「仁王先輩?」
「ん…?」
 不意に呼びかけられて視線を合わせると、向こうが少し心配そうな顔をしてこちらを覗きこんでいた。
「あの…仁王先輩はお暇じゃないです? 私ばかり楽しんでしまって…」
「いや? 俺も十分に楽しんどるよ?」
 お前さんの笑顔をな…とは当然言わない。
「はぁ…そうですか?」
 尚も不安そうにしている相手に苦笑し、仁王はゆっくりと立ち上がると相手の手からプラボトルとストローを取り上げた。
「ま、確かに見ているばかりじゃ気を遣わせるか」
 そう言ってボトルにストローを突っ込むと、仁王はふぅっとそれを吹いて再びシャボン玉を空へと飛ばした。
「!」
「これでいいか? こういうのも結構続けると肺活量のトレーニングになるんじゃよ。ま、俺は楽しいからやるだけじゃが」
「はぁ…そうですか」
「お前さんにならいつでも貸しちゃるよ。赤也や丸井みたいに乱暴に扱って壊すこともないじゃろうしの」
「壊されたんですか?」
「何で屋上からストロー投げ飛ばさんとならんかったのか、いまだに謎でのう…勿論、その後の部活できっちり返してやったが」
「…何したのかは聞きません」
 つまりそういう事をされたのだと仁王が少し不満顔で答え、桜乃は苦笑するしかなかった。
 苦笑しながら…早鐘のように打つ心臓を必死に抑えていた。
(びっくりしたぁ……でも仁王先輩…あんまりこだわらないのかな、ああいうコト…)
 私がさっきまで使って吹いていたストローに…あんなにあっさりと唇を付けるなんて…
(完全に…間接キスなんだけど)
 これまでの人生、直接はおろか間接さえも経験がなかった娘は、思わず取り乱しそうになったところを何とか上手く誤魔化した。
 もし向こうが行動の後で気付いたりして何らかの反応を示せば、自分もそれに便乗してしまったかもしれないが、肝心の男が全く意に介していない様子だった為、言い出す事も態度に表すことも憚られてしまったのだった。
(ま、まぁ…相手が何とも思ってなかったら、それはキスとかじゃないよね…て言うか、私がそういう対象に見られている訳ないし)
 そういう事なら、早く忘れてしまうに限る、と桜乃は意識を切り替えようと務めた。
「えーと…仁王先輩?」
「うん…?」
「あの…辞書、返さなくていいんですか?」
「まだ昼休みの時間はある。アイツもまだ会議中じゃろ」
「はぁ…」
 確かにその通りだった…と思い出した桜乃の前で、仁王が口元に手を当て、あくびをかみ殺した。
「はぁ…食事も済んで、程よく眠くなってきたのう…次の授業まで少し眠るか」
「あ、そうですか? じゃあ、お邪魔しちゃいけませんね、私もそろそろ…」
 がしっ
「…はい?」
 ドアへと向かおうとした桜乃の肩に手が置かれ、それが彼女の移動を阻んだ。
 無論、その手は、詐欺師のものだ。
「あ、あれ…?」
「……お前さん、まだ分かっとらんようじゃのう」
「ほえ…?」
 再び詐欺師はその口元を歪め、無垢な少女へと顔を寄せて妖し気な笑みを浮かべた。
「ここは俺のテリトリーじゃ。何の見返りもなしに、足を踏み入れさせる訳がなかろうが?」
「えっ!? お金取るんですか!?」
「……」
 本気でそう言った少女に、迫った男の方が脱力する。
 さりげなく色気を匂わせておいてもこれか……想像以上の難敵。
「いや…それは流石に犯罪じゃろ」
「え…じゃ、じゃあ…何を…?」
「そうじゃの…」
 逃がすまいと肩に置いた手に力を込めつつ、仁王は相手を自分の方へと引き寄せた。
「……手っ取り早く、カラダで払ってもらおうか」
「え……ええっ!?」


 数分後……
「……えーと、仁王先輩」
「何じゃ?」
「…これでいいんですか?」
「ああ、快適じゃよ」
 カラダで払ってもらおうと言われた時には、流石に貞操の危機を感じた桜乃だったが……
(…これってやっぱりまたからかわれちゃったのかなぁ…)
 別にいかがわしい事をされた訳でもなく、彼女は仁王に膝まくらとして使用されている真っ最中だった。
「何じゃ? 不満か?」
「いい、いえいえいえ…そんな事はないですよ。私の膝でよければ」
 使って下さい…と言いながら、桜乃の視線は先程から随分と忙しくあちこちを彷徨っている。
(うう…近いよう…こういう格好で見つめられたら何だか緊張する…)
 固い屋上の床に身を投げ出し頭を桜乃の柔らかな太腿に乗せている若者は、非常に心地よいのか、至極満足そうな笑みを称えたまま桜乃を見上げていた。
 照れている相手の心中を読み、その慌て振りも楽しんでいるかのようだ。
「…落ち着かんの」
「そ、それはそうですよ、だってさっきからずっと見つめられてますから…ちょっと恥ずかしいです」
「そうか?」
 ニヤニヤと笑う男は、やっぱりこちらの心などお見通しの様だ。
 困ったなぁ、と思っていた少女は、不意に…本当に何気なしに仁王の銀髪に目を留めた。
(わー…仁王さんの髪ってサラサラしてる…染めてるって話だけど、凄く綺麗…触ってみたいなぁ)
「……竜崎?」
「はっ…はい!?」
「…お前さん、何か企んどるんじゃないか?」
 いきなり無言になったまま自分に注視する少女に、あからさまに怪しいとばかりに詐欺師が問い掛けてきたが、彼女は逆にそれがチャンスとばかりに質問で返した。
「あ、あのう、仁王さん…ちょっとだけ、触っていいですか?」
「!?」
「あの…凄く綺麗な髪だから…ちょっと、触りたくなっちゃって」
「あ…ああ、髪か…まぁ、ええけど」
 思わず身体を硬直させてしまった男は、相手の真意を知って少し安堵した表情を覗かせた。
(…いかん、俺としたことが、ありえん事を想像した…)
 身体を触られるかと想像してしまい緊張した仁王だったが、それからふわ…と髪に触れてくる桜乃の指の感触に、は、と顔を上げた。
「仁王先輩の髪って、柔らかくて気持ちいいですね。艶々してて、とても綺麗…」
 先程までは緊張の塊だった少女が、今は完全にリラックスして自分の髪に触れて笑っている。
「他の人からも言われませんか?」
「…さぁ…記憶にはないのう」
 と言うより、こうして触れさせているのはこの娘が最初なのだが…
(それも気付いとらんのじゃろうな…)
 薄い笑みを浮かべて、仁王は瞼を閉じた。
 いかん、本当に眠くなってきた…と心で思い、身体がそれに追随していくのを感じる。
 桜乃の触れる指先が、恐い程に優しく温かい……
 さわりさわりと頭を優しく撫でられる度に、心地よい見えない波が打ち寄せ、自分の意識を夢の深淵へと誘ってくる。
(ダメじゃな…逆らえん…)
 普段ならこの天邪鬼な男は意地でも抗ったかもしれないが、あまりに魅力的な経験だったのか、面倒だったのか、それとも他に理由があったのか、この時に限ってはあっさりと勝負を放棄した。
「……――――――」
「…仁王…先輩?」
 ひそりと呼びかけるも、最早反応は無く…後には、心地良さそうに規則正しい寝息を繰り返すばかりの若者に、桜乃はくすりと笑った。
(…疲れてたのかな、仁王先輩……でも、近くで見ても凄く綺麗な顔立ち…見蕩れちゃうなぁ)
 役得役得〜と桜乃はそれからも柔らかな男の髪の毛の感触と、整った顔立ちを思うままに楽しんでいた……


 互いにとっての至福の時は、長くは続かなかった。
 ぽんぽん……ぽんぽん……
「…ん」
「仁王先輩…御免なさい、起きて下さい…」
「……ん」
 遠慮がちに呼びかけてくる少女の声も心地よく聞こえ、仁王はゆっくりと意識を覚醒させて目を開けた。
 覗き込んで来る桜乃の表情が、少し申し訳なさそうに翳っている。
 ああ、そうか…確か俺は……
「あの…御免なさい…もうすぐお昼休みが終わっちゃいますから…」
「……そうか…ありがとさん」
 礼を言いながら、仁王はゆっくりと起き上がって身体を軽く伸ばした。
 いつもここで寝る時より、身体が楽な気がする…柔らかな枕のお陰だろうか。
 息を吐きながらストレッチを行う先輩に、桜乃は遠慮がちに尋ねた。
「少しは休めましたか?」
「ああ、かつてない良い寝心地じゃったよ。お前さんのお陰じゃな」
「そんな…」
 謙遜しつつ、桜乃もよいしょと立ち上がり…そのままバランスを崩す。
「きゃ…!」
「竜崎!」
 とん…っ
「…!」
 てっきり冷たく固い床の洗礼を受けるかと思っていた桜乃の身体は、予想に反して温かな何かに包まれていた。
(え…?)
「大丈夫か?」
 かけられた声に顔を上げると、それこそ至近距離に仁王の顔があり、桜乃は心底驚いた。
「ひぁっ!!」
「…『ひぁっ』はないじゃろ…流石の俺でもちょっと傷つくぜよ」
「すすす、すみませんっ!! ちょっとビックリしちゃって…あ、あの、有難うございます。もう大丈夫ですから」
「お前さんの膝はそうは言うとらん」
「あ…」
 観察力に秀でた男の指摘の通り、桜乃の膝は支えてもらっている間もかくかくと小刻みに震えていた。
 この膝の所為で、先程も自分の体重が支えられなかったのだ。
「…すまんかったのう、俺が眠っている間もずっと動かずにいてくれたんじゃな…こんなに長くさせるつもりはなかったんじゃが…悪いことをした」
 詫びる男に、桜乃はぷるぷると首を振った。
「い、いえ、気にしないで下さい。お役に立てたのなら、嬉しいです…」
「…ああ、十分にな。ご褒美に、暫く支えてやるから掴まりんしゃい」
 痺れてしまった相手の足を庇い、仁王がぎゅ、と少女の小さな身体を抱き締める。
 無論、こういう状況になるとは思っていなかった桜乃は大いに慌てた。
「あの…! だ、大丈夫ですから…」
「今更遠慮なんぞせんでもええよ…? こっちも役得じゃ」
「そんな…」
 かぁっと頬を真っ赤に染め、瞳を潤ませてしまった桜乃の表情を間近に見た仁王が、薄く笑って耳元に口を寄せた。
『つれないのう…間接キスまでした仲じゃろ?』
「っ!!」
 忘れようと思っていたあの時の事を指摘され、驚きも露に男を見つめた少女に、彼は変わらず笑みを浮かべていた。
 いつもの企みを抱いた不敵な笑みではなく、とても温かく優しい笑みを。
「…それとも、それじゃあ足りんか?」
「え…」
 足りないとはどういう事か、と尋ねようとしたが、それは不可能だった。
 言葉が紡げなかった……唇を優しく塞がれて…
「…!?」
 驚き、頭を引こうとしたが、相手の手がいち早くそれを支えていて出来なかった。
「ん…」
 漏れる少女の声が甘く耳元をくすぐり、仁王の心に熱を生む。
(熱い……こんな小さな子に、俺が)
 自分がこんなに心を熱くさせられるとは……
 しかし、熱を感じていたのは仁王だけではなく、桜乃も同じ様に身体の中で燃え盛る炎を持て余していた。
 初めてのキス…
 テレビや映画で見たことはあるけど、まさかこんなに意識を惑わせるものだったなんて…
(う、わ…仁王先輩の唇の感触……あったかい)
 いつもクールな雰囲気の人なのに、なんて優しい温もり…
 それからも男は少女の唇を求め、彼女は彼の望みを拒むことなど出来ず、相手が唇を離すまで熱いキスに酔わされ続けた。
「に、おう…せんぱ…っ…まだ、離さないで…」
 唇がようやく離された後、桜乃はそれでも必死に仁王にしがみ付いていた。
「竜崎…」
「ごめんなさい…力が、入らなくて…っ…」
 まるで、手を離されたらそのまま奈落の底へと落ちて行くかのように、桜乃は男の腕を握り締めている。
 怯えた小鳥の様に震えながら……
「…バカじゃの、竜崎…そういう時には『まだ』じゃない」
 その小鳥を雨風から守る樹の様に、仁王は優しく桜乃の身体を抱き包み、しっかりと支えてやった。
「…『ずっと』…じゃろ?」
「……仁王、先輩…」
「…はは、次は、名前を呼ぶ練習かの」
 その為にも…と、仁王が桜乃にそっと囁いた。
『これからもまた俺に会いに来んしゃい…桜乃』
 お前さんにだけは、天岩戸も容易く開くじゃろ。
 詐欺師の誘惑に、乙女は逆らうことも出来ず、ただ頷くしかなかった……






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