詐欺師と風邪とお弁当


 翌日の休日は、仁王雅治の属するテニス部の他校との練習試合の日である。
 部員が多い立海では、大体は試合は午前中から始まり、午後まで及ぶ。
 そういう場合は勿論、昼ご飯は各自が準備するのだが、流石に中学生男子が自分でそれを作る、というシチュエーションはあまりない。
 大体の自宅通いの学生なら、母親を始めとする家族の誰かが準備するのが一番多いパターンだろう。
 そして、仁王の家の場合、その大役を担っているのは…
「明日はお兄ちゃんの練習試合だねー! 張り切ってお弁当作らないと!」
「すまんのー」
 彼の妹である仁王桜乃その人であった。
 何かと多忙な母親を小さい頃から助ける内に、桜乃は家事が大得意な少女に育ち、いつからか兄のお弁当作りの専属にまでなってしまっていた。
 流石に小さい頃からの付き合いである兄の好みの味付けはばっちりと理解しており、ただでさえ偏食な若者を満足させるメニュー作りは、最早仁王家では彼女しか出来ない偉業なのだ。
 それは、仁王に対する妹の愛情のなせる業かもしれないのだが、それを抜きにしても彼女の料理はかなりのハイレベルである事は周知の事実。
 同じく料理やおやつ作りが趣味である仁王の親友、丸井ブン太をして『料理の腕はマエストロ級!』と言わしめている程だ。
「明日はねー、皆さんにもお裾分け出来るぐらいに頑張るの。丸井先輩も楽しみにして下さっているし」
「手持ちの分もあるんじゃ。そう気にせんでもよかろ」
 張り切っている妹に、ソファーに寝そべりながらテニス雑誌を読んでいた仁王が、少しだけ面白くなさそうな口調でそう断る。
 『コート上の詐欺師』と呼ばれている曲者の若者だが、桜乃にとっては皮肉屋ながらも優しい兄は、幾ら自分の親友達とは言え異性が彼女にやたらと干渉する事を好ましくは思っていないらしい。
 ファンが多い色男で、これまでも多くの女性を振ってきたクールな若者の意外な一面…ではあるが、それを知る女性はこの妹ただ一人である。
「いいじゃない。明日の為に頑張って食材も仕入れてきたし! やり手の主婦の手より早くセール品をゲットするのって、凄く大変だったのよー、その分達成感もあるけど」
「ほーかい」
「んもー」
 相変わらず雑誌を読みつつ、つーんとつれない返事を返す兄に、桜乃はしょうがないなぁと苦笑する。
 別にこの程度の事でいちいち悩む事はない。
 これもいつもの事なのだ。
 そんな拗ねている仁王の機嫌を直すべく、桜乃は一冊の料理本を手にソファーへと近寄った。
「あくまでメインはお兄ちゃんのお弁当だもん。はい、何かリクエストはありますか?」
「ん?」
 差し出された料理本に、仁王が相手を見上げる。
「食べたいメニューがあれば、出来る限りで作ってみるよ?」
「…ふーん」
 そういう事なら遠慮なく…と兄が妹からそれを受け取った時、
「こほっ」
 桜乃が小さな咳を一つだけ漏らした。
「ん? どうした?」
「何でもない、ただの咳よ」
「ふ、ん…」
 少女が言うとおり、その咳は一度だけで終わり、それ以上続く様子はなかった。
 それなら…と仁王もその時はそれ以上の追求は行わなかったのだが……


 夜も更けた頃になって、徐々に桜乃の身体に異変が起きつつあった。
 最初に気づいたのは…やはり仁王だ。
「牛乳もらうぜよ、桜乃」
「はぁい、どうぞ?」
 せっせと明日の仕込みをキッチンでしていた桜乃に声を掛けながら、仁王が冷蔵庫を開ける。
 そして牛乳パックを取り出して、そのまま何気なく相手へと視線を遣った仁王の視線が、ぴた、と止まった。
「……」
 暫し沈黙を守り、それから何を思ったか、彼はパックを持ったまますたすたとキッチンを後にする。
「?」
 どうしたのかしら、と思っていた桜乃が、また不意に
「こほっ…こほっ…」
と今度は続けて咳をした。
(あれ? おかしいなぁ…)
 こんなに続けて咳が出るなんて…もしかして、
 嫌な予感が脳裏に浮かびながらもそれを否定しようとしたところで、キッチンに再び仁王が戻ってきた。
「桜乃」
「はい? どうしたの? 雅治お兄ちゃん」
「ほれ」
 そう言いながら彼が差し出してきたのは、救急箱の中に常備されている筈の電子体温計。
「う?」
「測ってみんしゃい。お前、何となく顔が赤い気がするぜよ」
「ええ? そうかなぁ…」
「ええから、ほれ」
「う、うん」
 促され、桜乃は一旦、仕込みの手を止めて言われるままに脇の下に体温計を挟み込んだ。

「………」

 兄の監視の目(?)の中、何となく手持ちぶさたになりつつ、桜乃はじーっとその場で大人しくブザー音を待つ。
 やがて…
 ぴぴっ!
「あ、鳴った」
 どれどれ…?と桜乃がそれを取り出してみると…
 『37.5℃』
という表示がばっちりと示されていた。
「あれぇ…?」
「やっぱりのう…桜乃、風邪引きかけとるよ」
「えー? 全然元気なのに…」
「お前の元気は全然信用がならん。元々身体が弱いんじゃから、下手に悪化して肺炎にでもなったらどうするんじゃ?」
「…お兄ちゃんの普段の言葉とどっちが信用出来ない?」
「こういう時ぐらいは真面目に話を聞きんしゃい」
 むぎゅ〜〜〜っ
「あうう〜〜!!」
 妹限定の必殺技、ほっぺた抓りをかましてから、仁王はやれやれといった表情で念押しをした。
「引き始めの今は元気かもしれんが、これからひどくなってくるんじゃ。体力を無駄にせん様に、今日はもう休みんしゃい。念のためにリビングに風邪薬も出しといたけ、ちゃんと飲むんじゃよ」
「えー? もう?」
 丁度仕込みが終わったから、これからテレビ見ようと思っていたのに…と桜乃は少々不満気だったが…
「………桜乃」
「ううう、分かりました〜」
 いつになく怖い視線を向けてきた兄に、あえなく降参。
 しょぼーんと肩を落として、リビングの方へと歩いていった。
(…可哀想な気もするが、しょうがないのう)
 意地悪をする気は毛頭ない、これが最善の措置なのだ、と仁王は思った。
 37.5℃なら、まだ微熱の部類に入る程度かもしれないが、相手があの妹であれば、用心するに越したことはない。
 小さい頃からの付き合いである自分は知っている。
 桜乃は、幼少時から兎に角、身体が弱かった。
 幼い頃に、深夜に身体の不調を訴えた妹を親が慌てて病院へと連れていく姿を、起き出した自分も幾度となく見てきた。
 幾度となく見てきたからと言ってその光景に慣れるというものではなく、見る度に相手の苦痛を思い、不安にかられたものだ。
 特に持病というものはなかったのは幸いだったが、小学生になってからも暫く、彼女の不安定な状態は続いた。
 今でこそ普通の生活を送ってはいるが、ああいう過去を知っており、依然彼女がそう身体が強くない事を理解しているだけに、仁王は過剰な程に相手の体調については気遣っていた。
 桜乃が普段から家事を精力的にこなし、素直で滅多に反抗しないのは、過去に両親や兄である自分に迷惑をかけてしまったという詫びの気持ちがあるからかもしれないと思うと、一層不憫に思えてならないのだ。
 それを尋ねたところできっと彼女は否定するだろうし、自分も聞くつもりもない。
 唯、妹が元気であってくれたらそれでいい。
「薬、飲んだか?」
「うん」
 リビングに遅れて行くと、丁度相手は準備していた薬を飲み終わったところだった。
「よし、ほんじゃ、さっさと寝た寝た」
「ううう、まだ早いよ〜、退屈だよ〜、眠れないよ〜…」
「ごちゃごちゃ言うと、安らかに眠れるように一服盛っちゃるからの」
「雅治お兄ちゃんが言うと、ただの薬に聞こえない〜〜!」
 やめてー! 怖いー!とひとしきり騒いだ後で、桜乃はようやく自室に戻り、ベッドへと潜り込んだのだった。


 それから数時間後…
 仁王が床に就こうかという時に、彼は自室に入る前にこっそりと桜乃の部屋に足を踏み入れていた。
 電気は付けず、徐々に目を慣らしてから中へと入ると、彼はすやすやと寝入っている妹の枕元に立ち、相手の寝顔を見下ろした。
 苦痛を伺わせる様子はなく、仁王はそれを確認してふ、と微笑んだ後、彼女の枕元に置いてあった目覚まし時計を取り上げる。
 見ると、かなり早い時刻にセットされており、スイッチもオンの状態。
「…」
 仁王は唇を歪めながら、何の迷いもなくスイッチをオフの方へと動かし、それを再び枕元に戻すと、来た時同様、音もたてずに部屋から出ていった……



 翌日…
「う〜〜〜…」
 眩しい光が射し込んできて、桜乃は目を覚ました。
 何となく、いつもより身体が重くて、頭の中もしゃっきりしない…
 おかしいな、と思ったところで、彼女は昨日の夜の兄との会話を思い出して納得した。
 ああ、そうか…まだ風邪が治ってないんだ…でもそんなに辛くはないかな…
「ん〜……そだ、お弁当…」
 今日はお兄ちゃんの練習試合だから、お弁当作らないといけない。
 昨日で仕込みは済んでいるし…それぐらいなら多少身体がだるくても何とか…
「今、何時だろ…?」
 設定した時間にしてはちょっと明るい気もするけど…と、桜乃は寝ぼけ眼をこしこしと擦りながら、枕元の目覚まし時計を取って時間を確認した。
「………!!!!!」
 下手なベル音より、その針の指した時刻そのものが余程強力な目覚ましとなった。
「きゃ―――――っ!! 遅刻―――っ!! お兄ちゃ―――――んっ!!」
 がばっとベッドからはねおきて、桜乃は廊下へと飛び出すと真っ直ぐに兄の部屋へと向かってドアを叩いた。
「お兄ちゃん!! ごめんなさい、寝坊しちゃった! 起きて〜〜〜っ!!」
 いつも兄を起こす役割だった桜乃は、自分が寝坊してしまったせいで、仁王もまだ寝ていると思い、慌ててドアを開けた。
 マナー違反ではあるが、今日ばかりは仕方がない、何しろ大事な練習試合当日なのだから。
「おにい…!…あれ?」
 飛び込んで…少女はきょとんとした。
 いない…
 ベッドにいる筈の住人の姿はなく、部屋はいつも通り整頓されている。
 そして、定位置にある筈のテニスバッグがない。
「…お兄ちゃん?」
 バッグがないということは、彼はもう出掛けたのか。
 呆然としながらも桜乃は必死に考えて、考えて…やがて、一つの答えへとたどり着いた。
「あ〜〜〜っ!!」


 昼時の立海大附属中学の男子テニスコート…
 ここでは当初の予定通り、テニス部の練習試合が行われていた。
 午前中は互いの非レギュラーの中から選ばれた組、そして午後がいよいよレギュラー同士の対戦となるのだ。
「そんな訳で、今日の桜乃の弁当はナシじゃ」
「えーっ!?」
 仁王の残酷な宣言に、丸井はぶーっ!と激しいブーイングを飛ばしていた。
「そんな〜、俺、今日はそれだけの為にここに来たのに〜〜」
「レギュラーから外すぞ丸井…」
 何をふざけた事を言っているかと副部長の真田が睨み付けてきたが、部長の幸村は彼よりも寧ろ詐欺師の妹へと興味を向けていた。
「妹さんの病状はどうなんだい? 仁王」
「ああ、朝もちょっとだけ顔色覗いて来た分には、まぁ大丈夫そうじゃ。けど、まだ完治はしとらんからの、念のために今日一日はぐっすり休んでもらうことにしたぜよ」
「賢明だね…けど君の分の食事は?」
「コンビニで適当な物を買っといた。腹を満たすだけならそれで十分じゃろ」
「そう…」
「くれぐれもお大事にとお伝え下さい」
 話に割り入ってきた相棒の柳生にも、仁王はこくんと頷いた。
「おう、ありがとさん」
 話を聞いていた二年生の後輩も、心配そうにしながらも元気づけるように声を上げた。
「んじゃあ、昼飯食って午後の試合始まったら、それこそ最短記録出してちゃっちゃと終わらせましょ! そしたら早く解散出来るし、仁王先輩も家に戻れるでしょ?」
「そうだな、頑張ろう」
 ジャッカルも相手の提案に文句なく頷き、参謀である柳も同じく同意を示した。
「良いことだ。仁王、そういう事なら今日はお前の試合が終わったら、先に帰っても構わないぞ」
「はは、すまんの。けどまぁ、どうせあいつも寝とるだけじゃし、俺も大してやることもないしのう…」
 それについてはおいおい、と言いつつ、彼は仲間達と一緒に昼食を食べる準備を始めた。
 コートの脇で全員集まって、それぞれの食事分を広げていく様はちょっとしたピクニック気分だ。
「相変わらずお前のは凄いな、丸井」
「むー…」
 ジャッカルにお弁当の量を指摘された丸井だったが、何故か相手は浮かない顔で箸をくわえていたが、やがてぽつりと呟いた。
「…おさげちゃんのお弁当が良かった〜」
 相変わらず未練たらたらの様子の相手に、銀髪の詐欺師は呆れて答える。
「しょーがないじゃろ、アイツなら今頃は家でゆっくり…」
「あ、そうですか? お待たせしました」
「………」



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