それを合図に、女性がてきぱきと準備を始め、整ったところで桜乃の髪を留めていたゴムを外して手櫛で整えた。
「まぁ、とても綺麗な髪ね、量も多いし艶もあるし、これなら色々なアレンジが楽しめると思います」
「は、はぁ…そうですか?」
「折角いいものを持っていらっしゃるなら、それを十分に活用しないと…普段、髪は弄らないんですか?」
「そ、うですね…ずっとおさげで…」
「あら勿体無い。こちらのコームなどは初心者でも簡単にアップが出来る様に工夫されておりますよ。ちょっと失礼…」
 さり気なく自社製品を勧めながら、女性が桜乃の髪をすくい上げて形を整え、頭頂部に持ち上げ軽く巻いてコームを差し込み、また形を軽く整えてゆく。
 時間は本当に数分程度だったが、それだけで桜乃の髪は見事なアップに仕上がっていた。
「コームはあくまでまとめ用のアイテムですから、後はこういうアクセサリーで色を付けると映えますよ。長めのリボンを巻いて髪と一緒に流すのもいいですね」
「はぁ…」
 初めての経験なのであまり気の利いた返答は出来なかった桜乃だが、確かに目の前の鏡を覗き込むと雰囲気は一変しているぐらいの事は分かった。
 しかしいつものおさげでないと、何となく頭のバランス感覚がおかしくなって変な感じがする…続けていたら慣れるのだろうけど。
 そして更に数分後、桜乃の髪は両サイドに少しだけ後れ毛を出した形でのアップが完成した。
「学生さんなら全てを上げるより、一部後れ毛を出したりした方がお洒落でいいでしょう。おさげもそうですが、うなじが見えたらよりセクシーですから男女にも人気が高いんです」
「はぁ、うなじですかぁ…」
 やっぱりぴんとこない…
(でも、この髪型も悪くはないかな…何だか新鮮な感じがするし、これなら私にも出来そう…)
 そんなに高くない値段だし、と思ったところで、桜乃は肝心のもう一人のアドバイザーに意見を聞く事を思いつき、そちらの方を振り仰いだ。
「仁王さんから見たら、どうですか?」
「…ん?」
「?」
 何故か、ワンテンポ遅れて返って来た生返事。
「…あの、変ですか? これ…」
「……あーいや…」
 また、返事が遅れて返って来る…仰いだ先の若者は、口元に思案している様に手を当てて、じっと考え込んでいた。
 まさか、白いうなじに見蕩れてました、なんて本当の事を言う訳にはいかないだろうな…
「…似合わんことはないが…ふむ」
「あら、彼氏さんは気に入りませんでしたか?」
 何気ない店員の台詞に、何より傍で聞いていた桜乃がぶっ飛んだ。
(えええええっ!!)
 彼氏って…!!
(ち、違いますっ! 違うけど…私が否定するのも失礼だし…!!)
 ここは一つ、本人に否定してもらわなければ!と桜乃は再び仁王と目を合わせつつ、ぱたぱたぱたっと両手を振り回した。
 意味ある様でないジェスチャーだが、その狼狽振りから何を言いたいのかは何となく見て取れる。
 そのジェスチャーをしっかりと確認した仁王は、一秒の無表情の後に…
「……」
 何故か、にや、と意味深に唇を歪めていた。
(はい…?)
 何…と思っていると、彼はそんな桜乃の前で店員に向き直ってその唇を開いていた。
「俺は嬉しいんじゃが、他の男にはそこまで見せたくないのう…恋人でもいつも傍におれる訳じゃないし、可愛いこいつが襲われでもしたらタイヘンじゃ」
(何言ってるんですか―――――――っ!!!)
 きゃーっ!!と内心パニックになっている桜乃がぱくぱくと金魚の様に口を開閉させている脇で、ノロケを聞かされた店員はあらあらと笑った。
「う〜ん…じゃあハーフアップならどうかしら、そうじゃなければ両脇だけ編み込んで後ろを流せば、首元を隠す事も出来ますよ」
「ほうほう…」
 さわり…
「…っ!!」
 突然、少女のうなじに背後から触れてきた何かの感触に、ぞくんと桜乃の背が粟立った。
(に、仁王さん…っ?)
 間違いなく、詐欺師の指先だった。
 詐欺師は、少女の恋人として振舞いながら何気なく彼女のすぐ後ろに立ち、店員の話に聞き入りながら、興味のある素振りを見せながら、首を軽く掴む姿勢でゆっくりと指先を白いうなじに滑らせていた。
 恋人同士であれば確かに、それ程咎められるレベルではないボディータッチかもしれない。
 しかし、これまで男性と付き合った事もなく、そんな場所を他人に触れられた事も無い乙女にとっては、その感覚は大きな衝撃だった。
(あ…仁王さんの指、が…)
 触れてくる…滑ってくる…のが、分かる…
 じっと羞恥に震え、声を殺す乙女をからかい遊ぶように、指先達は白い彼女のうなじを思うままに蹂躙し、そして絡んできた短い後れ毛をくるくると巻きつかせて、ゆっくりと解いていった。
 その指使いは大胆であり繊細であり、正に人を欺く詐欺師の持つそれ。
「〜〜〜〜っ」
 目には見えなくとも…いや、見えないからこそ相手の指先の動き一つ一つが、実に鮮明に脳裏に浮かんでくる。
 目を閉じながら思い浮かべてはそれを打ち消し、打ち消した傍からまた思い浮かべ…それを何度か繰り返していた時だった。
「じゃあ、ハーフアップで。その場合は…」
「!」
 どうやら、自分の髪を使ってまたあの女性がスタイルを変えるらしい…
 彼女の声ではっと瞳を開いた時、桜乃の目が目の前の鏡の景色を視界に捉える。
 そこには、やけに紅潮した自分の顔と、そのすぐ背後でこちらを見て笑う詐欺師の顔があった。
 彼はずっと…彼の指先の愛撫に耐えていた自分の表情を見つめていたのか…
 また新たな羞恥で顔を朱に染めていた桜乃を他所に、仁王は微笑みながらようやく首筋から手を離してその場から数歩離れ、代わりに女性が今度は背後に立った。
「こちらも大変簡単に出来上がるように工夫されています、最初に…」
 それから女性も二人も何事もなかった様に振る舞い、特にトラブルも生じずに試供タイムは終了したのだが、その後仁王の用事も全て済ませて店を出る時、桜乃の髪は結局買い上げたコームが差し込まれたままハーフアップのスタイルを保っていた。


「何じゃ、ご機嫌ナナメじゃの」
「誰の所為だと思ってるんですか」
 帰宅途中、ずーっと無言で、しかも拗ねている空気をこれでもかと振りまいている桜乃に、遂に仁王が苦笑混じりに声を掛けると、やはり少し怒った様子のそれが返って来た。
「じゃーから、コームは俺が買ってやったじゃろ。他に何が不満なんじゃよ」
「…だって」
 くる、と振り向いた桜乃がほんの一瞬怒った表情を見せた、が、すぐに消え去り、代わりに何故か切なげなものへと変わってゆく。
 相手の憂いの表情に密かに目を剥いていた仁王の前で、桜乃は改めて仁王を見つめた。
「恋人でもないのにあんな…からかい過ぎですよ」
 彼女が言っているのは、あの試供の時間に仁王が自分にしてきた行為、そして、あの店員に自分が彼の恋人であるかの如く語った言葉だった。
 『冗談でも嬉しい』なんて言葉もあるけど、あんなの、相手を好きでいる人にとっては残酷なものでしかない。
 自分の気持ちまでもが『冗談』で済まされてしまった様な…そんな惨めさしかないのだ。
 それでも。
 その惨めさを分かっていて尚、相手の優しい指先の愛撫を少しでも嬉しいと思ってしまった自分は…きっと彼を責める資格もない…一番卑しい人間だ。
「……」
 無言で聞いていた仁王に、桜乃は気を取り直してにこ、と笑った。
 責めるつもりはない…彼は私の気持ちを知らないのだから、あれは本当に只の冗談だったのだろう…触れたのも、戯れだったのだろう。
 なら、自分が忘れて…いつもの二人に戻ればいい話。
「もう、本当の恋人さんにしか、あんな事はしちゃダメですよ…鈍感な私はともかく、女性はデリケートなんですからね…あ、それと」
 言いながら、桜乃はポケットからごそりと小さな袋を取り出して仁王に手渡した。
「?」
「さっきの店で買いました…空色の綺麗なゴムなんですよ。仁王さん、その色好きだったでしょ? 良いお店、教えてもらったお礼です」
「!…」
 手渡された詐欺師は、は、と桜乃を見つめ、それから再び手の上の袋へと視線を落とし…ぎゅ、とそれをきつく握り締めた。
「……………はぁ」
「?」
 息をつき、桜乃を見据えた若者は、途方に暮れた様な表情をして呟いた。
「……ほんに難しいのう…お前さん」
「え…?」
 呟きでも、桜乃には彼の言葉は十分に聞こえたが、その意味するところはまるで分からなかった。
 難しい? 私が?
 何がどう難しいのだろうと思っている間にも、仁王は困った表情のままに少女に問い掛けていた。
「今日は流石に気付いてくれるかと思っちょったが…やっぱりあれでもダメなんか?」
「気付く…?」
 何に? 分からない…
 何だか今日の仁王さん…さっきから、変だ…
「…こうなったら正攻法ではっきり言うしかないんかの…『好きじゃ』と」
「っ!!…え?」
 全く以って正攻法…この上もない直球勝負の相手の台詞に、桜乃の全身が固まってしまった。
 好きって……誰が…?
 ここには私しかいないけど…まさか、そんな…?
 相変わらず事態を飲み込めていないらしい少女は、困惑の表情を刻んでいたが、もう仁王には相手を待つ様子はなかった。
「優しいし可愛いしすぐ騙されるし…本当、世話が焼けるぜよ」
 つかつかつかっとほんの数歩歩いただけで桜乃の直前まで迫った男は、そのままぐい、と左手で相手の腰を抱いて拘束し、右手でその細い頤を持って自分へと上向かせた。
「しかもここまで鈍いと、お前さんに安易にお洒落をさせるのも危険じゃな…俺の見てない処で何があるか分からんきに…」
 するん…
「っ!?」
 頤から男の右手が桜乃の首筋を通って後頭部へと移動し、その指が髪に深く差し込まれていたあのコームに掛けられたのが分かった。
「じゃから、これは俺が買い取ったんよ…俺の知らん処で付けられて、他の男に見られたりしたら敵わん…返してもらうぜよ?」
 そしてその言葉の中で彼の手は躊躇いなく動き…桜乃の髪を留めていたコームをあっさりと引き抜いてしまう。
 元々くせがなかった少女の素直な髪は、解かれると同時にふわりと微かに宙を舞い、そのまま重力へと身を委ねた。
 あまり見ることのない少女の髪を解いた姿を間近で見つめながら、仁王は悪魔の様に優しく笑う。
「そしてこっちは…奪わせてもらう」
 詐欺師が己の手の内を一度でも見せた以上は…相応の獲物を頂こう。
 お前の唇が、その証。
「…っ」
 戸惑いはある…しかし、拒絶の色はない。
 例え拒まれたとしても逃がすつもりなど無かった…しかし、相手の反応に何処か安心している自分に、仁王は自嘲の笑みを浮かべながらゆっくりと乙女の唇を味わった。
「仁王、さん…?」
「雅治」
 そう呼べとばかりに端的に言った男は、ぺろっと舌を覗かせながら笑う。
『美味かった』
 そう言わんばかりの仕草に、かぁ、と桜乃が赤くなり、どうしたらいいのか分からずに身体を揺らすと、向こうは面白そうに更に深く笑い…手にしていた鞄から一つ、リボンの束を取り出した。
 丁度、髪飾り用の長さのリボン…パール加工が入った様に艶々しているが、地の色は薄いピンクだった。
「…?」
「じゃ、さっきのゴムのお礼…綺麗な桜色じゃろ? 丁度、付けるにも良い季節じゃし、お前さんに似合うと思って買ったんじゃ…ほれ、つけちゃるき」
「あ…」
 てっきり、髪に結んでくれるのかと思っていた桜乃だったが、仁王がその手を伸ばして器用にリボンを結んだのは…彼女の首だった。
 これじゃあ、まるで…首輪みたい…
「〜〜〜〜」
 さり気なく所有権を示された様で桜乃が声も出せなくなっている一方、相手の姿に満足だとばかりに仁王が頷いた。
「これでもう、お前さんは俺のもんじゃ…触れても文句は言わせんよ…それと、な」
 そして、手にしたあのコームを見せつけながら、しっかりと念押しまでしたのだった。
「…お洒落したけりゃ、俺の処に来ることじゃな」


 あれからほんの少しの時間が過ぎて…
「下さいってば」
「嫌じゃ」
 恋人になった筈の二人は、かつての彼らと同じ様にまた、部室の中で言い合いをしていた。
「たまにしか触れないから、いつまで経っても出来ないんですよう…手許に置くぐらいいいじゃないですかぁ」
「上手くなりたきゃ俺の処に通うことじゃな」
「もーう」
 二人の言い合いの元になっているのは、あの日に仁王が買い上げたコーム。
 あの日仁王が宣言した通り、桜乃は彼の許に来た時にだけコームを受け取り、別のヘアスタイルに挑戦していたのだ。
 しかしやはり毎日通う事は難しいので当然スタイルを変える機会も限られ、なかなか上達出来ない事を、桜乃は恋人に訴えていたのだった。
 やりたいのならこっそり自分で新しい物を買えばいい話なのだが、それが内緒で出来ないところが、彼女の素直さでもある。
「……そんなにこだわらんでも、あの時は簡単に作ってもらっとったじゃろ?」
「あの人は仕事で慣れてるからですよー、女の子のお洒落は大変なんですから!」
「ふーん?」
 どれ?と、言われた仁王が桜乃の髪に手を伸ばし、次にポケットに入れていたあのコームを取り出した。
 そしてそれらを弄り出して五分もしない内に……
「…ほれ、出来上がり」
 殆ど初挑戦だった筈の仁王の手によって、桜乃の髪は見事にハーフアップが完成。
 あの日、女性にしてもらっていた処を見て、覚えていたらしい。
「……雅治さんのそういうトコロがキライです」
 女の沽券がぼろぼろになった…と傷ついた桜乃が言った台詞に、仁王が困惑を交えた笑みを浮かべる。
「何でじゃよ…そこまでこの格好になりたいんなら、俺がしてやるき言いんしゃい」
 そうしたら、綺麗に仕上げられるし、俺もお前の髪に触れられるし…
「う〜…」
 まだ全て納得出来ない様子の桜乃だったが、やがてはぁ、と息を吐くと、はい、と背後の仁王に何かを差し出した。
「?」
「じゃ、責任取って、これもちゃんと綺麗に付けて下さいね?」
「!…はは、はいはい」
 そこにはあの日、桜乃が彼のものになったという桜色の証が握られていた…






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