Train Trouble
或る日の朝、仁王が眠そうな目を擦りながらベッドから起き出し、リビングへと入っていくと、そこにはいつもの様に非の打ち所のない見事な朝食メニューがテーブル上に並んでいた。
普通ならここで感謝する対象は母親の筈なのだが、仁王は悩むこともなく、丁度庭先に出て洗濯物を干していた妹である桜乃へと言葉を放った。
「おーう、今日もまた見事なもんじゃな、桜乃」
「あれ? 雅治お兄ちゃん、もう起きたの?」
今日は日曜日で、もっとのんびりと起き出してくるかと思ったのに…と、おさげの少女は、全ての洗濯物を干し終わったところで、部屋に戻って来た。
仁王雅治の妹であり、この家の末娘である少女は、家事が得意な中学一年生。
現在は兄の仁王と一緒の立海大附属中学校に通っている。
その兄は男子テニス部でレギュラーの座を得ている上、『コート上の詐欺師』という仇名まで付けられている曲者だったが、家ではごく普通の中学生の顔をしていた。
ついでに言うとこの実の妹である桜乃の前では、彼の対応は他人へのそれよりかなり甘くなる。
「あー、今日はほれ、近隣の奴らと練習試合の日じゃけ」
いつもなら妹の声で起こされるところが、今日に限って目覚まし時計が鳴った後もそれを止めてからも、一向に彼女が来る気配がなかったので、仕方なく自分で起き出して来たのだった。
この時点で色々と人生間違っている部分があるのだが、この男にそれを気にする様子は皆無である。
「ほー、今日はアメリカンスタイルか? 美味そうじゃの」
ほくほくに温められた丸パンにサラダにハム付きスクランブルエッグ、脇にはヨーグルトであえたカットフルーツと紅茶。
一般家庭でこれだけ準備されていて、味も保証済みなら文句なく満点だ。
早速頂こうかと上機嫌だった仁王だったのだが、リビングに戻った朝食作成者の桜乃は…
「え〜〜? 起きるの遅いと思って、お兄ちゃんの分作ってないのに」
と無情な言葉。
「…ちょっとそこに座りんしゃい、桜乃」
途端に無表情で目の前の椅子をちょいちょいと指差す兄に、妹はころころと笑った。
「冗談だってば。ちゃんとお兄ちゃんの分だよ、それ」
「朝から結構なブラックジョークじゃのー」
「お兄ちゃんの妹だからかな?」
「ほー」
むっとしながらも、取り敢えずは出発の時間もあるので、仁王は早速朝食に手を付け始めた。
作ってくれた人間に対して感謝の気持ちもなきしにもあらず…しかも、それが妹ともなれば尚更の事…だが、普段、仁王はそれを口に出す事はない。
「今日の朝食は結構自信作なんだよー」
「いつもと同じじゃ」
「むっ」
さらっと返す仁王のささやかな仕返しに、今度は桜乃がむっとする。
まぁ、兄の天邪鬼な返答はいつもの事なので、本気で立腹している訳ではない。
これもまた、日頃の兄妹のコミュニケーションの一つなのだ…ちょっと普通ではない形だが。
「あーあ、どうして私、お兄ちゃんの妹なんだろ」
「そりゃお前が後で産まれたからじゃろ」
「……」
それは確かにそうなんですけど…言いたい事はそういう事ではないんです。
心の中で断りを入れながらも、それを声に出す事はなく、桜乃は無言でパンにバターを塗る。
そして、ちょっと考えて…
「まぁ、姉だったらそれはそれで大変だったよね」
「そうか?」
言われた仁王は頭の中で反芻。
現時点で妹が家庭内で行っている仕事は、朝の食事や弁当作りから始まり、夜は帰って来てから夕食の支度、洗濯物の片付け…休日に至っては家の掃除もこなしている。
姉という立場に替わったとしても、その行動にどれだけの差が出るのだろう…?
「ああ…今まで通りじゃな」
「えー? そうかな…お兄ちゃんがもし弟だったら…」
言いつつ、桜乃は仁王の顔をじーっと見つめ…
「顔立ちはすっごく整ってるんだから、妹みたいにスカート履かせたりリボン付けたりしたかったな〜〜」
ぽえ〜っと夢見る様に微笑む桜乃は、意地悪による発言ではなく、完璧に本気モード!
(先に産んでくれてサンクス、ママン!!)
冗談じゃねぇ!!と内心真っ青になる仁王に、桜乃は夢から醒めたのか、再びちょっと不機嫌な表情に戻ってしまう。
「大体ねぇ、ウチぐらいだと思うよ? ちっちゃい頃にお兄ちゃんが私を騙した時に、お母さんから『雅治お兄ちゃんだから諦めなさい』って言われたの…一桁の年でそこまで親に言わせるってどうなの?」
「……」
年下でありながら、最早自分の悪戯に対しては諦観の念すら抱いている妹のルーツはそこから来ているのだろうか…いずれにしろ、自分が蒔いた種である事は間違いないが。
「それに、普段からあんまり驚いてくれないし…」
「お前、普段何を企んどるんじゃ」
そんなに言う程、いつも人を驚かせる何かを仕込んどるんか?と危なげなものを見るような視線で妹を見据えると、相手はぷるるっと首を横に振った。
「違うもん、お兄ちゃん限定だもん」
「尚更性質が悪いぜよ」
「だってだって、お兄ちゃんを騙そうとしてもいつも見抜かれちゃうんだもん。私ばかり詐欺に掛けられるなんて悔しいじゃない」
バターナイフを軽く振り回して訴える少女の主張に、仁王はああ、と頷いた。
確かに、今まで彼女は幾度となく自分を騙そうと軽い悪戯を試みてきたのだが、その全てがあまりにもお粗末過ぎた。
自分じゃなくても誰でも見抜けるのではないかと思う程に、行動が一気に怪しく不自然なものとなるので、意図がバレバレなのだ。
兄の自分が詐欺の天才的能力を持って生まれた分、妹の桜乃はそういう能力の片鱗も神様から持たせてもらえなかったのかもしれない。
とにかく、素直で純粋である分、嘘と欺瞞を操る術を知らなさすぎる。
「……お前とは、もしかしたら血が繋がってないのかもしれん」
「それ、お父さんとお母さんの前では絶対に言わないでよね。絶対に!」
これ以上家族の騒ぎの種を増やされてはたまらない、とばかりに、妹は兄にきつく念を押す。
因みに、こうやって念押しされた事に仁王が逆らうと、向こう一週間、桜乃は口を利いてくれなくなり、手作りのお弁当もナシになるという厳罰対処。
流石に一週間分の昼食代を小遣いから捻出するのは堪える…という理屈で、そういう時は兄も比較的大人しくなる…一番堪えるのが何なのかは知らないが。
「分かった分かった」
「普段もあまり感情出さないから尚更悔しいな〜…それで騙されている女の人もいるかと思うと気の毒で…」
「お前、最近俺をネタに楽しんどるじゃろ…?」
やれやれ、といった表情で見ている兄の前で、先に食べ終わった桜乃は食器を片付けると、ソファーに置いていたバッグを取り上げ、中身を確認し始めた。
「えーと、ハンカチに〜ティッシュに〜携帯に〜…」
「何じゃ? お前も何処かに出かけるんか?」
「うん、デート」
バッグの中身を覗きこみながら、妹は兄の質問に頷いて答え、瞬間、兄は自分の携帯を口元に持っていっていた。
「もしもし柳生、今日は俺、試合休むんで適当にパートナー見つけといてくれんか」
『ええ!!??』
「うあ―――んっ!! ウソです〜〜!」
実は女友達数人とちょっと電車に乗って遠出をする予定だった桜乃は、驚かすつもりが早々に真実を吐かされる事になってしまった。
「どうして私、お兄ちゃんの妹なんだろ…」
「くどいっちゅうに」
しくしくと嘆く妹の手作り即席弁当を、ちゃっかりと鞄に詰めた後、仁王は元気に立海へと向かっていった。
「全く…何を考えているんです貴方は!」
立海に着いて間もなく、仁王は先刻電話を掛けたばかりのパートナー柳生にしたたかに叱られていた。
「いきなり電話を掛けてきたかと思うと、開口一番『試合を休む』など! 何事があったかと思いましたよ!!」
「あー、はいはい、スマンスマン」
すたすたすた…と足早に歩く仁王の後ろを、全く間隔を違えずに柳生がすたすたすた…と追いかけていく様は、或る意味立海男子テニス部の名物でもある。
「…何があったのかな?」
遠くでそれを見ていた、既にウェアーに着替えていた部長の幸村が言葉に出すと、隣でノートを見ていた柳がそれから目を逸らす事もなく答えた。
「早朝に、試合不参加の意思を、仁王が柳生に伝えてきたらしい…すぐに訂正された様だが」
「へぇ…あの仁王が珍しいね。何があったんだろう?」
「訂正したのは仁王の妹だったそうだが…まぁ、ただの兄妹喧嘩の延長だろうと柳生は言っていたな」
「……兄妹喧嘩で試合放棄なんて、かなり方向性がずれた逆恨みじゃないか?」
「俺もそう思う」
うーんと首脳陣二人が考えている間にも、仁王と柳生は相変わらず早足での追いかけっこを続けていたが、それもやがてどちらからともなく止められる。
「どうせまた貴方が妹君にちょっかいでも出したんでしょう」
「両者の言い分も聞かんで決め付けるとは、紳士の風上にもおけんのう、柳生」
「貴方が桜乃さんに悪戯を仕掛けることはあっても、彼女が貴方に悪戯をするなど考えられませんからね…したとしても先ず不発でしょうけれど」
(…哀れじゃのう、桜乃……)
兄の友人にすら読まれているとは…と、仁王は心の中で妹に同情する。
あいつはもしかしたら、一生、人を騙しきれずに人生を終えるのかもしれん、とよく分からない哀れみ方をしている仁王に、いきなり相手が黙ってしまった柳生は首を傾げた。
「…? どうしたんです」
「いや…何となく桜乃が不憫で」
「貴方、今更そんな事を…」
仁王の妹に生まれたというだけで、相当に不憫だ…と眼鏡の下の涙を拭う柳生に、けっと相手は毒づいた。
「ほっとけ。試合中にもそんなボケかましとったら、レーザービーム打ち込んでやるけ」
「受けて立ちましょう…今日の電話の恨みは深いですよ」
この兄には一度、痛い目に遭ってもらって反省して頂いた方が…と柳生もいつになく喧嘩に乗り気である。
その様子を、遠目で見ていた同じくダブルスの丸井とジャッカルが『あ〜あ』という表情で眺めていた。
「なぁ…ダブルスって、同じコートの中のヤツとバトる競技じゃなかったよなぁ、丸井」
「少なくとも、俺はそーゆー競技は見た事ねー…噂で、青学の誰かと誰かが似たようなプレーをやらかしたとは聞いてるけど…非公式の試合だったってさー」
「へー…青学も苦労してんのかな」
「こーゆー苦労かは知らねーよい」
一方で、その二人と同じ様に、切原と真田も並んで彼らの様子を不安げに見守っている。
「副部長…本当に今日の試合の組み合わせ、あの二人のままで良かったっすか?」
「逆に相手のダブルスが何事かと戸惑うかもしれんな…感心出来ることではないが」
そうは言っても、組み合わせはもう提出してしまった後なので、訂正は効かない。
やがて試合の時間が近づいたところで、幸村は立ち上がり、全員に檄を飛ばした。
「さぁ行くよ、皆!」
『イエッサーッ!』
普段はおちゃらけているメンバー達でも、その時が来たら例外なく自分の役目に徹することが出来る。
先程まで結構な言い合いをしていた仁王と柳生も、部長の檄一つに振り返った時には、既にダブルスパートナーとしての顔に変わっていた。
「行くか」
「ええ」
立海ダブルスに、仁王と柳生あり、という事実を知らしめる様な試合はあっという間に終わっていた。
幸い、互いが互いにレーザービームを打ち合うという馬鹿馬鹿しくも不毛な試合運びにはならなかった。
「チョロかったのう」
「確かに、いつにも増して技の切れが良かったですね、仁王君」
「そういうお前さんもな」
理由がどうあれ、向こうに反撃の機会も与えずに完全勝利で終わったことは、歓迎すべきことである。
何しろこの立海男子テニス部は、ただ勝てばいいという甘い考え方は許されない。
勝ったとしてもその勝ち方がお粗末であった場合、それだけでペナルティーの対象になってしまう…王者としての強さを保つ為に払われる努力は並大抵のものではないのだ。
しかしその中にあって悠々と強さを見せつけ、レギュラーとしての価値を証明する仁王達は決して口先だけの男ではなかった。
「ご苦労、仁王、柳生」
「おう」
「なかなか、有意義でしたよ」
柔和な笑みではなく、部長としてのそれで二人を迎えた幸村は、特にペナルティーや苦言を呈する様子もなかった。
及第点だったということだろう。
「…ああ、そう言えば仁王」
「ん?」
幸村が、ふと仁王に対し、ベンチ脇に置かれていた彼のテニスバッグを指差した。
「何か、中で振動していた。携帯だったんじゃないかな?」
「おうそうか、すまん」
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