その日は、立海大附属中学校の卒業式だった。
「やっぱり、お祝いはしてあげたいものね…もう式は終わっちゃったのかなぁ」
仁王や、他のテニス部メンバー三年生達の卒業を祝おうと、東京から足を伸ばしてきた桜乃は、とてとてと校舎の周りを歩いていた。
最初に立ち寄った、馴染のテニス部部室はまだ鍵が掛かっている状態だった。
という事は、まだ式は済んでいないのだろうか…と思いつつ、当て所も無く彷徨っていた時、丁度曲がり角の所で、桜乃は軽く誰かとぶつかってしまった。
「きゃ…す、すみません!」
「あ、いや…ん?」
「え?」
相手の反応に顔を上げると、眩しい銀の光が瞳を刺激する。
「あ、仁王さん?」
見ると、制服姿の仁王が、少し驚いた様子でこちらを見下ろしていた。
見慣れていた筈の姿にも関わらず、やはりこういう日の所為かいつもより凛々しく見えてしまい、桜乃は密かに胸を高鳴らせてしまう。
「お、竜崎か? 何でここに…」
「いえ、あの…卒業式が、終わったかなーって…」
「ああ、終わったばかりじゃが…と、もう来おったか」
仁王は、ぐいっと桜乃の腕を引いて自分の方へと寄せると、後ろを気にしながら言った。
「話したいのは山々なんじゃが、まだ追われとる身でのう…また後でな」
「は?」
言うだけ言うと男は桜乃の手を離し、ぽん、と軽く肩を叩くと、そのまま走り去ってしまった。
「…仁王さん?」
呆然と見送った桜乃だが、彼の行動の理由はすぐに分かった。
『あーん、仁王先輩何処に行ったのかしら』
『こっちに来たみたいだけど…』
(うわぁ…そういう事かぁ…)
向こうの廊下を走っていくのは、立海の女子生徒達だ。
せわしなく辺りを見回しながら誰かを探し回っているが…その対象は最早明らか。
(本当にファンが沢山いるんだなぁ……でも仁王さん、何処まで行ったんだろう…)
立海の生徒ではないから、そんなに詳しい訳ではないけれど…それでもメンバーとの付き合いで何度か校舎内を散策した事はある。
仁王と一緒に行った所で多かったのは……
(あ…あそこかなあ…やり方によっては追い掛けて来る人達、撒くことも出来そうだし…行ってみようかな)
そんな桜乃が向かったのは、立海の校舎…その屋上だった。
自由を愛し、青い空に少しでも近い処が好きだった、詐欺師のお気に入りの場所だ。
桜乃がそこに足を踏み入れた時、鍵は開けられており、その場には誰の姿も見えなかった。
「……読み間違っちゃったかな…」
まぁ、あの詐欺師の心を読もうなんて考えそのものが自分にとっては無謀そのものなんだけど…
「でも、もう来ちゃったし、何処にいるかも分からないし…」
少しここで考えてから移動しようと桜乃は決定し、ゆっくりと屋上の柵へと近づくと、それに手を掛けて下を眺めた。
心地よい風と青空、眩い太陽の光…巣立つには絶好の日和だろう。
「……卒業、か…」
立海の高校はここからすぐ傍にはあるけれど…高校に行ってから、三年生達と距離が離れたりしないだろうか…と少女は今更ながらに不安になる。
特に、仁王には自分はずっとずっと会っていきたいけど、向こうはそう思ってくれるだろうか…?
こうして自分一人で考えても詮無いこととは知っていながら、娘は鬱々としてしまいそうな気分を必死に押さえ、はふ、とため息をついた。
「…仁王、さん…」
「何じゃ?」
「っ!!」
何気ない呟きに律儀に返され、桜乃は思わず息を止めながら振り向いた。
至近距離に、いつの間に近づいたのか仁王本人が立っており、こちらを笑顔で見下ろしている。
「え…え…っ!?」
「先を越されるとは思っとらんかったが…まぁ、俺はさっきまでアイツらを撒いとったからの」
しかしよく分かったな…と微笑む仁王に、桜乃は答えなかった。
その視点がじっと相手の襟元の一点に集中している。
(嘘……だって、仁王さん…誰にもあげないって…)
それなのに…何でバッジが無くなってるの!?
「あ…あの、仁王、さん…?」
「ん?」
聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちが入り混じる中で、桜乃は必死にさりげない口調で言葉を紡ぎ出した。
「…バッジ…どうしたんですか? ありません、けど…」
「あ? ああ…途中での、くれてやったんじゃよ」
「!!」
あっさりとそう言った男に桜乃の顔が一気に強張り、そして心さえも凍りつく。
そんなに気軽に…この間は、誰にもあげないって言ってたのに…?
「…誰にもあげない予定だったんじゃ…」
「ああ、けどまぁあんなに可愛いんならいいかと思っての、俺の好みじゃったし…詐欺師の心なぞ手に入れて嬉しいのかは分からんが…ああ、竜崎」
「は…はい?」
ぐらぐらとよろめきそうになるところを必死に堪えて、桜乃は仁王に返事を返す。
「お前さんも詐欺師には気をつけることじゃな…中には自分の心さえ餌にして、女を捕らえるタチの悪い奴もおるんじゃ……お前さんは素直すぎるからすぐに罠に掛かりそうじゃよ、あまり深入りはせんことじゃ」
「……」
正直、もうどうでもいいと思って、桜乃は作り笑いを浮かべてみせることで答えとした。
そんな人には興味もないし、もし自分が騙されたとしても、どうでもいい……
今、この目の前の詐欺師の心が、他の誰かに掠め取られた事実の方が余程ショックで心が痛い。
「…部室には、行かないんですか?」
桜乃の問いに、暫く仁王は無言になって考えた後に首を横に振った。
「ん…俺は少しここで休んでから行く。お前さんは先に行っててええよ」
「そう、ですか…じゃあ、そうしますね」
正直、助かった。
今は彼と一緒に部室に向かう事など、拷問にも等しい。
本当は声を上げて、空を見上げて、思い切り泣き叫びたかった。
「…先に、行ってます」
銀髪の男を残し、少女は屋上から降りる階段を駆け下りながら、早くも溢れてくる涙を止められなかった。
嫌だ、嫌だ、嫌だ……苦しい、悲しい、悔しい、寂しい……!!
(仁王さんが…遠くに行っちゃった…誰かの傍に行っちゃった…!)
もう自分は追いかけられない…あの人の傍には行けないんだ……
「う…うっ…・うう〜…っ」
声を上げたら彼の耳に届くかもしれない…それだけを考えて必死に声を耐え、嗚咽を漏らし、桜乃は階段を下りて踊り場の所でしゃがみこんでしまった。
力が入らない…もう、泣くことで精一杯だ。
「に、おう…さん……におうさん…っ」
届かないと分かっているのに、名前を呼ぶことを止められない。
そうしていないと、そのまま心が張り裂けそうだ。
ああ、失恋しちゃった……これが失恋なんだ…何て悲しい気持ち…何て切ない気持ち
神様も悪魔も意地悪だ、こんな日にこんな辛い経験をさせるなんて…
しかも自分、これからテニス部の人達にも会わないといけないのに…
(やだ…ヒドイ顔になる…ハンカチ…)
何とか被害を最小限に食い止めて…それでも泣いた事はばれてしまうから、皆さんが卒業して寂しいからだと言い訳をさせてもらわないと……
ハンカチを探し、自分のスカートのポケットを探って布地の感触を得て引き出そうとした時だった。
こつん…
「…?」
入れた覚えの無い何かの固い感触が指先に触れた。
(何か入れてたっけ…)
ぐすぐすと鼻を鳴らしつつ、ハンカチを取り出すついでにその固く小さな物体もポケットから抜き出すと、桜乃は掌の上でその正体を確認した。
「……?」
何だろう…何かのバッジみたい…だけ…ど…・
「…え?」
よくよく見ると、自分も知っているマーク…しかもとても馴染み深い学校の…
(立海の校章バッジ…? でも、私…こんなの拾った覚え、ない…)
勿論、買った覚えもない…だから、こんな物が自分のスカートのポケットにあること自体がありえない。
(今日、ここに来る時には無かった…じゃあ、何処で?)
誰からも受け取ってないし、そもそも自分はまだ誰とも卒業式後に接触なんて……
「……あ」
いる…!
一人だけ、接触した人物…でも、それって…
「…うそ……」
嘘でしょう…?
「仁王さん…?」
あなたなんですか…?
あの時…最初にぶつかった時に…私のポケットにこれを…?
それを、『くれてやった』と言ったのだろうか…?
「……」
それ以外、現実的に当て嵌まらないと思ったものの、どうしても確証は持てず、桜乃はもう一度屋上へと戻って行った。
屋上からここの階段は一本道で、他の抜け道は一つもない…彼が空を飛べるのであれば別だけど。
ぎい、とドアを開けて、桜乃は再び太陽が眩しい屋上へと足を踏み入れ、辺りを見回したが、そこには誰の人影もなかった。
(…誰もいない…)
そんな筈は…と思いながら、真っ直ぐに柵のほうへと歩いてゆく。
しかし、そんな少女の背後には気配を完全に消した一人の人影がゆっくりと近づき、そっとその両手を掲げていた。
そして…
「っ!!」
捕獲…両腕で、小さな身体を背後から抱き包み、完全に動きと逃げ道を塞ぐ。
「つ・か・ま・え・た」
「え…」
耳元で笑みを含んだ囁きが聞こえ、そして続けて背後から男が覗き込んでくる。
やはり、あの銀髪の詐欺師だった。
「仁王さん…!」
「…俺はちゃんと忠告したぜよ、竜崎」
それを聞かんかったお前さんが悪いんじゃ、と仁王は真剣な表情で言った。
「自分の心さえ餌にして、女を捕らえるタチの悪い奴がおると言うたじゃろ? なのに深入りするなと言った傍から早々に罠に掛かって……お前さんの責任じゃ」
「……じゃあ…やっぱりこれは」
手にしたバッジを差し出しながら、桜乃は確信した。
これは…彼が忍ばせたものだと。
「仁王さんが…私に…?」
それには答えず、仁王は抱き締めていた少女の身体を改めて自分の方へと向き直らせると、相手の顔を見てぴくんと肩を揺らし、眉をひそめた。
「りゅう…ざき…?」
「…うっ……」
全身を震わせ、一度は止まりかかっていた涙がまた溢れ出し、桜乃は顔を覆った。
分からない。
彼がこれをくれた事が嬉しくて泣いているのか、他の誰かにあげた訳ではなかった事に安堵して泣いているのか…また自分を騙した相手に怒って泣いているのか…もう自分でも分からない。
「……っ」
まさか彼女が泣くとは思っていなかったのか、それとも、泣いたとしてもここまで激しく感情を乱すとは思っていなかったのか…仁王は、『しまった』という様な渋い顔をしつつゆっくりと手を上げ、そっと相手の細い腕に触れた。
とん…っ!
「!?」
仁王の身体が少しだけ揺れ、彼の胸に衝撃が伝わる。
胸に飛び込んできた少女が、小さな拳で彼の胸を叩いていた。
とんっ、とんっ、とんっ…!!
決して強い力ではなく、痛みすらない、ただ叩かれている衝撃だけが伝わる程度のものだったが、非力な桜乃はそれでせめて彼に自分の感情を示した。
喜びも、安らぎも、怒りも、戸惑いも…全てを伝えたくて……
やがてその手の力も失われ、胸に顔を埋めてただひたすらに泣き続ける桜乃を上から見下ろし、仁王は彼女を優しく抱き包みながら詫びた。
「……すまんの」
抱きながら、何度も小さな子供をあやすようにその頭を優しく撫でる。
「俺は、お前さんには謝ってばかりじゃな……けど今日は…ここまで泣かせてしまうとは思っとらんかったよ」
ここまで想われているとは、思っていなかった……
泣かせてしまった事については申し訳なく思うが、それで彼女の気持ちの深さを知る事が出来たのは、正直嬉しい。
自分でも珍しい複雑な気持ちを胸に抱えつつ、仁王が相手を離さないまま顔を覗きこむと、彼女は腕を上げて自分の顔を覆った。
「やだ…嫌です…」
「竜崎…」
「今…私、ヒドイ顔してる…からっ…見られたく…」
顔を覆う細い二本の腕を、しかし若者はぐいと強い力で開かせると、そのまま顔を寄せて少女の右瞼に唇を触れさせ、ちゅ、と涙を吸い上げた。
「っ!」
びくんと身体を戦慄かせる相手の隙に乗じて、今度は左瞼に唇を寄せ、同じ様に涙を吸う。
「ヒドイ? お前さんは、自分の事もよく分かっとらんの…じゃからすぐに詐欺師に騙されるんよ……こんなに、可愛いじゃろうが」
「に…におうさ…」
涙を吸っただけでは飽き足らず、詐欺師はそれからも少女の濡れた頬に何度も口付けを繰り返し、徐々に下へと降りてゆく。
「や…恥ずかし…」
何度受けたか分からない口付けに気を失いそうになりながら、桜乃はもうこれ以上はと相手を止めようとしたが、生憎、彼にその意志は全く無かった。
「観念せんか…俺の忠告を無視してここに来たんはお前さんじゃよ。俺の心を手に入れるとはこういう事じゃ」
俺の心は安くない。
欲しいと言われようと、気に入らん奴には死んでも渡さん。
けど、もし…もし、俺の心が認めた奴なら、許した奴なら…取引だ。
詐欺師の心と…お前の全てで。
俺はお前に心を委ねた…代償として、お前の全てを譲り受けよう。
「あ…」
契約という名の宣誓か…それとも宣誓という名の束縛か
何れにしろ、互いを互いのものとする約定として、詐欺師は乙女の唇を塞いだ。
「…!」
頬に受けた口づけなど、話にならなかった。
受けた端から力が抜けてゆき、桜乃は己を追い詰める男に自ら縋りついてしまう。
そんな彼女の柔らかな唇を思うままに味わい、貪り、男は嬉しそうな声で囁いた。
「…お前さんにとっては、損な取引じゃったかな」
こんなに綺麗な心を持つ女はそうおらんのに、その全てを詐欺師の心と引き換えにしたんじゃから…
「…仁王さん…」
「ま、今更返すつもりはないがの。詐欺師は駆け引きでこちらの利を狙うもんよ、諦めんしゃい」
そして、まだ何か悪戯を企んでいる様な笑みを浮かべながら仁王は一言、こっそりと付け加えた。
「…その代わり、お前さんは俺が誰よりも大事にしちゃるよ?」
了
前へ
仁王main編トップへ
仁王編トップへ
サイトトップへ