすぐに問題の動画を削除したが、それからも暫く抗議があちらこちらから殺到し、確かに荒れた状態が続いたらしい。
痴漢の男についてはホームページでの発表は控えているが、解雇されて以降は行方不明になっているという専らの噂だった。
因みに一人暮らしの独身男性であったことは、被害が抑えられたという点では幸いだったかもしれない。
無論、そういう裏事情は、一番の被害者である桜乃には一切知らされていないのだが…
「仁王さんって、すごいです」
純粋にそう思っている少女が瞳をキラキラさせて見上げてきたのに対し、仁王がほう、と挑むように笑い返した。
「…何じゃ、惚れ直したか?」
「はい、格好良いです!」
「……」
即答され、悪魔は一瞬言葉を失うと、やれやれと苦笑して白旗を振った。
どんな悪党よりも扱い辛いぜよ、この娘…
「…あれ? 信じてませんか?」
「いや、信じとる…と言うより、お前さんを疑うこと自体、無駄なコトじゃろうな…」
「え?」
「いや、こっちの話」
それについて一度話を切ると、仁王はなでなでと相手の頭を撫でた。
お気に入りの相手に対する、仁王が一番好きなスキンシップがこれであった。
柔らかな相手の髪に触れることが出来る上、その行為を受けた少女が、嬉しさと照れで微笑み、見上げてくる表情がとにかく可愛いのだ。
「まぁ、もしまた何か困ったことがあったら、いつでも言いんさい。お前さんの頼みなら、出来る限りで聞いてやるけ」
「いいんですか?」
「ああ、言うたじゃろ? お前さんは、俺だけに掴まっておればええってな。ま、或る程度のトラブルは何とか出来る自信はある」
「わ、有難うございます。心強いです」
桜乃は屈託なく笑い、心の底から喜んでいる様子だ。
(…気付いとらんじゃろうな)
俺の言葉の本当の意味を…
全く手強い子じゃよ、と仁王は心で呟いた。
(けどまぁ、手強い方が、こちらとしても燃えるがのう…)
気付いていなくても、お前さんはあの時、確かに俺に『はい』と答えたんじゃ。
これからどうやって、どんな手管で、捕らえてやろうか…?
お前さんが、俺だけのものになるように……
了
*今回仁王がやったことは、現実ではマジで犯罪になりかねないので、皆さんは決してマネしない。
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