天邪鬼と桜


『お早うございます。本日の天気予報をお伝えします…』

 その日の早朝。
 仁王家のリビングでは、一人の若者がバターを載せたトーストを軽く口に咥えながら、テレビの画面に視線を遣っていた。
 その家の長男であり、今年、立海大附属高校に入学した仁王雅治である。
 トレードマークである銀髪は今日も艶やかに日光に煌き、端正な顔立ちは色白の皮膚と相俟って、彼という男性をまるで大理石から削り出された美麗な彫像の様にすら見せていた。
 勿論彼は人間であり、彫像の様に微動だにしない訳ではない。
 そして何より、彫像の様に『無害』な存在でもないのだ。
 極めて有害という人間でもないのだが、彼は幼い頃より人を欺き、驚かせる事に悦びを見出しており、その能力に長けていた。
 在籍していた中学校でも、彼に騙されなかった人間は一人いるかいないかと噂されており、別名『詐欺師』とすら呼ばれていたのである。
 高校に上がってからも、彼のその性癖は治まる気配を見せてはいないらしく、相変わらず仁王の周囲は色々な意味で賑やからしい。
「ほほう、いよいよ桜も満開か」
 特に感慨もない口調で淡々と呟くそんな若者の目には、何処かの桜の名所をバックに、桜前線について説明する女性キャスターの姿が映っていた。
 時は四月、桜の頃…今年もこの国の桜達は多くの人々の心を捕らえ、魅了しているのだろう。
 そんな視聴者の人々の興味を満たそうとする様に、桜と一口で言ってもそれにも数多くの種類があり、それぞれの形や色合い、開花時期は微妙に異なっているということをキャスターが簡単に説明しているが、仁王の瞳には特に興味の色は見られない。
(…ま、詳しく知りたけりゃ、幸村の奴に聞いた方が分かり易いじゃろうなぁ)
 テレビ番組という時間が限られた中での説明より、ガーデニングを趣味としている友人の丁寧な教示の方に軍配を上げながら、仁王は続く天気の予想に注目した。
『本日、関東地方は風もなく穏やかな気候でしょう。気温も高く春らしい陽気で、降水確率はゼロパーセント、傘は必要ありません。花粉の飛散状況は…』
「…」
 どうやら今日は快晴、爽やかな青空が望めそうだ。
 しかしそれを聞いていた仁王は、ふーんとそれを聞き流しながらぱくりと更にトーストを深く齧り、口に咥えたままリビングの中を歩き回り、壁に据えつけられていたフックにぶら下がっていた折り畳み傘を取ると、無造作に鞄の中へと放り込んだのである。
 普通、降水確率がゼロと言われたら、傘を荷物から抜き取るのが常人の反応である。
 しかしこの仁王という男は、そんな常人達の『普通』の反応に準じる事をあまり好まなかった。
 普通の反応を示せば普通の結果しか返ってこない、それではあまりにつまらない。
 所謂、天邪鬼というやつだ。
 降水確率はゼロパーセント…だからと言って、傘を『持ち歩いてはならない』という決まりはない筈だ。
 傘は雨から身を保護する道具だが、役目をそれだけに限局する必要も無いだろう。
(ま、これはこれでいつか使いどころがあるかもしれんしのう…)
 さして重い物でもないし支障はないと判断した仁王は、傘を鞄に入れたまま、いつも通りに登校したのである。


 立海大附属高校 休憩時間…
「おーい仁王、英語の教科書貸してくれーい……って、オメー何してんだよい」
「ん? 丸井か」
 授業の合間の休み時間、仁王が窓際の席でまったりと…双眼鏡を覗いているところに、同級生の丸井ブン太が教室内に踏み込んで彼の席の傍に歩いてきた。
 普通なら何処にでもある和やかな風景なのだが、何分仁王が双眼鏡を構えて外を覗いたままの応対だったので、胡散臭さはどうにも拭えない。
 しかも『詐欺師』の覗き行為…対象物が何であるか訝るのは丸井でなくても同じだっただろう。
 そんな友人の疑いの視線など物ともせず、仁王は相変わらず双眼鏡で何かをウォッチング中。
「何じゃ、今取り込み中なんじゃ、後にしてくれんかのう」
「や、次の時間がグラマーだからさー、今借りないとヤバイんだって」
「しょーがないのう…鞄の中にあるけ、適当に探して持ってきんしゃい」
「おうっ」
 勝手知ったる友の鞄、とばかりに、丸井はいそいそと相手の鞄を開けて中を探り、目的の教科書を抜き出した…ところで、鞄の奥に入っていた物体に気付き、首を傾げた。
「何だこれ…って、折り畳み傘? 今日はすげぇ良い天気だって言ってたぜい?」
「ん、ええんじゃよ、何となく持って来ただけじゃ」
「何となくって…荷物になるばっかじゃねい?」
「かの? ま、人生万事塞翁が馬、じゃ。何か良い使い道があるかもしれんし」
 飄々と返す銀髪の男がまだ双眼鏡を手放さない、その執着ぶりに、丸井も改めて彼が見ている方角を眺めてみる。
「…あー」
 そして何かに思い至ったらしく、何処か諦め顔で何度か首を縦に振った。
「…愛しの君を大事にすんのはいいけどさ…ノゾキは止めない?」
「別に着替えとる訳じゃないぜよ」
「フツーに通報もんだっつーの…はぁ、おさげちゃんもホント、厄介な奴に好かれたもんだ」
 やれやれーと困り顔の丸井にも構わず、仁王はうっすらと口元に笑みすら浮かべながら、双眼鏡を用いて、先にある校舎…中学校の一教室の中にいた一人の少女を見詰めていた。
 彼女は今、長いおさげを揺らしながらクラスメートの女子達と楽しげに語らっている。
 仁王に見られているとは夢にも思っていないだろう少女は、それでもいつもと変わらぬ屈託のない笑顔を惜しげもなく浮かべていた。
(よしよし…楽しくやっとるようじゃの…変なムシもついとらんし)
 十分に確認したところで、仁王も満足げに双眼鏡から久し振りに顔を離す。
 実は、高校一年生の仁王には、こよなく愛する一人の恋人がいた。
 名を竜崎桜乃と言い、今年から立海大附属中学の二年生になる彼女は、去年から立海男子テニス部のマネージャーを務めていた縁で仁王と知り合ったのである。
 特に嘘を見抜く力に長けていた訳ではなく駆け引きが上手い訳でもない、ごくごく普通の内気な少女だったのだが、仁王はそんな彼女をいつの間にか非常に気に入ってしまい、隙あらば傍に寄せて可愛がるようになった。
 最初は妹の様な扱いだったのが、徐々に独占欲が頭をもたげ、他の誰かが桜乃に近づく事を忌み嫌う様になり…ふとある日、それが恋であるのだと若者は気付いた若者は、速攻で桜乃に求愛したのである。
 普通は悩むところであるが、やはり詐欺師にはその『普通』が通用しなかった。
『悩んだところで、俺が俺でなくなる訳でもない。下手な小細工して自分を偽ったところで、そんな恋は長続きはせんよ』
 彼なりの自論を基に告白した仁王は、その潔さが良かったのかどうか定かではないが、無事に乙女の心を手に入れる事が出来たのである。
 『詐欺師』とくれば多くの人の心を手玉に取るイメージから、複数の女性とも…という邪推を生みがちだが、この仁王という男はそこはきっちりと義理堅い性格だったらしく、桜乃を恋人に決めてからは、更に他の女性に対して淡白になっていた。
 その分桜乃と一緒になった時は、普段のクールな彼とは想像も出来ない程に彼女に甘えまくっているらしい。
 丸井も『厄介な奴』と評しはしたものの、二人の仲をそのまま認めているのは友人のそういう一面を知ってもいるからだ。
「んじゃ、教科書借りてくなー。昼休みに返しにくるぜい」
「おう」
 ささやかな休憩時間もそろそろ終わりに近づき、丸井が教室を去ると共に仁王も双眼鏡を鞄の中に仕舞いこみ…最後にもう一度、恋人がいる校舎へと穏やかな視線を向けていた…



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