青空デート?
立海大附属中学に転校した一年生、竜崎桜乃の日々は実に充実している。
朝早く起きてのお弁当作りに始まり、それから男子テニス部の朝錬に参加した後で午前の授業。
昼はまぁ自由に過ごせる事が多いとは言え、それでもまたテニス部の先輩達に指示を仰ぐこともあり、そこから一気に午後の授業になだれ込み。
午後の授業が終了したら、またテニス部の部活動にマネージャーとして参加。
部活動を終えたら寮に戻って夕食の支度…その後入浴、勉強、就寝……
学生として、全ての必要な項目がきっちり一日の時間帯内に入っているのである。
この年頃の女子と言えば色々と遊びたい盛りで外の世界にも興味津々だろうが、幸いと言うべきなのか、桜乃は今は男子テニス部のマネージャーとして活動するのが一番楽しいらしく、それにやらなければならない事も多い為、正直、他の趣味に回せる体力が無かった。
だから、学校生活を終えて家に帰ると、その後はもう遊ぶ意志など殆ど持てないままにベッドに潜り込む生活なのだ。
しかし、お陰で規則正しい生活を送れている桜乃は、環境が変化してもあまりそれを感じさせることもなく、日々を健康的に過ごしていた……
その日も、昼食時間、桜乃は飲み物だけを購入しに学食へと向かっていた。
「飲み物飲み物〜」
パンや定食を提供するコーナーは非常に混雑しているのが常だが、飲料を売っている場所は比較的空いている。
まぁ、自販機が並んでいるコーナーが近くにあるので、そこで済ませられる生徒がそちらに流れているというのも一因だろう。
「今日はちょっとさっぱりしたいから緑茶に…」
列に並んだところで、桜乃は目の前のやけに長身の男性を見上げて軽く瞳を見開いた。
教師かと思わせる大人並の長身だが、明らかに着ているのは男子生徒の制服で、ストレートの艶やかな黒髪にも見覚えがある。
「ええと…真田先輩ですか?」
「ん?」
遠慮がちに呼びかけた桜乃の声が届いたのか、周りの喧騒にも関わらず、相手の生徒はくるりと振り向いて、目線を下に下ろしてくれた。
下ろしたところで桜乃の姿に気付き、相手は僅かに目を細めた。
「ああ、竜崎か」
「こんにちはー、真田先輩も水分補給ですか?」
「ああ。お前もそうか?」
「はい」
男子テニス部副部長でもある真田は、その風貌が語る通り非常に厳格な人柄で、且つ武道の腕もかなりのものである。
おまけに風紀委員長という固い肩書きも持っており、その所為もあって他の生徒達からは親しみと言うよりは寧ろ畏怖の感情を持たれることが多い。
何の遠慮もなく彼と会話出来るのは、同じ部員の中でもレギュラー達ぐらいだろう。
桜乃は、と言うと、知り合った当初こそ彼を恐がっていたものの、現在は尊敬という念は抱いているが、恐怖の感情は最早ない。
厳しくはあるが、それが彼なりの心配や思い遣りの表れであると知っている桜乃は、怯む素振りも見せずに相手と真っ向から向き合い朗らかに話せる、稀有な女生徒となっていた。
「こんなにぽかぽか陽気だと、何となく喉も渇いちゃって…」
「ああ、確かにいい陽気だな。こういう日はトレーニングにも身が入りそうだ」
「真田先輩はいつでもそうじゃないですか? 幸村先輩も褒めていましたよ」
「そう…か? まぁ、評価されるのは悪い気分ではないな」
珍しい真田の笑顔を見た周囲の生徒が驚いている中で、その若者はふと思い出した様に桜乃へ申し出た。
「そうだ、すまんが昼休みは時間があるか? 竜崎」
「え? はい、別に予定はありませんけど…何ですか?」
「もし会えたらでいいのだが、仁王に貸していた辞書を返すように言っておいてほしい。俺も今日の午後の授業で使うかもしれんからな。予習していたところだけなら無くても十分なのだが」
その程度の頼み事なら容易いと、桜乃は二つ返事で引き受けた。
仁王は『コート上の詐欺師』と呼ばれている何とも掴みどころのない若者であるが、桜乃にとっては彼もまた頼れる先輩であり、実はちょっと気になる男性でもあった。
詐欺師、とは呼ばれているが、だからと言って彼という人物が世で認識されている詐欺師と全く同じという訳ではない。
確かに仁王は本心を露にせず、何かと相手を煙に撒くことを得意としているのだが、しかし彼が悪意をもって無害な相手を騙すことはなかった。
害がある相手の場合はそうとも限らないらしいのだが、少なくとも桜乃本人はそれについては知らない。
普段の仁王は、声を掛けても気さくに答えてくれるし、後輩としてもマネージャーとしても分からないことがあれば、ちゃんと指導してくれたりもする、非常に面倒見の良い若者なのだ。
そういう訳で、桜乃は心の底から仁王のことを『良い人』と信じ切っているのだが、実は彼女は知らなかった。
部活動においても学校生活においても、何事に対しても一生懸命で、ちっちゃい身体でとてことてこと走り回る桜乃の姿が、詐欺師にとって非常にツボにはまっていた事を。
しかも可愛いという自惚れどころか自覚すらなく、おまけに温和で素直ともなれば、詐欺師にとっては桜乃は弄りどころ満載の存在なのだ。
クラスメートの女子に対しては本当に級友という立場での付き合いしかしない彼だが、少女に対してはこっそりと自分が出来る限りでの世話を焼いている。
しかし流石に詐欺師の通り名は伊達ではなく、疑うことを知らない桜乃が彼の隠れた気遣いに気付く筈も無かった……
「分かりました。でも、同じ三年生なら真田先輩の方が早く見つけられるかもしれませんね」
「生憎これから風紀委員の会議でな…昼休みの時間は潰れるかもしれん」
「あ、そうでしたか…分かりました。因みに仁王先輩がよくいそうな場所って…?」
「教室にいてくれたらいいのだが、こういう陽気のいい時には屋上に行く事も多い…が、そうなると最早、天岩戸(あまのいわと)でな…」
「え…」
真田の例えに、桜乃が僅かに後ずさり、怯えたように顔を向ける。
「…ぬ、脱いで踊れと…?」
「いや!! 違う! 断じてそういう意味ではないっ!!」
とんでもない誤解を受けそうになった生真面目な男が、大慌てでそれを解こうと躍起になる。
確かに天岩戸の伝説はそういう話ではあったが、まさか自分がそれを彼女に要求する筈も無い。
「あーその…奴は屋上に上がったら、誰にも邪魔されないように鍵をかけることもよくあるらしい。全く…困った奴だ」
「あ、そういう事ですか」
「そういう事だ」
思考が素直すぎるのも考え物だな…と悩みつつ、真田はそれから無事に飲料を購入してから会議へと向かい、桜乃はお茶を購入した後に仁王を探すべく、三年生の教室がある校舎棟へと向かった。
青い空を見上げていると、自分がちっぽけで溶けてしまいそうになる。
溶けてしまえば、自分もこんなに綺麗な青になれるんだろうか……
「なんつってのう…あー良い天気じゃ」
一方、辞書を借りたままの仁王は、真田達の懸念していた通り屋上でがっちりと鍵を掛け、一人のんびりとシャボン玉を飛ばしていた。
何処かの駄菓子屋で購入したらしい石鹸水を入れたプラボトルとセットの特製ストローで、さっきから大量のシャボン玉が宙に生み出され、空高く舞い上がっていく。
「これはこれで楽しいんじゃが…ちょっと飽きてきたのう」
他に面白い遊びはないものか、と頭を巡らせていた時だった。
こんこんこんこん…
「ん?」
無音の筈の屋上に聞こえてくる固い音…
振り返って、その正体に気付いた仁王はすたすたと屋上に通じるドアへと近づいた。
そのスリガラス越しに見える人影と、ドアが微かに振動して揺れていることからも答えは明白。
誰かが向こうからドアを叩き、こちらの人の有無を確認しているのだ。
教師か級友か知らないが、いつもの様に居留守を使おうと思っていた仁王の耳に、向こうから女子の声が聞こえてくる。
『あのあの、誰かここにいるんですか〜?』
「……」
逸らしていた視線を再びドアへと向け、仁王は数秒沈黙した後に、ドアの向こうの人物に答えた。
「山」
『はい?』
「…山」
どうやら暗号の答えを要求されているのだと、向こうも察したらしい。
『え…えーと…えーと…か、川?』
自信なさげに答えた相手に、仁王はぷいっとドアを隔てて背を向けた。
「曲者め、さらばじゃ」
『あ―――――んっ!! やっぱりいるんじゃないですかぁ! 仁王センパーイッ!!』
「やっぱり竜崎か」
最初からからかうのが目的だったらしい意地悪な先輩は、くっくと笑いながらドアの鍵を開け、少女の訪問を許した。
「珍しいのう、お前さんがここまで来るとは」
「あうう…意地悪しないで下さいよ〜…でも良かった、見つかって」
もし本気で意地悪するつもりなら、絶対にドアなど開かないのだが、と思った若者はそれについては何も言わず、代わりにぽんぽんと彼女の頭を優しく撫でた。
「で、俺に会いに来てくれたんか?」
おどけるように言った台詞に、しかし桜乃は何の反応も見せずにただ微笑んで頷いた。
無視ではなく、完全に気付いていない場合、詐欺師にとっては或る意味難敵である。
「はい。真田先輩が辞書を返すように言っていましたから、伝言を伝えに来ましたー」
「…真田が?」
撫でる手が暫し止まり、銀髪の男は視線を脇へと逸らして声のトーンを落とした。
「……それだけでお前さんを使ったんか? 随分と偉いんじゃなぁ」
「いえいえ、偶然自販機の前で会ったんですよ。で、真田先輩は昼に会議だってことで、ついでに頼まれたんですけど、私も暇でしたから…」
「ああ…成る程…お前さんも暇なんか」
「はぁ…そうですけど」
がちゃん…
「?」
桜乃の答えを確認したところで、仁王はドアを後ろ手で閉め、彼女を屋上に閉じ込める。
折角ここに飛び込んできた獲物…そう簡単に逃がす訳がない。
不思議そうに首を傾げ、何事だろうと訝っていた少女に、悪魔の詐欺師はにやっと意味深な笑みを浮かべてみせた。
「俺と一緒じゃな…折角じゃから、ちょっと遊んで行きんしゃい」
「はい…?」
「結構遠くまで飛ぶんですねー」
「俺のお手製のシャボン液じゃからの。長持ちするじゃろ」
あんな意味深で怪しさ極まりない笑みを浮かべていた先輩が後輩を誘ってやらせたのは、全くもって健全なシャボン玉遊びだった。
まさかそんなアイテムが出て来るとは予想だにしていなかった桜乃だったが、今はすっかり童心に還って遊びに夢中になっている。
まぁ、今も子供の類に入ると言えば十分入るのだろうが。
「風もそんなに強くないし、シャボン玉も丈夫だし、いいですねー」
にこにこと笑いながら一生懸命ストローを吹いている桜乃の姿を、屋上の床に足を投げ出して座っている仁王は、薄い笑みを浮かべながら黙って見つめていた。
(屋上での時間を他人に邪魔されるのは好きではなかったが…相手によるもんじゃの)
さっきまで一人で同じことをしていた筈なのに、もう暇だとは感じない。
いや、寧ろ面白い。
(…本当に、良い顔で笑うのう)
ここまで邪気の無い笑顔を作るのは自分でも難しいというのに、きっと彼女はこれまでもこういう笑顔しか浮かべたことがないのだろう。
人を欺くことに長けた自分でさえ、彼女の笑顔を前にすると、その時だけとは言え騙すことが面倒にすらなってくる。
つけるのが当然だった幾つもの心の仮面がうざったくなり、つい外しそうになってしまう。
(狙ってくる輩より、よっぽど厄介じゃよ…ま、本人に自覚がないから言えんがの)
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