その日の夕方、部活動を終えた仁王が空腹に耐えながら帰宅している時だった。
「あ〜〜、腹が空いたのう…やっぱ今日は夕食抜きなんじゃろうか…可哀想な俺、しくしく」
一人で意味不明な呟きを続けていたところで、彼は一軒のスーパーの前を通り過ぎ、その自動扉が開いて出てきた一人の女性とばったりと出くわした。
「あ、雅治お兄ちゃん?」
「何じゃ、桜乃。買い物か?」
見ると、少女は自分の鞄以外に、大きな自前の手提げ袋を持っていた。
流石、妹…エコロジー対策もバッチリだ。
「あら桜乃ちゃん、お兄ちゃんと一緒なのねー」
「あ、おばさん、丁度会ったところなんですよ」
店を出たところで、惣菜の売り場の女性に声を掛けられ、桜乃がにこにこと彼女と暫く話し込むのを、仁王は特に遮るでもなくずっと聞き入っていた。
妹は小さい頃よりここの商店街の人達から可愛がられており、外に出ると必ずと言っていい程に大人達から声を掛けられる。
変質者などの輩からガードされるという意味でも、この慣習は仁王にとっても願ったりだった。
「じゃあね、またおいで」
「はぁい」
ひとしきり話し終わった後、桜乃は相手と別れ、仁王も女性に軽く一礼して、再び二人で家へと歩きだした。
「……相変わらず人気者じゃの」
「えー、皆さんが親切なだけだよ。つい甘えちゃうけどね」
「……随分買いこんだ様じゃが、消費出来る分なんじゃろうな?」
「勿論だよー。それにね、実は今日は凄いご馳走なのです!」
とても嬉しそうに語る妹とは対照的に、仁王は何処か不機嫌な表情に変わった。
「……ほーう」
俺が食事抜きになる分、一人分の予算が上がる訳か……
「あ、反抗的態度―。ご馳走なのに嬉しくないの?」
てとてと、と兄を追いかけながら、桜乃はむーっと彼に抗議したが相手はふんと振り返りもしない。
「どうせ俺の腹の中に入らんモンに興味はないんじゃ、ほっとけ」
「入らないって…どうして?」
「夕食抜きなんじゃろうが、俺」
「え?……」
桜乃の疑問の声が聞こえたが、仁王は構わず歩き続ける。
「大体のー、空腹に苦しむお兄様に、わざわざご馳走の話をするなんてちょーっと意地悪が過ぎんかの桜乃。そういう娘に育てた覚えは…」
ぶつぶつぶつ…と説教を続ける仁王だったが、いつまでたっても反論がない相手の反応に、おや?と疑問に思う。
おかしい、いつもならこの辺りで容赦ないツッコミが入る筈なのに…
「桜乃…?」
どうした?と振り向いた先…自分の傍には彼女の姿がなかった。
「?」
「雅治お兄ちゃん…?」
呼ばれたのは少し離れた場所からで、視線を背後の先へと伸ばした仁王は、そこで桜乃を羽交い絞めにしている二人の学生服の男達を見つけた。
明らかに自分に対して敵意を持っている相手方の様相に、微かに仁王の瞳が揺らいだが、肝心の囚われた桜乃は、まだ何が起こっているのか分かっていない様子だ。
元々荒事には無縁の女性なので、まるで自分の危機に気付いていないのか…しかし、下手にパニックを起こされるよりはマシだった。
「おう、可愛い妹と仲良く下校かよ、いいご身分じゃねーか詐欺師野郎」
「……」
妹が妙なトラブルに巻き込まれつつある…ところが、仁王はゆっくりとそちらに振り返っただけで何も言わない。
夜の道、人通りも少ない場所である事は、おそらく向こうも読んでいたのだろう。
「こないだはよくもやってくれたよなぁ仁王、忘れたとは言わせねーからな」
「……」
言われ、仁王は沈黙したままに自分の鞄を開くと、中から大学ノートと油性ペンを持ち出し何かをすらすらと書き込んだ後、そのページを相手方に見せた。
『忘れた』
「言わなきゃいいってもんじゃねーんだよっ!!」
仁王の明らかにおちょくっている行為に一人の学生が怒りも露に叫んでいる傍で、ようやく徐々に状況を把握し始めた桜乃は、溜息をついて本音を漏らした。
「雅治お兄ちゃんって、本当に人怒らせるのが上手いよね…」
「刃物を使わんでも、脳の血管切ればいい話じゃからの」
対する仁王は人を食った台詞を返した後に、ようやくその二人の学生に視線を戻した。
「なーんじゃ、お前さん達か…しつこいの〜」
「お兄ちゃん、知っているの?」
完全にパニックになるタイミングを失ってしまった桜乃は、冷静沈着に向こうに立つ兄に問い掛けたが、それに対しては自分を拘束していた男達が返した。
「へっ、丁度いいや、仁王、お前が教えてやれよ」
「お前が俺達にしたこと、妹の前で言ってみな。可愛いお顔に傷付けられたくなかったらな」
「……」
仁王はそんな二人の言葉にも暫く沈黙を守り、動くこともなかった。
桜乃は、そんな答えない兄に対して一抹の不安を覚える。
(もしかしてお兄ちゃん、私に言えない様な悪いコトをこの人達に…?)
「……しょーがないのう、そこまで言うなら白状するしかないようじゃな…」
台詞だけでは、追い詰められているのは仁王であるにも関わらず、大学ノートをぎゅ、と丸める彼の表情は何処か悪魔の笑みを思わせる程に妖しかった。
(うわあああっ!! お兄ちゃんが本気で怒ってるぅ〜〜〜!!)
滅多に見ない相手の表情の変化を敏感に感じ取った唯一の少女が、心の中でそう叫んでいる間に、仁王は丸めた大学ノートを丁度メガホンの様な形にして口元に当てると…
「よう聞け桜乃! 実はソイツらは俺の事が好きなホモなんじゃーっ!!!」
「ええ!?」
物凄い大声でとんでもない告白をかまし始めた。
「待て――――――――っ!!」
「てめぇ何ふざけたコト言ってんだ!!」
二人が慌てて止めようとしたが、目が恐くなっている仁王の暴走は一向に止まらない。
いや、そもそもこんな形で詐欺師の口を自由にさせるこという事自体が、誤りだったのだ。
「お前ら、ノーマルの俺をどっかで見初めて毎回毎回しつこいぐらいに迫ってきて、その度に断っとったに、道ならぬ恋をどーにも諦められんと今度は桜乃を人質にとって迫るとは!! きっと口にも出せんような惨いコトをするつもりなんじゃな、ああひっど―――――っ!!」
「何だそれは〜〜〜〜〜っ!!!」
勿論、仁王の言う様な性癖は持っていなかった二人は今度は相手の発言を止めようと躍起になっていたが、彼らに囚われていた桜乃は完全に信じきった様子で彼らを見上げていた。
「…あの、愛の形は様々ですけど…お兄ちゃんはやめといた方が…」
「その哀れむ様な目を止めろ―――――――っ!!」
「違うっつってんだろこのクソガキャ〜〜〜ッ!!」
二人は更にパニックに突き落とされたが、そうしている間に周囲が賑やかになり始めた。
暗かった道の脇の家々の明りが灯り、窓が開き、何だ何だと野次馬の声が聞こえてきたのだ。
どうやら、仁王の放った爆弾が見事に炸裂したらしい。
「助けて」と下手に叫ぶより、ホモが何かをしでかそうとしていると暴露している内容の方が、確かに人々の興味と目は引くだろう…恐ろしい程に詐欺師の目論見は当たった。
「う…っ」
どんどん賑やかになる周囲に二人が動揺し、桜乃を傷つける事も忘れてうろたえていると、冷酷な悪魔の声が聞こえてきた。
「いつまでそんな汚い手で人の妹に触っとるんじゃ…」
はっと振り向いた時、既に隙を見た相手は自身のラケットで、黄色い弾丸をこちらに放っていた。
それは見事に桜乃を捕えていた方の男の顔面に直撃し、倒れた拍子に少女が自由になる。
「走れ、桜乃!」
「お兄ちゃん!」
呼ばれ、桜乃は多少バランスを崩しながらも必死に走り、無事に兄の傍に帰り付いた。
「ちっ…この…」
してやられた男達に反撃の機会を与えようともせず、仁王はびしっと二人を指差す。
「よーく考えることじゃな。俺はさっき、言ったじゃろ? 桜乃が『人質にとられとる』って…それは夕飯時、買い物客がわんさかおるそこの大通りにも筒抜けのはずじゃよ。因みになぁ、桜乃はここの商店街の隠れたアイドルじゃけ、お前らタダではすまんぜよ…」
「っ!!」
悪魔がそう諭すと同時に、その大通りから『桜乃ちゃんどうした!?』、『警察を呼んだぞ!?』、『こっちだよな!』と賑やかな声が一つ二つではなく、どっと押し寄せてきた。
それだけでも向こうの二人にとっては地獄の沙汰だっただろうに、怒った詐欺師は更に容赦がなかった。
「皆さーん!! か弱い桜乃を脅迫した犯罪者があそこに――――――――っ!!」
「なにーっ!!」
「ふざけた野郎だー!!」
「おい、急げっ!」
威勢のいい魚屋や酒屋の親父達の声が聞こえてきて、男達は泡を食って逃げ出した。
まぁ…逃げられる可能性はかなり低いかもしれない。
ばたばたばたと人々が駆けて行く賑やかな道の脇に立っていた兄妹は、その場が静かになったところで消えた彼らの方へと目を遣った。
「これでもう二度とちょっかいは出さんじゃろ…せいぜい絞られとれ」
「…お兄ちゃん、結局あの人達には何をしたの?」
「さぁ?」
「さぁって…」
「覚えとらん。それよりさっさと帰るぜよ、桜乃。夜道は危ないからのう」
疑問を投げかけた妹に、しかし仁王は曖昧な答えを返すに留まり、荷物を改めてまとめると彼女と並んで再び家路を辿り出した。
「ほんっとうに覚えてないの? お兄ちゃん」
「ああ、けどまぁ俺のことじゃから、法に触れるような事はしとらんよ? 可愛い妹を泣かす訳にもいかんじゃろ」
「まーたまた」
まるで、先程の大事などなかったかのように自然に歩いていた若者だったが、その足が一軒のジャンクフード店の前に来るとぴたりと止まる。
「ちょい待ち、ここに寄っていくけ」
「え? どうして?」
「今日の夕飯じゃ。流石の俺も全く食わんのは辛いからの、部活もやってきたし」
兄の台詞に、しかし桜乃は全く分からないといった表情で返した。
「さっきから聞いてて不思議だったんだけど、どうして今日はお兄ちゃん、夕食食べないの?」
「どうしてって……お前が朝に言ったんじゃろが、夕食抜きって」
「……………」
じっと沈黙すること、約三十秒…その間待つ仁王も偉かった。
「…ああ!」
「俺の胃袋はその程度のものなんか?」
ぽんと手を叩いてようやく反応を返した妹に、兄が即座に突っ込んだが、少女はころころと面白そうに笑い出す。
「冗談に決まってるじゃない! 今日のご馳走は、お兄ちゃんが好きなメニューばかりなのに」
「え…?」
にこっと笑った桜乃は、人差し指を立ててそれを兄に向けた。
「おめでとー雅治お兄ちゃん、今度の試合でもメンバーに選ばれたんだって聞いたよ? だから、美味しいもの沢山食べて、力つけておかないとね!」
「!」
ぎょっとする兄が立ち止まってしまった間に、桜乃はたっぷりの食材が入った買い物袋をうんうんと運びながら歩き始めた。
「ほら早く帰ろ? 帰ったらすぐにご飯にするからねー」
「……あ、ああ」
いかん…不覚にも実の妹にときめいてしまった…
速まりそうな…いや、少しだけ速まっている動悸を抑えつつ、仁王は止めた足を再び動かし始めてすぐに妹に追いつくと、にゅ、とその腕を伸ばす。
「え…っ?」
そして、妹が重そうに持っていたナイロン製の手提げ袋をあっさりと取り上げてしまった。
「お兄ちゃん…?」
「家まで持っちゃるき、貸しんしゃい」
「…えへ」
実にそっけない態度だったが、そこに確かに兄の優しさを感じ取った妹は、嬉しそうに笑うと相手と並んで再び歩き出す。
「雅治お兄ちゃんも、いつもこのぐらい優しくて紳士だったらいいのにねー」
「いつも一言多いんじゃ、お前は」
ほんの少しだけ『デレ』の部分を垣間見せた兄だったが、その時にはもう『ツン』の仮面に戻ってしまっていた。
しかし、二人はそれからも並んで仲良く家路を辿っていった。
家に戻った後、仁王は桜乃の宣言した通り、自分の好みのメニューばかりの夕食を思うままに堪能し、のへーっとリビングの床に寝転んでテレビをつけながら雑誌を眺めていた。
今日の分の予習復習は既に終わっているので、呑気な自由時間を満喫している様子である。
リビングにはソファーもあったのだが、そこには桜乃が座っていたので、仁王は床に寝転ぶ形で相手にその権利を譲ってやっていたのだった。
「……ん?」
ふと、仁王がそちらへと視線を移すと、桜乃はすっかり眠気に囚われてしまっているのか、こっくりこっくりと船を漕いでいた。
既に入浴は済ませているのでパジャマ姿だった少女は、キッチンの片付けも終えたところですっかりリラックスしてしまった様だ。
「…桜乃、風邪ひくぜよ」
「ん〜…」
声を掛けてはみたものの、向こうは声を返すだけでなかなか立ち上がるまでにはいかない様だ。
心地良い眠りの中にあっては、確かにその気持ちもよく分かる。
仁王はちらっと時計を見ると、もうそろそろ深夜になる頃と判断し、ゆっくりと立ち上がって相手に近づいた。
「ほれ、ここで寝たら身体が辛くなるけ、ベッドに行きんしゃい。お前はそろそろ寝る時間じゃろ?」
「う〜〜〜ん…うん」
肩を軽く揺らされ、こっくりと頷いた桜乃は、ぽや〜っとした表情のままに目の前に立つ兄を見上げた。
「…雅治お兄ちゃんは、まだ寝ないの?」
「ああ、これから見たいテニスの試合があるんじゃ」
海外のスポーツ中継はよく深夜に行われ、今日、目当ての番組があることを仁王は雑誌でチェックしていたのだった。
勿論、それは嘘ではなかったのだが…
「………えっちなのは見ちゃダメだよ?」
「とっとと寝くされ!」
謂われない疑いをかけられた兄は、寝惚けとるんか!と怒ってみたが、相手は再びソファーの海へと沈んでいく。
「ん〜〜〜〜〜〜…」
「……」
これはもう埒が明かない…しかし放置する訳にもいかないし…
「…ったく」
しょうがないのう、と苦笑すると、仁王は桜乃に両手を伸ばし、ひょいっと軽々と彼女の身体を抱き上げてしまった。
「ほれ、行くぜよ」
「んん…」
兄にお姫様だっこされた桜乃はそれにも気付いていない様子で、くてんとその身を預け、結局自分の部屋に運ばれた後も目を覚ますことはなかった。
「…よっと」
「……すぅ…」
相手のベッドに身体を寝かせた後、布団をそっと掛けると、後は彼女の規則正しい寝息だけが聞こえてくる。
カーテン越しに注がれる月光は、安らかな妹の寝顔を映し出し、兄は苦笑いを浮かべながら暫くそれを見つめていたが…
「…お前の恋人になる奴は、幸せなんか苦労するんか、よう分からんのー」
と呟き、背を向けた。
そして、部屋を出る間際…
「しょーがないから、当面は俺が面倒見てやるとするか…」
そっと囁くような声を微かに残し、大事な妹の部屋の扉を静かに閉ざした……
了
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