勿論、携帯を所持したまま試合に臨む筈もなく、仁王は確かに幸村の指摘通り携帯はバッグの中に入れていた。
次は切原のシングルスの試合だったが、まだ始まってはおらず、見学の前に仁王は携帯を取り出して素早くチェックを行った。
「んー…?」
「どなたからです?」
「…桜乃からじゃ。友達と一緒にスイーツ巡りをしとるらしい。兄が戦っとる最中に呑気なもんよ」
ぽり…と頭を掻く仁王に、柳生はほうと笑顔で頷いた。
何ともイマドキの女子中学生らしい休日の過ごし方だ。
「それは楽しそうですね、幸い今日は天気もいいですし」
柳生が答えている間に、仁王は早速返信を器用に打ち込むと、送信してから再び携帯をしまい込んだ。
「何を返事したんですか?」
「お土産はホールケーキで手を打っちゃる」
「譲歩していると見せかけて、思い切り搾取する気満々ですね…」
「詐欺師じゃから」
けろっとした顔でそう答えると、仁王は座り込んだ足に肘をつき、その上に顎を乗せる形で切原の試合の観戦を始めていた……
無事に全ての試合が立海の勝利で終わり、更にめでたい事には誰もペナルティーの犠牲になる事もなく、メンバー達の行事は終了した。
「じゃあ、今日はここで現地解散にしようか」
「そうだな」
部長と副部長の言葉で、メンバー達はその場での解散を迎え、以降はそれぞれの自由時間を得ることになる。
さっさと制服に着替えてバッグを肩に担いだ仁王に、同じく着替えを済ませた柳生が声を掛けてきた。
「仁王君、これから少し付き合って頂けますか?」
「…お前さんには済まんが、俺にそういう趣味は…」
「それ以上言ったら本気でレーザー打ちますよ」
眼鏡の奥を光らせて威嚇する相手に、仁王は笑って軽く手を振った。
「はいはい…何の用じゃ?」
全く…と呆れた様子の柳生は、一度眼鏡にやった手を下ろしてネクタイの結び目を整えつつ、相手に或る事を依頼した。
「新しいラケット、何本か候補を挙げて購入を考えています。私達が変装して試合に臨む事もある以上、君にも見てもらって具合のいい物を選びたいと思うのですが…これから時間があるのなら、一緒に見に行って頂けませんか?」
「ほう…何処の店じゃ?」
柳生が説明した店が、自分にも馴染みの場所であり、ここからも遠い場所ではなかった事もあって、特に予定のなかった仁王はすぐに頷いた。
「ええよ、丁度いい暇潰しになりそうじゃな…じゃあ、見終わったら近くのショップでコーヒーでも飲んでいかんか? 新しいフレーバーのヤツが出たんじゃと」
「それはいいですね、是非行きましょう」
お互いの利害が一致したこともあり、二人はそれから行動を共にして目的の店へと向かって行った。
少しだけ電車に乗っての遠出をして、二人は一軒のテニスショップに入っていった。
流石に準備の良い柳生は、自分の腕力とプレースタイルに合致していると思われた何本かのラケットを仁王にも紹介した。
「こちらは少し重めですが…」
「うーん…確かに重いのう。形は凄く使い易そうなんじゃが…あくまで短期決戦にこだわるならアリか?」
「向こうがそれを許して下さるのならね」
「意地悪なヤツが多いからの」
何だかんだと話し合いながら、二人に共通して使い勝手の良さそうな一本を選ぶと、柳生はそれを買い取った。
対し、仁王は今日の買い物はグリップテープのみとささやかなものだったが、必要のない物を無理に買う必要もない。
しかし、二人がその店を出てコーヒショップに根城を移し、椅子に座って落ち着いたところで、詐欺師は手にしたテープを弄びながら溜息をついた。
「俺のラケットもそろそろ年季が入ってきとるからの…ガットの交換だけじゃいよいよダメかもしれん」
「大事にしてもこればかりはなかなかですね」
「うーむ…」
そうしている内に、注文していたコーヒーが二人分運ばれて来て、二人はどちらからともなく自分のカップを取って口を付けた。
「…うん、いい感じじゃ」
「人心地がつきましたね」
一口飲んでほーっと息をついたところで、再び仁王の携帯が振動を始めた。
今度は制服のズボンのポケットの中に押し込まれていたそれを取り出して、仁王はそれをぱかりと開く。
「また桜乃さんからですか?」
「ああ…どれ、ちゃんとお土産は買っとるんか?」
にっと笑った男は彼女からのメールを開き、読み出したところですぐに首を傾げつつ眉をひそめた。
「んー?」
「どうしました?」
「何やら電車で事故があった様じゃな…大丈夫そうじゃが、帰りが遅くなるらしい」
「おや、それは災難でしたね」
「まぁそう何時間も閉じ込められる訳じゃなかろうが…」
その場はそれだけで済んだのだが、事が大きく発展したのは二人が店を出た時だった。
「じゃあそろそろ家に帰るか」
「そうですね、日も暮れる時間ですし…」
そう答えつつ、辺りを何気なく見回していた柳生が、ある一点を見たところで身体が硬直した。
「? 柳生?」
「仁王君! あれを」
逼迫した声で柳生が名を呼びつつ、差し示した先は、向かいにある店の前に設置してあった大型ディスプレイ。
夕方の報道番組と思われる画面には、大きく脱線し、車両が幾つか横倒しになっている『電車の事故現場』が上空から映されていた。
「…え?」
何だ、あの光景は…とかろうじてそれだけを考えた時、再び携帯が震え出し、仁王は物凄い反射神経でそれに応える。
やはり、今回もメールだった…桜乃からだ。
『お兄ちゃん。まだ電車の中に閉じ込められてるの。お母さんとお父さんに伝えておいて。多分、これが最後のメールになると思うから。本当に、ごめんね』
「っ!!」
最後の…メールって…?
何で謝るんじゃ…?
まさか彼女が乗った電車というのは…!
「…仁王君?」
柳生の目の前で、仁王は携帯に何処かの番号を打ち込んで耳元に当てる…が、反応がないのか、再度同じ行動を繰り返した。
二度…三度…何度やっても……繋がらない。
滅多に見る事のない詐欺師の蒼白顔に、柳生が嫌な予感を敏感に感じた瞬間、彼は相棒にきつく腕を掴まれていた。
「何処じゃ!! あの事故は、何処であった!?」
怒鳴るような声で叫ぶ仁王は、完全にいつもの冷静さを失ってしまっている。
「っ! 落ち着いて下さい、仁王君。中継を見たら必ずまた情報は流れる筈です」
そして二人は、メディアから必要な情報を得るとすぐに、急いで現場へと向かっていた……・
事故現場の最寄駅は、線路を歩いて避難してきた乗客や野次馬で溢れ返り、一種異様な熱気に包まれていた。
線路の中に入り込んだ大型車両を避けきれず、最低限の減速も間に合わなかった電車が衝突し、その衝撃で前方の車両数両分が横転してしまったのだ。
微妙にカーブしていた線路も原因の一つかもしれないが詳細は不明だ。
今の時点では死者が出ていないのはせめてもの救いだが、それでも怪我を負った人々と、長時間電車の中に閉じ込められてしまった多くの乗客にとってはとんだ災難だった。
外には何台もの救急車が止まり、苦悶の表情を浮かべている乗客が運ばれ乗せられては、何処かの医療機関に搬送されていく。
無傷の客達は自力で歩くなどして、ようやく駅の外へと解放されていくところだったが、その中で桜乃は、一人でぽつんと駅の柱の一つに寄りかかるようにして座り込んでいた。
事故のショックに加えてぎゅうぎゅう詰めの電車に結構長いこと閉じ込められ…更にはこの駅まで歩いた事で、かなり体力を消耗していた少女は、暫くは何も考える事が出来ずにぼーっとしていた。
『桜乃…っ!』
「…え?」
誰か、私の名前を呼んだ気がしたけど…と、きょろっと辺りを見回した桜乃は、駅の改札口を抜けてこちらを見つけた兄が走ってくるのを、やはり何処かぼーっとした様子で見つめていた。
そうしている間に、相手は親友と一緒にすぐにその場に辿り着き、桜乃の前に膝をついた。
「お兄ちゃん…柳生先輩もどうして…」
「桜乃さん! 御無事ですか? 良かった…!」
「大丈夫か? 怪我、しとらんか!?」
「え…? ううん、大丈夫…ちょっと疲れただけだよ?」
声は確かに力がなかったが、全身を改めて見て、確かに傷などを負った気配はないという事を確認した仁王は、ほーっと一つ大きな息をついた。
「お前のう…それなら『最後のメール』なんて紛らわしいこと言わんでも…」
「あ、あれ…?」
脱力する兄に、妹はちょっとだけ舌を覗かせて笑った。
「閉じ込められている時に、携帯を持っていない人にも貸していたら電池がなくなっちゃって…送った後に完全に電池切れです」
真っ暗になった画面の携帯を取り出して見せられたところで、更に仁王は脱力した。
ああ、そういう事…まぁ確かに最後になるワケだ。
「…それよりゴメンね、お兄ちゃん」
「ん?」
いきなり謝りながら、桜乃は自分の座った隣に置いていた白い箱を取り上げた。
「…お土産のケーキ買ってきたんだけど…時間経ってクリーム駄目になっちゃった。おまけに衝撃で、多分ぐちゃぐちゃです〜…」
「アホか…そんな事気にするな」
もっと酷い事故で、妹の身体がぐちゃぐちゃになっていたらと思うと、それだけでぞっとしていた。
それに比べたら、ケーキ一個など安いものだ。
「怪我がないなら、そのまま帰るか…ほれ」
「ん…」
差し伸べた手に縋って妹が立ち上がり、仁王が、じゃあ帰ろうと柳生に顔を向けた時、相手はまだ桜乃へと視線を向けたまま、くんっと軽く相棒の袖を引いた。
『妹君の方を見なさい』と言いたそうなそのジェスチャーに従い、そちらへ視線を戻した仁王が、瞬間、固まる。
「……桜乃?」
「………う」
これまで我慢していた何かが切れてしまった様に、桜乃の瞳に涙が溢れていた。
「うぅ…ふ、ぇぇ…っ」
両手でぎゅーっとスカートを握り締め、瞳を閉じた事で溢れた涙が頬を伝って流れ落ち、桜乃は何度もしゃくりあげながら泣き始めてしまった。
事故が起こった時、閉じ込められていた時、線路を歩いて避難している時、駅に着いて座り込んでしまった時…それぞれの時間の中で少しずつ少しずつ心に積もり積もっていた何かが、恐怖が、兄の仁王に会えた事でようやく少女の心から解放されたのだ。
「おに、いちゃんっ……こ、わか…っ」
「…桜乃」
ぼろぼろと大粒の涙を零し続ける妹に最初は驚いた様子の仁王だったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべると、安心させる様に相手の身体を抱き締めてやった。
「…そうか、恐かったか…よく頑張ったのう、よしよし」
「うう〜〜〜〜〜っ…」
それからも桜乃が泣き止む気配は暫くなく、柳生はそこで立ち去る事を決めると、相手に手を軽く上げる形で合図した。
女性の泣き顔を、慰める立場にない男がいつまでも見つめるというのは紳士的ではない。
仁王も、苦笑しながらもそれに応えた事で、柳生はすたすたと駅から外に出て改札口の方へと振り返りつつ笑った。
「あれでもやっぱり、いいお兄ちゃんなんでしょうねぇ…」
物凄い勢いでこの駅に着いた仁王が、駅員に掴み掛かった姿はかなり衝撃的だった。
『俺の妹が中におるんじゃ!! 怪我なぞさせたら、絶対に許さんぜよ!!』
大の大人が中学生の怒声に怯む光景もなかなか見られるものではない。
(まぁ…ああいう珍しい仁王君を見られたから、今日の恨みは良しとしましょうか)
無事も確認出来たし…と柳生が駅を去った後も、その兄である仁王は桜乃が泣き止むまでずっと優しく抱き締め、髪を梳いてやっていた。
「大丈夫じゃよ、桜乃…もう大丈夫。俺がついとるけ…な?」
「ん…うん…」
ようやく妹が泣き止んで、二人で家路を辿り、家に近い道に差し掛かる時には、仁王は桜乃を負ぶった格好で歩いていた。
結構彼女も頑張っていた様だが、やはり詐欺師の目から疲労を隠し通す事は出来なかった。
実際、歩くと言っても足が笑う程だったのだから、隠すも何もなかったのだが。
テニスバッグを脇に抱えたまま、人一人を背負ってすたすたと難なく足を進める様は流石に男らしい。
「…? おう、起きたか桜乃…もうすぐ家に着くからの」
「……」
背中に背負った妹の身体が微かに揺れた事を感じた仁王が、相手の覚醒に気付いて声を掛けると、少女は暫くぽえ〜っとした表情で何処か視点の定まらないままに沈黙していたが、ぽつんと小さく呟いた。
「…どうして私、お兄ちゃんの妹なんだろう…」
「そこの電信柱の下に埋めちゃるぞ」
人が親切に負ぶって家まで歩いてやっているのに…と再び毒舌が揮われようかというところで、桜乃の声が続いた。
「…妹じゃなかったら…恋人にしてもらってたのに…」
「っ!!!!!」
「……すぅ…」
びぐっと全身が軽く痙攣し、前からつんのめって転ぼうかというところを必死に仁王が耐えている間に、再び桜乃は眠りに堕ちてゆく。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
妹を背負っている所為ではない動悸に激しく苦しみ、立ち止まって息を整えた銀髪の詐欺師は、誰にもその心の隙を見せずに済んだ事を心から感謝した。
「……まぁの」
ようやく心の荒波を鎮め、仁王は再び歩き出しながら、相手が眠っていることを幸いにぼそりと呟いた。
「……それについては賛成じゃ」
そうじゃなければ、絶対に他の男なんぞに渡したりせんのに…と心の中でだけ告白し、仁王は大切な妹である桜乃を抱えて、ゆっくりと…出来るだけゆっくりと、家への道を辿っていた……
了
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