その会話に割り込んできたのは、その家で寝ている筈の桜乃だった。
丁度今ここに到着した様子で、手にはばっちりと重箱を抱えている。
「寝とれと言うたじゃろうが、桜乃――――――っ!!!」
滅多に見ない詐欺師の慌てっぷりに、遠くの他校の生徒達が何事かとこちらを見つめている。
「桜乃ちゃん!?」
「か、身体は大丈夫なのか?」
幸村や真田が心配している様子を受けて、少女はぺこりとお辞儀をした。
「すみません、お邪魔しまして…ちょっと熱は残っていますけど、大丈夫です。お兄ちゃんのお昼ご飯だけでも取りあえず届けようと思って…」
そして、彼女はとすんと手にしていた重箱を下に置いて、くるっと兄の方へと振り向いた。
「そういう訳で、お兄ちゃん、リクエストされたのもばっちり入っているからね。あ、咳はもうなかったけど、ちゃんとマスクもつけて調理したから」
「寝込んどった癖にまた随分と気合い入った弁当じゃのう〜…大人しく家におるかと思ったら……」
ふるふると震えながら、仁王は微妙な心境でそう言った。
確かにここにわざわざ届けてくれた事は嬉しいのだが、手放しで喜ぶ訳にはいかない。
今日は一日家で安静にしていてほしかったから、色々と根回ししていたというのに、逆にここまで来させてしまう事になるとは…!
「誰かさんが時計のスイッチを切ってくれてたお陰です」
兄の心境を察した桜乃が、先手を取って相手に言った。
「どうせお兄ちゃん、コンビニで適当に済ませる筈だったんでしょ? 折角リクエストも聞いたんだから、ちゃんと食べてほしかったんだもん」
「う…」
そういう可愛い、健気な事を言われてしまうと、如何に詐欺師であっても弱い。
しかし、それでも仁王は言うべき事を忘れてはいなかった。
「人の心配より、自分の身体を心配せんか。こじらせたら大事じゃろうが」
「うん、分かってる…皆さんに移したら大変だし、お弁当届けたらすぐに帰るつもりだったから。じゃあ、私帰るね」
「ストップ」
一度は素直に家へ戻ろうとした桜乃を引き留めたのは、仁王ではなく幸村だった。
「え…?」
「病人を一人で帰す訳にはいかないな…途中で何があるか分からないから。そうだろ、仁王」
「……」
口には出さなかったが、仁王の心配は相手にばれてしまっていた様だ。
早く身体を休ませてはあげたいが、帰路に何か起こるのではないかという不安も付き纏う。
例えば、気分が悪くなったり倒れたり…まさかとは思うものの、絶対と言うものはこの世にはないのだ。
「ふむ、精市の言葉にも一理あるな…ではどうする?」
真田の意見には、参謀の柳がすぐに答えを出した。
「先ず熱を確認。高熱であればタクシーを使ってでも医療機関に搬送するべきだが、まぁ微熱程度で自覚症状も軽いのであれば、安静を保って寒冷から身体を守ればここに短時間居るぐらいなら構わないだろう。幸い、仁王は今日はダブルスで登録してある。出番も最初の方だし、終えたら彼女を連れて早めに帰宅してはどうだ?」
「成る程…」
それなら確かにそう大きな問題は生じずに済むだろう、と真田も納得し、柳が仁王に最終確認を取った。
「どうだ? 仁王も帰るまでは彼女の様子を見ていた方が安心出来るだろう。幸い今日は陽気もいいし、風も無い」
「うーん…」
ちら、と妹の方を見ると、明らかに期待した視線が注がれてくる。
どうせ家に帰っても寝ているだけなら退屈に変わりない。
ここにいる間だけでもいい暇潰しにはなるのかもしれないが…
「……しょうがないのう。ええよ」
「わーい」
兄の許可が出たところで、桜乃は嬉しそうに声を上げた…が、そこで間髪入れずに仁王が不敵に笑って意味深な言葉を付け加えた。
「…但し、寝とらんかった罰は後できっちり受けてもらうからのう」
「う…」
何だか嫌な予感が…と思ったものの、そこでほぼ桜乃の見学が決定となり、取り敢えずその場は落ち着いた。
「じゃあ、改めて昼食にしようか。ああ、桜乃ちゃん、良かったらこれを羽織ってなよ」
幸村がそう言って桜乃に差し出したのは、自分が羽織っていたジャージだった。
「え、いいんですか? 幸村先輩の…」
「うん、俺が羽織っているのは癖みたいなものだし、君の体調の方が大事だからね」
「有難うございます」
きゃーと喜びながら桜乃がそれを纏っている間に、いよいよ丸井達が彼女の持って来たお弁当に手をつけ始める。
「わーい!! おべんとおべんと!!」
「うわ、すっげぇ豪勢〜〜」
あれも寄越せ、これも寄越せ、と殆ど乱獲戦の様相になってきた昼食会だったが、正直仁王にとっては、妹の手作りとは言え、食事についてはどうでもよくなっていた。
「あ、切原先輩、取り分けますから…」
「いーから静かに座っとれ」
「お茶いる人…」
「セルフサービス」
「ついでに洗い物…」
「せんでええ」
とにかく動きたがる…もとい働きたがる桜乃を、仁王が必死に押さえつけにかかっていたのである。
「何もすることがないよぉ〜!」
「じゃから病人は大人しくしとれ! 動くな喋るな息するなっ!!」
「死ぬだろう、それは」
真田の突っ込みも尤もである。
ぴいぴいと訴える妹に問答無用で答える仁王に、うわぁ…と幸村が感嘆の目を向けながら呟いた。
「…桜乃ちゃん、根っから働き者なんだね」
「こんないい子に育てた覚えはないんじゃけどなぁ…」
「仁王先輩の方が熱あるんじゃないッスか?」
生意気ながらも珍しく的を得た発言をした切原を、げしげしと仁王が蹴飛ばしている隙を突いて、柳生が桜乃に呼びかける。
「桜乃さん、今日ぐらいはゆっくりなさったら如何です? お身体も大事にしないと」
「はぁ…すみません、どうにも落ち着かなくて…普段、家事をするのが当たり前になってしまっているのでつい…」
「いいお嫁さんになれますよ」
「あはは、そうですか? でも、お兄ちゃんがああだから家を出るのが心配で…」
(やっぱり仁王君がそう育てているんじゃないですか…)
但し、それは意図的なものではなく、殆ど反面教師の様なものだが。
「…お兄さんが心配なら、いっそ一緒に住みますか?」
「え?」
「で? さっきからおどれは何ふざけたコトを人の妹に抜かしとるんじゃ…」
いつの間にかその場に戻ってきていた仁王が、むんずと背後から柳生の肩を掴んだが、相手は全くたじろぐこともなく、軽く眼鏡に手をやった。
「いえいえ、私の明るい人生計画について少々…」
「その明るい人生も、桜乃に手ぇ出したら打ち止めじゃからの」
「自分で言うのも何ですが、私、結構お買い得だと思うんですけれどねぇ」
一応それなりの家柄だし、大学に上がれる自信もあるし、犯罪歴もないし…といけしゃあしゃあと抜かす相棒に、詐欺師が更に声のトーンを落とした。
「ならどっかのワゴンセールにでも出とけばええじゃろ」
「品物にも選ぶ権利はあります」
「あるか」
それからも二人ががんがんごんごんと言い合ってどちらも譲る様子は無かったのだが、その最中に不意に仁王の背後から桜乃の声が掛けられてきた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
「何じゃ! 今忙しい…」
忙しいから邪魔するな、と言おうとして彼が振り向くと同時に、
「はい、あーん」
ぱくん…
「……」
全くの不意打ちで、桜乃から焼肉を口に入れられてしまった仁王が、そのままそれを閉じる。
『…………』
全員がその現場を目撃してしまった中、一番ショックだったのは…目撃された仁王本人だった。
「〜〜〜〜〜〜!!!!」
わなわなと全身を震わせて背を向けた詐欺師は、最早柳生との争いどころではなくなっている様子である…まぁ、無理もないが。
家だったならもっと素直に妹の気遣いを喜べたのだろう。
しかし、桜乃本人は辺りの冷えた空気に全く気付く様子も無く、尚も兄に構おうとしていた。
片付けなどもやらせてもらえないなら、構うことで手持ち無沙汰を解消しようと思ったのだろうか。
「これも美味しいよ、お兄ちゃん食べる?」
「桜乃――――――――っ!!」
無邪気に話しかける妹に叫ばずにはいられなかった仁王だがそこで幸村が割って入った。
「取り込み中悪いけど、そろそろ試合だよ仁王」
「ああもう何じゃ! こんな時にーっ!」
「君、ここに来ている目的もう忘れてるでしょ」
今日は練習試合だからね、と一応突っ込んだ部長に答える暇も無く、仁王はだーっとコートへラケット片手に走っていった。
暫くお待ち下さい…
「よし、終わったぜよ!!」
試合を終えて、仁王が余裕しゃくしゃくで走りながら戻って来る。
『早―――――――――っ!!!』
コートで一体何があったんだ!と同じダブルスである丸井達が大騒ぎ。
「み、見ていた筈なのに、ぜんっぜん目に留まらなかったい」
「くっ、負けた…」
「もう破られないんじゃないッスか? この最短記録」
そんな仲間達が騒いでいるのを他所に、仁王はてきぱきと素早く帰宅の準備を整え、桜乃の手を掴んでずるずると引き摺っていた。
「じゃ、そういう事で俺らは帰るぜよ」
見学の筈が殆ど印象にも残らなかった試合で、桜乃はかなり消化不良の様子でごねた。
「えーん、まだ見たいよう〜〜!」
「却下じゃ! 一服盛らんかったのがせめてもの情と思いんしゃい!」
ずーるずーるずーる……
そして、結局桜乃は強引な兄に引き摺られて、校内から姿を消してしまった…
「……実の妹に何を盛る気だあやつは…」
「この場合、対象よりも行為そのものが問題だが…いや、しかし今日の素早い決着は秀逸だったな、早速データを更新しなければ…」
「大事な日には彼女に仮病使って来てもらいたくなるねぇ…」
流石にそれは倫理上問題だし、フェアでもないから出来ないけどね、と微笑む部長の脇で、仁王のパートナーである柳生は不気味なまでの沈黙を守っていた。
(…信頼のおけるパートナーでありながら、一番の恋敵とは…つくづく因果ですね)
「あれー? いつもと帰り道が違うよ? 雅治お兄ちゃん」
「ん、ちょっと軽く寄り道じゃ」
「ふぅん…?」
一方、学校から離れた桜乃は、素直にとことこと兄の後ろについて歩いていた。
(寄り道って何処だろ…コンビニとか本屋とか?)
ありきたりの想像をしていた妹だったが、結果は詐欺師らしく実に意外性に溢れたものだった…そして、桜乃にとってはおそらく最悪のサプライズ。
「ほれ着いた」
むんずと桜乃の腕をしっかりと掴んで仁王が示したのは、見事にそびえる白い壁を持つ建物。
人はそれを『病院』と呼ぶ。
「きゃ――――――っ!!」
行き先を知った桜乃が走って逃げようとしたが、既に腕を掴まれており、あえなく失敗に終わってしまった。
「折角家から出て来たんじゃ…この際バッチリ治してもらえばええじゃろ。いたーいお注射とにがーいお薬でのう…」
「うやあーんっ!! やだやだやだぁ!! 帰る〜〜〜っ!!」
「逃がすかバカたれ、お仕置きじゃ」
「お兄ちゃんのウソツキ〜〜〜〜ッ!!」
「分かっとるクセに」
半ば力ずくで相手を病院に入れた仁王は、それからも何かと抵抗する妹を封じ込め、しっかりと内科の診察を受けさせた。
「あら、桜乃ちゃんお久し振り。お風邪かしら?」
幼少時からの主治医である壮年の女医が、笑いながら診察室で問いかけてきた時には、桜乃はびくびくと怯えつつ傍の兄に恨み節を呟いていた。
「ううう、雅治お兄ちゃんのバカ〜、きらいー、だいきらいー…!」
「はいはい、分かった分かった」
桜乃もそう言いながらも、その大嫌いな兄に必死に縋りついているのだから、あまり説得力はない。
「相変わらずねぇ、あなた達」
「…お世話かけます」
妹に抱きつかれながら、仁王はげっそりとした様子で女医に断っていた。
俺もこの際、栄養剤の一本でも打ってもらおうかの……
重症という訳ではなく軽い風邪と診断されたものの、桜乃は結局痛い採血と苦い薬のお仕置きをしっかり受けての帰宅となってしまった。
そしてその日一日はベッドに安静となりながらも、病院に騙されて連れて行かれた事ですっかり機嫌を損ねてしまい、仁王にはつーんと布団を被ってのささやかな抗議をしたのである。
(あーあー、怒っとるのー)
こっそりとドアを開けて隙間から向こうの様子を覗いた仁王が、相変わらず布団のなかでストライキ続行中の妹の姿にやれやれと溜息をつく。
(ウチの親も今日は帰り遅いらしいし…夕食はどっかから出前とるか…あーしかし面倒じゃ。じゃからアイツが風邪引くのは嫌なんじゃよ)
嫌いとまで言われるし…と何気に気にしていたらしい仁王は、今日の疲れの所為もあってかつい愚痴を続けてしまう。
(…全く、そんなに兄貴が嫌ならとっとと恋人でも作ってみたらええん…)
その時、不意に…本当に何気なく、仁王の脳裏にぽんっと柳生の顔が思い浮かんだ。
「っ!!」
がんっ!!
瞬間、その思考を追い出すように、仁王が己から、歩いていた廊下の壁に頭をぶつける。
(ナニ血迷っとるんじゃ俺は!…ぜっっったいに許さんきに!!)
ずきずきと痛む頭を押さえつつ、彼はリビングのお気に入りのソファーに身を沈めると、そのまま寝入ってしまった。
おそらくは、試合の疲れもあったのだろう。
そして暫くしてから、彼が眠っている間にタオルケットを羽織った桜乃がこそっとリビングに入ってくる。
少し喉が渇いたから何か飲もうと思って来た少女は、仁王の姿を見て少し躊躇った様子だったが、寝ているらしいと気付いてゆっくりと音をたてずに歩いてきた。
(…寝てる…)
そう言えば、さっきの廊下から聞こえた凄い音は何だったんだろうと思いつつ、桜乃は眠っている仁王の姿を改めて上から見つめた。
(…このまま寝たら、今度はお兄ちゃんが風邪引いちゃう)
一瞬だけ、今日の病院のお返しに、彼も風邪を引いて注射を打たれたりしたらどうかしら…と思ってしまった桜乃だったが…
「…健康管理は家族の務めだもんね……武士の情じゃ」
やはりそこまで意地を悪くする事は出来ず、自分が羽織っていたタオルケットを相手にかけてやった。
そして、相手を起こさないようにキッチンに移動し、軽く水を飲んだ後に再び自室に戻って行く。
桜乃がリビングから出て行く間際、微かに詐欺師の口元が緩んだ事実を、彼女が知ることはなかった…
了
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