叫んだ時には、もう彼のラケットのストリングとボールが接触していた。
そのままボールがストリングに蓄えられていたエネルギーを吸収し、変形しながらベクトルを変える。
弱力の場合なら、また同じ方向へと向かっていただろう、しかし今回は強打での一撃。
切原の腕の筋肉が強くしなった時、それらが生み出す力の向きとバランスは、前回の時とはあまりにも違う。
運動センスに恵まれている彼もそれは知っているし、知った上でコントロールを試みた。
しかし…
「う…っ!?」
思わぬ方向へとラケットが持っていかれ、球の軌道が大幅にずれる。
これまでの中でも一際嫌な予感が切原の脳裏を駆け抜け、それを追い掛ける様にボールがラケットから離れて弾丸の様に飛んで行った。
よりにもよって、桜乃の方向へと。
「え…」
「竜崎っ!?」
まずいっ!と真っ青になった切原が注意を促すように彼女の名を呼んだ時には、もう桜乃の眼前へとボールが迫っていた…が…
「きゃっ!!」
正に間一髪。
桜乃は全身の神経をその一瞬だけ研ぎ澄ませた様に、身体を屈ませて直撃から逃れる事が出来た。
彼女という獲物を失った弾丸のような球は、そのまま真っ直ぐには進まず、くくっと上部へと急なカーブを描いて更に飛距離を伸ばしてゆき、遂には流れ玉を防止する為のネットすらも越えていった。
やがて……
がしゃ――――――んっ!!
「……」
桜乃は難から逃れられたものの、動けない窓ガラスは残念ながら四枚目が切原の魔球の餌食になってしまったらしい。
その破壊音に、他のテニス部員達もようやく異常に気付いてこちらへと視線を向け始めた。
地獄耳の副部長の事だ、きっと彼もすぐにダッシュで向かって来るだろう。
「やべっ!!」
桜乃が何とか無事でよかったと一瞬は安堵した彼が、再び訪れた危機に青くなって立ち尽くしていたところに、その少女が慌てて駆け寄って来ていた。
ボールから逃れたとは言え、その直後である。
まだショックから立ち直れていないのか顔色が悪かったが、彼女は何とか声を絞り出した。
「切原さんっ」
「え…?」
「早くそのラケット貸して下さいっ!! 脇に行ってて!」
「え……」
相手の返事を待つ事もせずに、半ば無理やり彼の手からラケットを奪い取った桜乃は、そのままコートに残る。
「こら―――――――っ! また切原かっ!?」
声を上げて走って来たのは、副部長…ではなく、校舎の外に丁度いたらしい一人の教師だった。
最初から切原の名を挙げるという事は、彼の前歴を既に知っていて、そこから犯人を推測したらしい。
「…おや?」
教師がコートを見た時、そこには確かに切原が立っていたが、彼の手にラケットはなく…少し彼から離れてこちらへと踏み出している一人の少女がそれを抱えていた。
立海の制服を着ていない、他校の生徒だ。
「君は…?」
「あっ…あのっ……すみません! あの、今の…窓ガラス割ったの、私です…」
「は?」
青い顔で、ラケットを証拠だと示すように握り締めながらも、その手が小刻みに震えていた。
自分が嘘を言っている事を誰より知っている少女は、その良心の呵責に耐えながらも、相手と目を合わせず俯いている。
「っ!! ちょっ…」
唖然とする教師以上に、切原が驚きも露に二人の間に割り込もうとする。
違う、俺がやった…と真実を話そうとすると、先に誰かが自分を強い力で押し退けていた。
「俺じゃ」
「!?」
はっと桜乃が顔を上げた先、自分と教師の間に割り込んできた男の背中が見える。
銀髪を持つ男の背中…それが、まるで自分を守る盾の様に、向こうと自分とを隔てていた。
「仁王さん…?」
脇でただひたすらに驚く切原に視線を向けず、背後の桜乃にも振り向かず、仁王は教師に胸を張って堂々と宣言した。
「今のは俺じゃ。こいつと打ち合っとって、力が変に入った。すまんかったの」
「仁王君…」
教師は、仁王が割り入って来ると、明らかに構える様な様子を見せた。
どうやら日常の学生生活でも、仁王は教師達に警戒されている存在らしい。
「本当かね…?」
「嫌じゃのう、先生。正直に名乗った生徒を疑うんか? 大体、嘘をついてるとして、俺に何のメリットがあるんじゃ」
『本当です』と言えば、虚偽になる。
仁王は実に巧みに相手の質問をかわしつつ、桜乃を相手の視線から庇った。
「むう…しかし、一体その子は…立海の生徒じゃないだろう」
「ああ、ただの見学。ちょっと体験させてやろうと思ったんじゃが、いつもと勝手が違って粗相した。その責任を感じて名乗り出てくれたが…やったんは俺じゃ。彼女は無関係なんで、そこは酌んでほしいのう」
(ちょっと…仁王さん!?)
結果、自分が被ろうと思っていた泥を、脇から出て来た無関係の仁王が被る事になってしまった。
どうしよう…と思っている間に、教師は結局、仁王の言葉を信じるという結論に達した様だ。
「必要書類を書きに、一緒に職員室に来なさい」
「はい」
あっさりと召集に応じた仁王を一瞬訝しげに見た教師だったが、それ以上は何も言わずに背を向けて歩き出す。
それを追い掛ける形で歩き出そうとした仁王を、後ろから桜乃が腕を引いて引き止めた。
「仁王さん…っ」
振り返る男は、悲痛な顔をしている少女とは対照的に、酷く楽しそうな表情を浮かべていた。
「何じゃ、別に食われる訳でもない。そんな顔しなさんなよ」
「でも…」
「テニスやっとったら、ガラスを割るなぞ珍しくもない…すぐ戻る」
なでなで、といつもの様に頭を撫でた後、詐欺師は飄々とした姿で歩いて行ってしまった。
仁王が職員室に呼ばれている間に、桜乃と切原は幸村達に呼ばれて事の真相を聞かれていた。
最早、嘘を言う事も取り繕う気力も完全に失せていた切原達は、すんなりと全てを話した。
まさか仁王がそういう行動に出るとは誰も考えていなかった様子で、幸村と真田、柳までもが意外そうな顔で目配せをした。
「仁王がそんな事を?」
いつもと変わらない穏やかな表情の部長に、副部長が困惑そのものの表情で問い掛ける。
「どうする? 今からでも事の真実を申し出るか?」
答えたのは参謀の柳だった。
「無理だな。仁王が噛んだ以上、奴の言葉を覆すのは難しい…その時現場にいたのが奴と竜崎と赤也の三人だけなら、真実さえも奴の掌の上で踊らされるのがオチだ」
つまり、桜乃と切原の考えうる嘘など、相手にとっては子供の言い訳という事だ。
意外な展開に驚きはしたものの、部長の決断は早かった。
「切原は今後一週間、部室の掃除、コートの整備を一人ですること。一歩間違えたら、竜崎さんに酷い怪我を負わせる事にもなりかねなかったんだ、君はその事をよく肝に銘じないと駄目だよ。異議は?」
「…ないッス」
正直、もっと酷い制裁を受けると覚悟していた切原は、一切の文句無く、それを受けた。
事実、ガラスをまた割ってしまった事より、あの瞬間桜乃の顔面にボールがめり込むのではないかと心が震え上がった事の方が、今の彼にダメージを与えていた。
「竜崎さんについては、当然不問にする。聞くところによると、最初に切原を庇ってくれたのは君らしいね。恐い思いをさせてしまったのに、すまない」
「い、いいえ…私も咄嗟の事で…夢中でしたから」
「…仁王の処遇は?」
真田の問い掛けに、びくっと桜乃が肩を震わせて、問い掛けられた幸村を見た。
「……嘘をつく事は褒められる事じゃないけど、今回は事情が事情だからね…竜崎さんに免じて今回はお咎めなしにするよ」
「…精市?」
幸村の言葉の中に、何かを楽しんでいる匂いを感じた柳が名を呼んだが、相手はそれ以上は何も言わなかった。
「今回の件はこれで終わり…どうやら、向こうも穏便に済んだみたいだし」
その言葉と同時に、部室のドアが開かれ、渦中の詐欺師が姿を見せた。
「仁王さん!」
「お、皆さん、お揃いで」
桜乃の前で、仁王は相変わらず不敵な笑みを浮かべて悠々と歩いてきた。
「今回の件についてはもう話が済んだところだよ。君と竜崎さんについては何も無い」
「何じゃ、校庭二時間マラソンぐらいやらされるかと思っとったがの」
「それも考えたけど、そうしたら彼女も一緒に走りかねないからね、今回は特別。じゃあ、ここで解散にしようか」
ぽん、と手を叩いて幸村が指示を出し、メンバーがぞろぞろと外へと移動を始めた中、仁王と桜乃、切原だけがまだ部室の中で留まっていた。
「あの…仁王先輩、すんませんでした」
「…」
ごつっ!!
「ってぇ!!」
「仁王さん!?」
無言で切原の頭を利き手である左腕で殴ると、仁王はずいっと相手に顔を寄せた。
射抜くような視線が相手を捕らえ、ぎらぎらと獲物を見据えた獣の様に瞳が輝いている。
「竜崎が怪我せんじゃったから、今日はこのぐらいで済ませちゃる…けどなぁ赤也?…もし今度、竜崎を危険な目に遭わせたりふざけた嘘つかせるような真似してみい。幾ら可愛い後輩のお前でもタダじゃあ済まさんぜよ」
にや…と笑みさえ浮かべた男は、正に美しい悪魔の形相だった。
静かに呟くような言葉の一つ一つが、まるで心臓に爪を立て、いつ引き裂こうかと構えているような危うさすら漂わせている。
「う…っ…わ、分かったッス」
如何な切原でも、初めて見る先輩の隠された一面には声も出せずに、ただ頷くしかなかった。
「なら、ええよ。練習に戻りんしゃい」
あっさりと返事を聞いた詐欺師は切原から手を離し、普段の笑顔に戻ると、相手を練習へと向かわせた。
そして、今度は桜乃へと向き直り、ぬっと左手を伸ばす。
「…!」
自分も嘘をついたから、怒られてしまうのかもしれない…!
思わず目を閉じた桜乃だったが、相手はこつん…と軽く額を小突いただけだった。
「…え?」
「…これっきりじゃよ?」
苦笑いを浮かべながら自分を戒めた相手に、少女は小突かれた場所を軽く手で押さえつつ頷いた。
「ごめんなさい」
素直な謝罪に再び笑い、仁王は桜乃と二人きりになった部室の中で向き合う。
「…全く、お前さんが嘘をついても『見抜いて下さい』と言わんばかりじゃ。とても見ちゃおれん」
「そ、そんなに駄目でしたか…?」
「全然」
即答すると、詐欺師は純粋な瞳を持つ少女に一歩進み出て、すいっと手を相手の頬に沿わせる様に当てた。
「…?」
「…俺が側についておらんと、駄目じゃな…お前さん」
「はぁ…すみませ……え?」
相手の言葉に、桜乃がふと思い出す。
側に…って…?
彼の理想の女性の大前提って確か…悪魔も騙せる詐欺師を、束縛なしで側におけるぐらいの…
「〜〜〜〜〜」
かぁーっと真っ赤になった顔を俯けて、少女は脳裏で必死に否定する。
(ち、違うよね…ただの偶然でしかないよね…確かに束縛なんてするつもりないけど、仁王さんみたいな素敵な人が、私なんか…)
「言うたじゃろ…お前さんは俺だけ見てればええってな…」
「え…?」
そんな事…何処で…?
「じゃ、お礼はこれで」
ちゅっ…
柔らかで、薔薇の様に染まった桜乃の頬に、仁王が優しくキスをする。
「え…!?」
「ご馳走さん」
ぺろっと舌を出して、悪魔の笑み…しかし、瞳の色はとても優しかった。
「仁王は竜崎さんがとても気に入ったみたいだね」
「いきなりどうした? 精市」
部室の中に残っている二人のことを話した幸村に、真田が不思議そうに聞き返す。
「…仁王はね、これまで絶対に、自分が不利になったり、自分にとって不利益になる事には手を貸さなかったんだ。己の身に汚れ一つ許さない、完璧な詐欺師さ」
その彼が…初めて自分から泥を被ってでも少女を守ることを選択した…しかもあんなに嬉しそうな顔で。
彼女を守ることが、自分のみに許された権利だと主張するように。
「どうやら、悪魔は求めていた契約者を見つけたみたいだね」
「綺麗でしょう、これをあげる」
娘が与えしは、黄金の首輪
娘は首輪の意味を知らず、ただ慰めようと悪魔に与え
悪魔は娘の心に触れて、自身の首にそれを付けた
「俺を下僕にするとは哀れな娘よ。一生呪うて不幸にするぞ」
嘘しか言えない一人の悪魔は、自ら娘にかしずいた…
了
前へ
仁王main編トップへ
仁王編トップへ
サイトトップへ