お洒落するなら


「あ、仁王さん、こんにちはー」
「おう、竜崎か、元気そうで何よりじゃな」
 四月の春風薫る季節…世の学生達は新たなスタートを切る。
 立海大附属中学に在籍していた三年生、仁王雅治もその例には漏れず、今年同じ大学附属の高校へと進学を果たし、また、青学の一年生であった竜崎桜乃も、何事もなく二年生へと進級していた。
 春になり学期も新しくなり、色々と身の回りで変わったこともあったが、桜乃が過去の立海テニス部レギュラー性質の許へ見学に赴くという習慣は変わらずに続いている。
 レギュラー達にとっては好ましいことであり、それは「コート上の詐欺師」という異名を持つ仁王にとっても例外ではなかった。
 いつもの様に銀髪を後ろでゴムで括った姿で、端正な顔立ちの若者は、部が始まる前に桜乃へと近づいてゆく。
「折角来てくれとるのに、見学ばかりですまんの」
「あは、いいんです。その代わり、気合いいれて見学しますから」
「そう言われると照れるの」
 照れると言いながらも、その態度には聊かの揺らぎも見られない。
 滅多に動揺を顕すことなく人を欺く姿こそが、彼が『詐欺師』と呼ばれる所以でもあるのだ。
 しかし桜乃に関しては、仁王はそれ程頻繁に騙すという行為は行わなかった。
 『今ひとつスリルに欠ける』というのが彼の主張なのだが…真偽の程は不明である。
「ま、もう少しして俺らがレギュラーの座を分捕れば、また指導も出来るようになるじゃろ。それまではまぁ我慢しときんしゃい」
「い、いえ、そこまでして頂かなくても…」
 レギュラーになるという向上心は褒めるべきところだろうが、彼らがその座に座るという事は、同じ座を追われる先輩達がいるという事でもある。
 自分がその理由になるというのは、多少心が重くなる話で、桜乃はおどおどと引いてしまったが、向こうは楽しそうに笑っている。
「何じゃ、俺らがレギュラーになるんは嫌かの?」
「そういう意味じゃなくてですね…」
「じゃあええじゃろ?」
「うーん…折角の春なのに、早速殺伐とした雰囲気が…」
「はは…」
 悩める少女の台詞に、詐欺師が軽く顔を上げて笑った時…
 ぶつ…っ
「お…っと…」
「あ…」
 小さな音が聞こえると同時に、桜乃の目前でかつて見なかった相手の姿が露になる。
 ふわ……
(うわぁ…っ)
 思わず心の中で声が上がった。
 括られて一つに纏まっていた若者の銀髪が、風に煽られるように広がり、素直に流れていた。
 いつもとはまるで異なる印象の相手に、桜乃は夢中になって視線を注ぐ。
(わ〜…髪を解いたらこんな感じなんだ、仁王さん…!)
 一方で髪が解けてしまった仁王は、ありゃ、と周囲の地面を見回し…ああと合点がいった様に頷いた。
 そしてその場で屈んで、一本の切れてしまったゴム紐を拾い上げる。
 ほんの数秒前まで、彼の髪を括っていたものだった。
「不良品か…ぶっちりいっとる」
 溜息をついてそれをポケットに仕舞い込むと、彼は少しだけ眉を顰めて呟いた。
「困ったのう…新品に換えたばかりじゃったから、替えは持っとらんのじゃ。しょうがない、後で端を結んで…」
「ああ、それなら…」
 大丈夫ですよ、と断りながら、桜乃が徐に自分のおさげの内の一本に手を伸ばす。
「え?」
 何が?と仁王が問う前に、少女の手はあっさりとおさげを留めていたゴムを外してしまっていた。
「…!」
 仁王の目前で、さら…と桜乃のおさげの一本が素直に解かれ、流れてゆく。
 そうしている間に、桜乃はもう一本のおさげのゴムも外して、結局全ての髪を素直に下へと落としてしまった。
「はい、使って下さい。一つでいいですか?」
 差し出されたゴムに戸惑いながらも、仁王は目の前で微笑む桜乃の姿をしっかりと網膜に焼き付けようとするかの如く、相手を凝視した。
 普段はおさげという地味な姿だが、一度それを解くと彼女の印象はがらりと変わる。
 さらさら、艶々した黒髪が彼女の肌の白さを一層引き立たせ、顔立ちも全く同じにも関わらず、目を惹いてしまうのだ。
 それは、人の目だからこそ生じていた一種の錯覚が解かれた一つの例だったが、普段からおさげの姿を見慣れていると、一層心には強く残る。
 仁王もその姿を見るのは初めてではなかったにしろ、久し振りの事だったので、つい視線を留めて眺め入ってしまった。
「…仁王さん?」
「あ、ああ…すまん」
 ついぼーっとしてた、と断りながら、ゴムの内一つを手にとってから、彼は桜乃を見下ろした。
「しかし、お前さんの分が…」
「あ、私は大丈夫ですよ…こうして…」
 言いながら、桜乃は自身の髪を全て掬い取ると、それらを左側に持っていき、あみあみあみ…と器用に編んで、あっという間に一つ編みにしてしまった。
「ほう…上手いもんじゃのう」
「いえ、恥ずかしながらこれしか出来ないんですよ」
 きゅっと先をゴムで留めながら、桜乃は恥ずかしげに笑った。
「おさげしかした事ないから、他の髪型はちょっと…でも、まとめるだけならこれでも十分ですけどね」
「ふぅん…」
 確かに、今の一つ編みも普段とはまた違う艶があるというか…可愛らしいが。
「あ――――――――――――っ!!」
 そう思っているところで、背後から大声が響いたかと思うと、丸井が大急ぎでその場に走ってきた。
「おさげちゃんっ! 何か髪型変わってない!?」
「ああ、丸井さん…ええ、今はちょっと、仁王さんにゴムを貸して…」
「へぇー、へぇーっ!」
 じ〜〜〜〜っと見つめられて、桜乃が恥ずかしげに顔を逸らし頬を染める。
「あの…は、恥ずかしいですよ」
「それも可愛いじゃん! 照れてる感じがまた何とも〜」
「何処のオヤジじゃよ」
 背後から冷ややかに突っ込まれながらも、丸井は全く動じずに振り返る。
「あっ、仁王! グッジョブ!」
「黙りんしゃい、俺まで誤解されるじゃろうが」
 そういうつもりではなかった事を強調してから、仁王は改めて桜乃へと視線を向けた。
「すまんの、竜崎…部活中は借りとく。今日は最後までおるんか?」
「はい、そのつもりですよ?」
「そうか…なら、終わったら返すけ」
「ええ」
 そして仁王は、いつもは赤のゴムを黒に変えて、コートへと向かって行った。


 幸い、仁王に貸したゴムが再び部活中に切れるというアクシデントはなく、彼は無事に全ての練習内容を恙無く終えた。
『お疲れ様でしたーっ!』
 全員の掛け声がコートに響き、そして部員達が解散する。
 それからの銀の髪の若者は、ラケットを抱えたままそのまま部室に戻るのではなく、一度桜乃の方へと近づいて行った。
「竜崎」
「あ、お疲れ様でした仁王さん。凄かったですね、先輩方にもあんなに余裕で…」
「はは、結構下では必死に水掻きしとるもんよ…ところでお前さん、今から少し時間あるか?」
「え…?」
「ゴム、ダメになったじゃろ? この際少し予備も買って帰ろうかと思ってのう、近くの店に寄るつもりなんじゃが、お前さんも一緒に来んか?」
 同じ小道具を扱う仲間同士、と砕けた様子で笑う相手に、思わず桜乃も笑みを零してしまう。
「あはは、そうですね…じゃあ、ご一緒してもいいですか?」
「勿論…そのつもりで誘ったんじゃから」
 じゃあ、一緒に行こうと決まったところで、ふと仁王が指を己の髪を括っていたゴムへと伸びた。
「ああ、そうそう…これも返さんとな」
 それを外そうとした相手に、しかし少女は軽く手を上げて止めた。
「いいですよ、そのままお店に行きましょう? 私の方も別にこれでも支障はないですし」
「ん…そうか?」
「ええ」
「…じゃ、もう少しだけ」
 桜乃の好意に甘える形で、結局仁王はそれを借りたままに部室へと入り、手早く着替えを済ませてから再び彼女と合流した。
「ほい、おまっとさん」
「ええとぉ…何処のお店なんですか?」
「ん、駅ビルの中じゃよ。結構色々なモノが揃っとって、女性にも人気があるらしい」
「わぁ…面白そうですね」
 早速興味をそそられたらしい桜乃に、ん?と仁王が意地悪な笑みを見せる。
「何じゃ? おさげ専門じゃなかったんか?」
「ひどーい。まぁ確かにそうですけど…でもああいう場所って見ているだけでも楽しいんですよ?」
「女は不思議なもんじゃのう…俺はいつもは用事が済んだらすぐに退散するぜよ」
「見て回ったりしないんですか?」
「…男一人でああいう場所を巡るんは覚悟が要るんよ。客も女ばかりじゃし…」
「ふぅん…ん?」
 そこまで聞かされたところで、桜乃がふと疑問の声を上げた。
「…………もしかして仁王さん、私を誘ったのは…」
 視線を逸らす為の人壁ってコトですか…?
「さー、早いところ行くかの、竜崎」
(思い切り誤魔化したーっ!!)
 自分の疑問は完全に無視で、くるっと背を向けてすたすたすたと歩き出した相手に、桜乃が『図星ですねっ』とささやかな非難の混じった視線を向けた。
「相変わらずですね」
「いやいや、それ程でも」
「…スルー能力も冴えてるようで」
「普段の努力の成果じゃ」
 そんなこんなで何かと言い合いを続けながら、しかしとても楽しそうに、二人はのんびりと目的の駅の方へと歩いて行った。


「で、ここになるんじゃが」
「きゃー、凄く大きなお店ですね!」
 駅ビルに到着した後、仁王の案内で目的のテナント前に連れて来られた桜乃は、声を上げてその店を眺め回していた。
 イメージはもっと小さなこじんまりとした店だったが、予想の倍以上の広さ。
 ゴムやカチューシャを始めとする、髪に関連する様々な商品がずらりと整頓されて並べられている。
 仁王が『女ばかり』と評していたが確かに…見回したところ、店の中の客と思しき人々の八割から九割は女性だ。
 残りは男性だったが、彼らはほぼ全員連れの女性と一緒に回っている様だ…真っ先に思い浮かべるシチェーションは、やはり恋人同士だが、そんなに外れてもいないだろう。
(…よく考えたら、男女で一緒にこういう店を回るとなったらやっぱりしっくりくるのは恋人なんだろうけど…)
 思ったところで、桜乃は隣に立っていた銀髪の若者を見上げた。
「?」
 向こうは『どうした?』といった様子で同じく自分を見下ろしてくる。
 色は白く、目鼻立ちも整い、髪は銀色ながらも柔らかそうで艶もいい…正に色男。
(この人が恋人だったらいいな、なんて思えるのは、余程の美女じゃないと無理よね…私は仲良くはしてもらっているけど、せいぜい妹分止まりだろうし…)
 その妹も、ろくにおさげ以外のヘアスタイルなんてしたことない、色気ゼロの娘な訳ですが…
「…はぁ」
「??? 何じゃよ、いきなり溜息なぞつきおって」
「仁王さんはいいなぁ…悩みがなさそうで」
「……………」
 桜乃は純粋にその時の素直な気持ちを述べただけだったのだが、如何せん、言葉が少なすぎた。
 むきゅ〜〜〜〜っ!!
「ふえええ〜〜〜ん!!」
「生意気言うクチはこうしちゃる」
 それから桜乃は二人の最終目的地であるゴム関係の棚に付くまで、ほっぺを思い切り抓られたまま歩かされる罰を受ける羽目になってしまったのだった。
「あうう、顔がガマ口になるぅ…」
「次は小銭でも詰め込んじゃるき」
「くれるんですか?」
「……そんだけのクチが利けるなら心配要らんの」
 そこでも二人で軽口を言い合いながら、彼らはようやく目的の品物たちへと目を向ける。
 目の前の商品たちに注目している間は多少無言になったものの、所詮、ゴム程度では集中も長続きする訳ではない。
 その中での選択肢は、束にするか輪にするか…後は各色の選択とゴムの太さや強度ぐらいしか無いのだ。
 再び口を開いたのは桜乃が先だった。
「そう言えば仁王さんはいつも赤いゴムですよね? 何かこだわりでも?」
「ん? いや別に…単に目立つから見つけ易いんじゃよ」
「………それだけ?」
「それだけ」
「もうちょっとお洒落してもバチは当たらないと思いますけど」
「黒ゴム使っとる奴に言われてものう」
「い、いいんですよ、私は!」
 痛い処を指摘されて桜乃は恥ずかしそうに言い返し、ぽつんと付け加えた。
「元が地味ですし…髪ばかり派手にしても仕方ないですから」
「………」
 そんな相手の呟きを聞くと、仁王ははぁ、と溜息をつき、くしゃりと前髪をかき上げながら答えた。
「…『敵を知り己を知らば百戦危うからず』と言うが…お前さんはまだ敵も己も知らんのじゃな」
「…敵?」
 こういう場合、誰を敵と呼ぶのだろう?
 全く想像がつかないらしい少女に、仁王は苦笑いを浮かべながら問いには答えなかった。
「ああ、分からんならええよ。けど、地味じゃと言うばかりでは何も変わらんじゃろ、何か新しいコトに…ん…」
「? どうしたんですか?」
 途中で台詞を止めた相手に桜乃が首を傾げると、相手はにっと笑って視線の先の一点を指差した。
「面白そうな事をやっとるのう…アレ、試してみたらどうじゃ?」
「はい?」
 そう続けながら仁王が示していたのは、店の中の一画…一人の女性が立っている場所だった。
 何かのアイテムの宣伝に、どうやら試供のスペースを設けている様だ。
 と言う事は、あのスーツを纏った女性は、その商品の販売会社の社員だろうか?
「? 何でしょう、まぁこういう店でやっているなら、何かのヘアアイテムなんでしょうけど…きゃっ」
 遠目から確認しようとしていた桜乃の腕を引き、仁王はすたすたと彼女ごとそのスペースへと移動する。
 どうやら彼の頭の中では、既に桜乃にそれをトライさせる事は決定事項の様だ。
「に、仁王さん、私、別にやらなくても…」
「俺がやったら変態じゃろうが」
 『やらない』という選択肢はナシですか…と問う前に、桜乃はあっという間にそのスペースの女性の前へと連れ出されてしまっていた。
「? あらこんにちは」
「こ…こんにちは」
 視線が合って、挨拶をされ、反射的に桜乃が挨拶を返す。
 相手の女性はどうやら予想通り何かの商品の宣伝要員らしく、彼女の傍には客に何かを試供させる為の椅子が一つ準備されていた。
 その目の前にはスタンド式の鏡も一つ置かれている。
「…ええと」
 きょろっと周囲を見回したところで、どうやら彼女はアップ用のコームと幾種類かのリボンやシュシュを宣伝しているらしいことが分かった。
「現在こちらでは、誰でも簡単に出来るアップの為のアイテムを紹介させて頂いております。お時間があったら如何ですか?」
「あっ、あのその…でも、私…」
(…一度捕まったら、間違いなく餌食になるタイプじゃのう…キャッチセールスとか大丈夫なんか…?)
 こういう時こそ毅然とした態度が重要なのだが…こののほほん娘には望めまい。
 そう思いつつも今回は狙って自分が連れてきたので、仁王も揃って桜乃に試供を受けるように勧めた。
「まぁええじゃろ、時間もあるし暇潰しにもなるし楽しそうじゃよ?」
「それは仁王さんが、という意味でしょ?」
「ノーコメント」
「…ん、もう…」
 ここまで来てしまうと、流石に断りづらくなる。
 仕方ないか、と桜乃は二人に勧められるままにちょこんと椅子へと腰掛けた。



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