「あ…」
頭へと手を回され、少女は完全に動きを封じられてしまった。
「さぁ、竜崎」
もう少しで唇さえも奪える距離で、悪魔の詐欺師が、妖艶な笑みを浮かべていたいけな乙女に誓約を迫る。
「…言いんしゃい」
心を惑わせる瞳に見つめられ、桜乃の意識が一瞬遠くなった。
何も考えられなくなる…唇だけが、彼に命じられたままに……
「…す…」
『やべーやべー、ガットが切れちまった!』
「!?」
触れれば壊れてしまいそうな夢幻の世界が、外から不躾に聞こえてきた声で粉々に壊され、崩れてゆく。
遠く近く隔てられていた現実が桜乃の身体を瞬時に包むと、彼女の意識も一気に覚醒した。
「…っ」
がちゃりっ…
「替えのラケットはっと…ありゃ?」
ぞんざいに部屋へと入って来た切原は、中にいた二人に気付いて目をぱちくりとさせた。
「何だ? 仁王先輩、まだ部屋の中にいたんスか?」
「…まぁの」
あの一秒にも満たない時間で現実へと戻り、桜乃から一瞬の内に身体を離してロッカー前に戻るという早業はなかなか出来るものではない。
落ち着いた様子でロッカーの扉をぱたんと閉め、練習の準備を整えた姿の仁王は、切原の脇を通り過ぎて先に外へと出て行ってしまった。
数秒前まで、桜乃に迫っていたとは思えない変わり身の早さだ。
一方、そんな器用な真似が出来る訳もない桜乃は、壁側を向いて立ち、顔を伏せたままの姿で動けずにいた。
「ありゃ、竜崎? どうしたんだ?」
「あっ…す、すみません…何だか、ぼーっとしちゃって…」
「へ?…うわ、お前、顔真っ赤だぞ!? 風邪引いてんじゃねぇのか?」
「そう…ですか?」
ようやく振り返って、頬に手を当てる彼女の顔は、すっかり紅潮し、瞳まで潤んでいる。
無論、風邪ではなく仁王に見つめられたことによる影響なのだが、ここは不調という事で話を通しておいた方が面倒は少なくて済むだろう。
「多分、軽い疲労ですよ。少し休んだらすぐ治りますから…」
「ん〜〜…熱は、そんなにねぇか?」
額に手を当てて切原が確認したが、それでも油断したら後々大事になる、と彼は在室を勧めてくれた。
「あまり無理して外に出るなよ。今日はもう、早く帰ってもいいんじゃねぇか?」
「……いいえ、折角来ましたから、また後で見学に行きますよ。切原さんも頑張って下さいね、途中でお引止めして、ゴメンなさい」
「い、いや…っと、そうだった、ラケットラケット!」
部屋に戻った本来の目的を思い出し、若者は大急ぎで新たなラケットをロッカーから取り出すと、じゃあな!と掛け声も大きく飛び出して行った。
そして、部室は今度こそ桜乃一人だけになる。
「……はぁ」
びっくりした…
(あんなに積極的に迫られるなんて、思ってなかった……いきなり)
もう少しで、言ってしまいそうだった。
結局、切原の乱入で、それは未遂に終わってしまったけれど……
桜乃の心の中に、少しだけ安堵の気持ちが湧きあがった。
(…ちょっと残念だとも思うけど……やっぱり、違う、よね)
別にその言葉を言うことが虚偽とは思わないけど…それも本当の気持ちに違いはないけど…
やっぱり、大事な言葉は、自分の意志で言いたいから…
(それにちょっと癪だもん…)
いつも彼という人にしてやられっぱなしで、それでも自分は彼が好きで…
こんなに心捕われているのに、その言葉さえも彼の言いなりだなんて、ちょっと悔しいもんね…
部活動終了後
「お疲れーっ」
「じゃあさ、あそこの店に今度の…」
部員達が一斉に学校を出て帰る中、桜乃も彼らと同じく帰路を辿っていた。
切原の発言で桜乃の体調を心配したレギュラー達が、今日は全員で彼女を送ってくれることになり、結構な大所帯での移動となった。
「微熱があるらしいって話だったけど、油断は駄目だからね。今日は身体を暖かくして、よく休むんだよ」
「有難うございます、幸村さん。すみません、御心配をおかけして」
「……」
みんなが心配している脇で、一人、仁王は微妙な表情を浮かべて視線を逸らしていた。
桜乃の身体の不調の正体を唯一知っている男は、何となく掛ける言葉が見つからない様子で、しかし桜乃の隣の場所をしっかりと確保している。
「どうした? 仁王、さっきから浮かない表情だが…」
「…いや? 俺もそれなりに気にしとるからの」
柳の質問に、桜乃の頭を優しく撫でながら仁王は答える。
その優しさはいつもと何ら変わらない…普段の彼だ。
「…の割には、部室に一緒にいて気付かなかったみたいッスけどね」
「赤也、明日はたっぷり俺に付き合ってもらうけ、覚悟しときんしゃい」
「え――――――――っ!!??」
いらん事を言った後輩に容赦ない台詞を言い放ったところで、丁度良く、桜乃が利用している駅まで辿り着くと、そこでみんなが解散する。
「じゃあね、竜崎さん」
「はい、皆さんも、お気をつけて」
「早く身体を治せよ」
みんなのねぎらいの言葉を少しだけ心苦しく思いながら、桜乃は手を振って駅へと入り、改札口を通った。
そして、自宅方面への電車が来るホームへと向かいながら、彼女は無意識の内に呟いていた。
「…ちょっと、申し訳ないことしちゃったな…」
「気にせんでええよ」
「え……ええ!?」
不意に返された言葉にそちらへと首を向けた桜乃が、思わず驚愕して立ち止まる。
先程まで自分の隣にいた若者が、改札口を通った後も同じ様に隣に立って、こちらを見下ろしていた。
仁王だ。
「に、仁王さん!?」
「…ホームはこっちじゃろ?」
「そうですけど……あれ? 仁王さんもこちらに用があるんですか?」
「いや…単に見送りじゃ、お前さんの」
「え…ホームまでわざわざ…」
「…ホワイトデーじゃろ、今日は……だから、特別」
「……」
視線を前に向けたまま静かな口調で言う男に、桜乃は言葉を返せず、再び歩き出す。
しかし、その歩みは酷く遅くなってしまった。
彼がしてくれた特別…その貴重な時を、少しでも引き延ばそうと、桜乃はゆっくり歩く。
その気持ちを察してくれたのか、仁王は何も言わずに付き合ってくれた。
「……すまんかったの」
「え?」
ホームへの階段のところで、不意に仁王が謝った。
「何がです?」
「…部室では…俺も随分とらしくないことをした…何でかの」
冷静になった今思い返せば、本当に、そう思う。
無理強いをするなどいつもの自分のスタイルではないのに、何故あの時、あんなに強引に迫ってしまったのか……そんなつもりではなかったのに。
「……」
「…心配せんでもええよ、もう、あんな強引な真似はせん……もっと上手いやり方でやらせてもらう」
「…やっぱり詐欺にかけるつもりなんですね」
「じゃの」
ゆっくりと階段を下りてホームにつくと、次の電車が間もなくここに到着するところだった。
「…仁王さん」
「ん…?」
「…あのフォーチュンクッキー…売り物ですか?」
「…さぁの」
「…もしかして、残っていたクッキーのメッセージも、同じものじゃなかったです?」
「…どうかの」
「…全部仁王さんが、仕組んだんじゃないですか?」
「……ピヨッ」
あくまでもはっきりとした答えを返さずに薄い笑みを浮かべたままの男に、んぺ、と桜乃が舌を出して笑った。
「詐欺師」
「そうじゃよ」
そして男が笑い返した時、電車が到着し、ドアが開いた。
桜乃がゆっくりと乗り込んで相手に振り返ると、仁王にあの紙を指で摘まんで見せた。
「…!」
「…もし神様が私にこれをくれたのなら、余計なお世話でしたね」
怪訝な顔を浮かべる仁王に、ふふっと桜乃は笑い、紙を掌の中にぎゅっと握り締める。
「…もし仁王さんが私にくれたのなら、これは無かったことに」
握り締めた手の中に予言を閉じ込めて、桜乃はにこりと笑った。
「私、仁王さんが大好きです」
「!」
「神様に言われたからでもないし、詐欺師に騙されたからでもない…私が私の意志で仁王さんを好きになりました……こんなものがなくても何度だって言えますよ、仁王さん、大好き…」
眩しい笑顔で、桜乃が告白して……
ぷしゅ―――――――っ…がたん…
ドアが閉じられ、やがてゆっくりと電車が動き出す。
徐々に速度を増して電車が去った後には、見送りに来ていた仁王だけが残った…訳ではなかった。
「……」
「…?」
銀髪の男が抱き締めているのは、おさげの少女。
ドアが二人を別つ間際に彼が腕を伸ばし、半ば強引に奪い取ったのだ。
桜乃は、咄嗟の事でまだ状況が理解出来ていないらしく、ぱちくりと目を見開いている。
(え…?)
ここって…ホーム?
何だか、ちょっと、苦しい……?
「…また……じゃ」
「…え…?」
また…俺の負けじゃ……
こちらが『言わせてみせる』と思うとったのに、お前は自分から先に言いよった…
しかも、俺が一番欲しかった言葉を、こんなに簡単に…
「…知らんぜよ、俺はもう…」
「仁王さん…」
微かに震えている相手の声が耳元で聞こえ、桜乃がそちらへと顔を向ける、と…
「んっ…!?」
柔らかなものが、強く、きつく、己の唇に押し当てられた。
なに…これ……
身体を引いて確かめようとしても、抱き締められたままでびくともしない。
そうしている間に、ようやく桜乃にも今の状況が分かってきた。
(に…仁王さん、が……キス…)
理解はしてもそれで心が落ち着くなどという話ではなく、幼い少女は更に小さなパニックを起こした。
嘘…!
「う…っ…」
びりびりと身体中に走る電流に痺れながらも、桜乃は必死に相手の身体にしがみ付いて、何とか微かに唇を離した。
触れ合っていた唇が離れ、代わりに空気が触れてひやりとする。
「まだ、じゃ」
ふ…と息を吐き、新鮮な空気を吸い込んだと思った瞬間、くんっと顎を持ち上げられ、桜乃は再び唇を奪われてしまった。
(仁王さん…!?)
いつもの優しい男の行動とは思えない、まるで噛み付くような口付け……
(…だめ…おかしくなりそう……身体が、熱い…)
抱き締められ触れ合う身体から、唇から、相手の熱がまるで己を燃やし尽くそうとしているように侵食してゆく。
塵になるのか、溶けてゆくのか……
「…っおう…さ、ん…」
今度は向こうから唇が離され、うっすらと開かれた瞳の向こうに彼の姿が見えた。
誰…?
一瞬、戸惑ってしまった。
仁王と同じ顔をした誰かではないかと。
優しい笑みは完全に失われ、鋭い視線が己を貫いていた。
瞳は真っ直ぐに自分しか見ておらず、まるで詐欺師らしからぬ姿の彼は、桜乃を戸惑わせるのには十分だった。
「…仁王さん…」
「雅治…」
「え…?」
「俺は…雅治じゃ」
少しだけ…ほんの少しだけ、詐欺師は心の仮面に手を触れ、その素顔を覗かせた。
そして、ふっと笑った顔は、今まで桜乃が見た若者の笑顔の、どれでもなかった……
これも彼…いや、これが彼…?
「……雅治…さん…?」
「…そうじゃよ、桜乃」
よく出来ました、と言う様に、今度は桜乃の頬にちゅ、と唇を触れさせて、仁王も彼女の名を呼んだ。
「ちゃんと言えたご褒美じゃ…よく聞けよ」
「は、い…?」
そして唇をそのまま耳元に寄せて…
『俺も、お前が大好きじゃ』
と、囁くような甘い声で告白。
「っ!!」
がくんっと桜乃の膝が落ち、身体が全て仁王に預けられる。
二度のキスで既に脱力も著しかった彼女は、遂に最後の囁きで腰が抜け、止めを刺されてしまった。
「まっ……雅治、さんっ…」
「ああ…だから言うたじゃろ? もう知らんってな…」
くっくっと笑いながら、仁王は拗ねた顔でこちらを見上げる相手を楽しそうに見つめる。
「俺にここまで言わせたんじゃ…もう、取り消しは効かん…」
桜乃の身体の重みを軽々と抱き止めて、男が所有権を示すようにぎゅ、と力を込めた。
「しかし、本当に可愛いのう…桜乃」
このまま家に帰さずに、何処かへさらってしまいたいぐらいじゃ……
「!!」
男の発言に動揺した桜乃の、握られた片手の拳が緩み、そこからあの紙がひらりと落ちた。
「『好き』と言えば、その者を得る」
果たして、得たのはどちらだったのだろう……
了
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