ツンデレ兄貴?
『おにーちゃん、朝だよ〜〜〜〜』
「ん…」
或る日の早朝、立海大附属中学三年生の仁王雅治は、暖かな布団の中で安らかな眠りを楽しんでいたが、その眠りを覚ます声がドア越しに届けられてきた。
「……ん〜〜…あと五分…」
いかにもな台詞を呟きつつ、銀の髪も覆うように布団をすっぽりと被り、もこもこと寝返りを打っていると、更にドアの外から声が聞こえる。
『んも〜〜〜、お兄ちゃん! 朝練に遅れるよ!? 遅れたら罰があるんでしょ〜?』
「……なんじゃ…もうそんな時間かの」
もこもこもこ…と蠢いていた布団がゆっくりと捲られ、そこから眠そうな顔を晒した仁王は、軽く頭を振った。
「ふぅ…ちょっと夜更かしし過ぎたかのう」
昨日は確か、夜遅くまでテニス雑誌を熟読してしまい、ついつい時間を忘れてしまったのだった。
枕元には、昨日ぎりぎりまで読んでいた雑誌が広げられたままに無造作に置かれている。
目覚まし時計を見ると、そろそろ起き出さなければテニス部の朝練に遅れてしまう。
確かに、ドアの外の声が言う通り、朝練に遅れると、もれなく副部長の一喝と、下手をすれば痛い拳骨がついてくるのだ。
「やれやれ…」
仕方がない、起きるか…と、ベッドにむくりと起き上がり、その両足を床に降ろした時、痺れを切らしたらしいドアの外の声が一際大きく響いてきた。
『お兄ちゃんってば! 朝ごはん冷めちゃうじゃない! いい加減にしないと中に入っちゃうよ!?』
どうやら向こうが入ってこないのは、ドアに鍵が掛けられているとかそういう訳ではなく、一応のマナーを守っての事らしい。
しかし、いつまでも起きて来ない兄に、それを破って踏み込む!と向こうが宣言してきたのだが、当の仁王は約二秒沈黙し…
「…これだけは言っとくぜよ」
いきなり奇妙な前振りををすると、続けてさらりと言った。
「今、お前の兄は起きたばかりのセミヌード」
『セクハラ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!』
兄の言葉を聞いた途端、そんな悲鳴が聞こえてくると同時に、ばたばたばたっとドアの向こうから誰かが走り去る音が響いた。
どうやら、怒りと恥ずかしさに退散してしまった様だ。
「……」
その様を想像して仁王はにやりと笑い、確かに上半身裸のままでようやくベッドから抜け出すと、早速制服を身につけ始めた。
そして洗面所で身支度を整えて手早く髪をまとめ、鞄を手にのんびりとリビングへと向かう。
一歩中に入ると、ふわんと美味しそうなパンの焼けた香りが漂ってきて、彼の眠っていた食欲がようやく覚醒され始めた。
「お、美味そうな匂いじゃの」
「……」
機嫌のいい兄の声を聞いても、キッチンに立っていた一人の女子は、つーんと無視を決め込んで、抗議の背中を向けていた。
言葉に出さなくても『お兄ちゃんなんて大嫌い』オーラがぷんぷんと漂ってきており、それを見た仁王が苦笑する。
相手は腰まである長いおさげを軽く揺らしながら、スープを温めなおしている様だ。
その服は、兄と同じ立海の女子の制服だった。
「何じゃ、桜乃。朝から随分ご機嫌斜めじゃのー」
「セクハラ兄貴に返す言葉はアリマセン」
つーんっとそっぽを向きながらも、彼女はスープ皿に相手のそれを注いでやると、とん、と彼の席にそれを置いた。
言葉とは裏腹に、自分を含めて家族を想う気持ちは人一倍である妹に、仁王はにこりと笑って席に寄った彼女の頭を優しく撫でた。
「まぁまぁ、そう怒らんと。俺もさっきは結構心配したんじゃから」
「心配?」
「可愛い妹が、俺がセミヌードでも堂々と入ってくる様な痴女に育っていたらどうしようかと…」
「雅治お兄ちゃん、今日夕食抜きね」
即座に、仁王家の食卓を預かる桜乃は、その職権で兄の夕食を取り上げる事を決定する。
「何で?」
「聞き返すかなぁ!? そこで!!」
うら若き乙女に痴女疑惑をかけるなんて!!と妹は更にご立腹。
「うーむ、素直な気持ちを述べただけじゃのに…」
「詐欺が上手くて本音がヤバかったら、お兄ちゃん、救い様がないよ」
桜乃は溜息をつきながら兄の前の席に座り、パンにバターを塗り始めた。
「人生の選択は人それぞれだけど、絶対に身内がマスコミに追い回される様なヘマはしないでよね? 私、一応平凡でも平和な家庭を夢見ているんだから」
「敢えて訊こう。お前の頭の中では俺は一体何の職業を選んどるんじゃ」
真剣な顔で訊きながら、仁王がテーブル上の新聞をぱらっと開いた時、少し離れた場所に置かれていた電話がRRRRR…と鳴りだした。
「あ、電話…」
すぐに桜乃が立ち上がり、ぱたぱたと走り寄って受話器を取る。
「はい、仁王ですが?」
応対すると、若い男の声が随分と丁寧な口調で話しかけてきた。
『もしもし? 朝から失礼致します。仁王雅治君の友人なのですが…』
「雅治お兄ちゃんの…?」
桜乃の台詞に、自分に縁の相手かと仁王が振り返ったが、その彼の前で桜乃は背を向けたままにっこり笑い、受話器の向こうの相手に返した。
「お兄ちゃんに友達はおりませんが?」
「ほう」
ぴくーんっと眉を少し吊り上げながら、仁王は背後で持っていた新聞をぎゅっと筒状に丸め……
すぱこ――――――――――んっ!!
柳生宅…
『あ―――――――んっ! 雅治お兄ちゃんがぶった〜〜〜〜〜〜っ!!』
受話器の向こうから、可愛い女性の嘆く声が聞こえてくる。
『あーもしもし、柳生かの?』
「仁王君、恥を知りたまえ」
電話口での挨拶もそこそこに、仁王の親友である柳生比呂志は、向こうの若者を厳しく嗜めた。
「あんなに愛らしく優しい妹君に手を上げるとは、男子として恥ずべき行為ですよ」
『傷ついた俺のナイーブな心はどうなるんじゃ』
「糊でも塗っておいたらその内直るでしょう。ナイーブという言葉の意味を、もう一度辞書で引きなおす事をお勧め致しますよ。桜乃さん、可哀想に。彼女の様な女性の心こそをナイーブの呼ぶのです」
『……俺の妹に、手ぇ出しとらんじゃろうな』
急に声のトーンが低くなった詐欺師に、紳士は内心やれやれと首を振っていた。
(また始まった…)
そんなに大事なら、それなりに優しくしてあげたらいいのに…詐欺師の癖に、肝心のところで嘘と建前が上手くかみ合わないとは。
「私がそんな無粋な事をすると思いますか? 出すなら君に宣戦布告をしてからでしょう、それより、先程部活の事で伝言が回って来まして…」
雑談は一時中断し、部活の話を至極真面目に仁王が話していると…
『行って来ます!』
「!」
ちょっと大きな、怒った様な妹の声が玄関先から響いてきた。
どうやら、彼女の方が今日は先に登校したらしい。
「……」
その視線が自分の鞄を掠めた時、ファスナーが少し開かれており、中に弁当が押し込まれているのが見えた。
怒りながらもそれを作って入れてくれた妹に、仁王はこっそりと優しい笑みを浮かべていた…
「呆れた話ですね、朝からそんな事があったとは…」
その日の昼休み、仁王は食事を親友の柳生と一緒に食べることになり、教室の机の上に弁当箱を置いていた。
朝、妹がくれた手作りの弁当だ。
それを開く前に、彼は柳生と朝の出来事について話しており、全てを聞いた相手は呆れた様に眼鏡の向こうの眉をひそめていた。
「そーなんじゃよ、酷いじゃろ〜? 今日は俺、夕食抜きなんじゃ」
「酷いのは貴方の自覚のなさです」
呆れているのは仁王の妹の桜乃に対してではなく、目の前の若者に対してである事を、柳生は隠しもせずにそう断じた。
「冷たいの〜」
「桜乃さんの心労を思うと、涙が出ますね」
くいっと眼鏡を押し上げつつ、柳生は初めて桜乃を見た日の事を思い出す。
仁王と一緒に部活を行っていた時に、偶然帰る途中の桜乃が通りすがり、そこで彼から紹介を受けたのが初対面だった。
『貴方が柳生先輩、ですか。兄から話はよく伺っております。初めまして、妹の桜乃です。お兄ちゃんが沢山、山盛りの迷惑掛けると思いますけど、どうぞ宜しくお願いします……でも嫌になったら、早目に逃げた方がいいですよ』
「まさか仁王君に、あんなによく出来た妹君がいらっしゃるとは夢にも思いませんでしたよ」
「その回想の台詞…引っ掛かるトコロが山ほどあるんじゃが」
何だ、この疎外感は…と思いつつ、詐欺師は肩を竦めながら弁当を包んでいたナプキンを解いていった。
「大体のう、アイツは人に何かと干渉しすぎじゃよ。ちょーっと可愛い悪戯してもがみがみ怒るし、うるさいったらないんじゃ」
「素行に問題があったとは言え、例の非常勤講師を泣きながら辞めさせたのも可愛い悪戯ですか」
「だってムカついたんじゃもん」
女子に何かとセクハラ行動や発言を繰り返していた男性講師を、仁王がこっそり悪戯を繰り返して心労を溜めさせた挙句、素行の全てをお上に暴露して辞めさせたのは、自分を含めたごく一部の人間しか知らない。
「そう言えばあの講師…桜乃さんを狙っていたという噂もありましたね」
「はっ、物好きじゃのー」
「……」
多分、それが仁王を動かした最大の理由である事は間違いない…が、証拠もないので、柳生はそこについてはそれ以上触れなかった。
「は〜あ…折角、次の試合の選手にも選ばれたのに、今日はジャンクでひもじい一日になりそうじゃの」
「謝ったらいいでしょう。優しい桜乃さんなら許してくれますよ」
「嫌じゃ」
「飢え死にしたら少しはその性根も直るかもしれませんが」
好きにしなさい、と言っていたところに、今度はそこに同じレギュラーの丸井が寄って来た。
「あ、仁王と柳生だ、今からメシ?」
「おう、丸井か」
「ええ、そうですよ。丸井君はもう済ませたんですか?」
「いや、今から第二弾の学食分を食べるトコなんだけど…お、仁王、またおさげちゃんの手作り弁当だ」
「おさげ言うな」
むっとした相手にも構わず、丸井は興味も露に二人に寄り、仁王の弁当箱をじーっと見つめる。
「いいよなぁ、妹の愛情こもったお弁当ってさ。おさげちゃん、料理も凄い得意なんだろい?」
「そーかの。コンビニ弁当よりはまだ少しはマシかもしれんがのー」
へっとひねくれた笑みを浮かべつつそっぽを向いた冷たい兄に、柳生がこらっと厳しく叱った。
「また仁王君はそんな失礼な事を!」
そのお弁当一つ作るのにも、どれだけの手間隙が掛かっていると思っているんです!と親友が叱っていると、詐欺師の言葉を聞いた丸井が自分の持っていたパンを差し出した。
「へー、じゃあ丁度いいや、俺の買ってきたパンと交換しようぜい! 今日はすっげーラッキーでさ、限定十個の超貴重なメンチカツパンゲットしたし、コンビニ弁当なんかよりはよっぽど美味いぜコレ! 俺はおさげちゃんお手製のお弁当の方がいいから…」
がつがつがつ……!!
「ご馳走様」
丸井のおねだりが全て終わる前に、ものの数秒の間に仁王は自分の弁当を食べ終えていた。
「あ”ーっ!!」
けぷ…と満腹になった仁王と空の弁当箱に驚く丸井の隣で、柳生は小さく苦笑い。
(本当に素直じゃないんですから…損な性格ですね)
自分の兄が、実は物凄いツンデレだということを、あの妹君はご存知なのでしょうか…?
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