本気の言葉(後編)
「ちょっ…ちゅーはしませんてばっ」
「分かっちょる、何度も言われると傷つくぜよ。大人しく、腕に力込めてこっち側に身を出しんしゃい、受け止めちゃるき」
「え…?」
「ほれ、早く」
「う……は、はい…」
言われるままに身を乗り出すと、今度は仁王が一度腰から離した手を上に掲げ『おいで』という様に上へと伸ばす。
「…っ」
「大丈夫じゃ、落としやせん」
「は、はい」
落ちるのが怖いのではなく、捧げられた腕の向こうに見えた男の優しい視線に小さな驚きを覚え、動きが鈍ってしまっただけなのだが、そこは上手く誤魔化して相手の胸の中へと飛び込む。
「…っしょ、と」
「!」
どきっ…!
(わ…っ、顔、近い…)
宣言通りしっかりと支えてくれた仁王の顔のすぐ傍に、勢いの所為で自分のそれが近づき、かなりの至近距離で視線が交じり合った。
(きゃあぁぁ…やっぱり凄いハンサム…)
整い過ぎている程に整っているその面立ちは、きっと本人が自覚している以上に立海の女子達の注目になっている。
『詐欺師』と呼ばれ、心の内を見せないミステリアスなところもまた、女子達の心を大いにくすぐるのだろうが、そんな男の心の壁は彼女達が思っているより遥かに高く堅固であるらしい。
(恋人がいる話は一切聞かないし、こないだも一人、振ったとか何とか…まぁ先輩の恋人になる様な人の想像なんか出来ないけど、きっと凄く綺麗で頭のいい人なんだろうなぁ…)
どっち道、「ちゅー」だなんてふざけた冗談を言われる自分など、最初から選考にも引っかかってないだろうけど…
「……竜崎」
「ふえ?」
不意に呼びかけられた桜乃が意識を相手に戻すと、やや困惑気味の男が相変わらず自分を抱いたまま見下ろしていた。
「…ちゅーしていいんか?」
「っ!!??」
この時初めて自分もまた仁王にしっかりとしがみついていた事実に気付き、その羞恥も相俟って、桜乃はずざざざっ!!と見事なバック回避行動を取った。
「すすすすすみませんっ!!!」
「いやもうこっちの台詞…」
そんなに嫌がらんでも…と再び仁王もやや落ち込み気味の様子。
「そこまで嫌われとるとは、繊細な仁王君はちょっとショックじゃ〜…」
「自分で繊細って……べ、別に嫌ってる訳じゃないですよ」
「じゃあ好きか?」
「そーゆー幼稚園児レベルの誘導尋問やめて下さい」
「ちっ…」
(ん、もう…相変わらずからかうのが好きなんだから)
きっとモテる人だから、色んな人に言ってるんだろうな…そう考えたらちょっと寂しいけど、仕方ないか…
「…あ、いけない」
ふと何かを思い出し、桜乃は先程、柱の上に置いた布袋を手に取ると、大事そうに身体の前に抱えた。
「何じゃ?」
「おせちですよ」
「…おせち?」
「はい、ちょっと届けに来たんです」
「そうか、ありがとさん」
「先輩にじゃありません!」
くれくれ、とひょいひょいと手を前で振る若者にきっぱり断ってから、少女は改めて説明した。
「これは猫ちゃんにです。人間用の味付けじゃないから、あまり美味しくないですよ」
「…猫?」
何だろう、この既視感…
「ふーん……猫…」
「あそこの茂みによくいるんですよ。黒と白の牛ちゃん模様の子。今は冬休みで人が来てないから、大丈夫か心配で…折角のお正月ですから猫ちゃんにもご馳走をと思って持って来たんですけ…ど」
説明していた桜乃の目が、ふと仁王の傍の地面に向けられる…と共に、言葉尻が小さくなって最後には止まってしまった。
猫缶…になみなみと注がれた水。
普通の人間は、多分こうして水を飲む事はまずないだろう…ということは。
「あ、あれ? もしかして仁王先輩も?」
「…………ふっ、バレたらしょうがないのう。知られた以上、只で帰す訳にはいかん、覚悟しんしゃい…」
「え、え…っ!?」
良からぬ企みを秘めた笑みを称えた男ににじりっとにじり寄られ、桜乃がやや怯えた様子で数歩後ずさったところで…
「じゃあそういう訳で、ちゅーを…」
「しませんってば!」
形勢逆転。
乙女の怒りに押され、桜乃がぺちっと相手の頬を軽く叩いて拒絶すると、向こうはあっさりと引き下がりつつ、すりすりと叩かれた頬を擦った。
「いてて…別に叩かんでもええじゃろ」
「すっすみません…っ!…何かちょっと…身の危険を感じて…」
それはそれで失礼な理由ではあるが、先に非があったのはやはり仁王の方だろう。
「お前さんのう…幾ら詐欺師と呼ばれちょっても、俺がそんな軽率なコトをする男に見えるんか?」
「た、確かにそうですけど……根っからの詐欺師で人を騙して面白がって、どんなに酷い事を企んでいても、絶対に自分は泥を被らない様に常に逃げ道を準備している先輩が、そんな女性から刺される様な軽率な真似をするとは思えませんけど…」
無垢な純真さほど、残酷なものもない。
(聞くんじゃなかったぜよ心から!!)
後ろを向いて、両耳を塞ぐ仕草をしながら思い切り仁王がやさぐれる。
今日ほど『自業自得』という四字熟語を痛感した事もなかったが、それを受け止める覚悟がなければ、最初から詐欺師の異名など背負ってはいない。
しかし、この子からの発言でなければ、受ける傷など最初から無いに等しかっただろう…とも思いつつ、仁王は気持ちを早々に切り替えた。
「あ〜〜…それより、猫に会いに来たんじゃろ?」
「あ、そうです。仁王先輩はもう会ったんですか?」
「まぁの、さっきまでいちゃいちゃしちょったんじゃ。多分、まだおるじゃろ」
(仁王先輩の言い方ってちょっと生々しいなぁ…)
流石にそれは口には出さず、桜乃は相手に連れられるまま、とことこと例の茂みへと歩いて行った。
「あらら、もうお食事中でしたか」
「にゃあ?」
桜乃の気配を感じて、猫が顔を突っ込んでいた缶詰から久しぶりに面を上げる。
「あ、プレミアシリーズ…ご馳走だねー、ビーフのテリーヌ仕立てですか」
「鶏ササミは美味くなかった」
「…………え?」
今なんて…?と聞き返そうとした桜乃だったが、その時にはもう相手はそこに腰を下ろし、猫を相手に呼び掛けていた。
「ほれ、ぴーちゃん。おせちが来たぜよー、優しいおねーちゃんが持ってきてくれたんじゃ…俺には何もないけど」
「褒めるのと拗ねるのと、どっちかにしてくれませんか……ぴーちゃん?」
「こいつの事じゃ。いい名前じゃろ?」
「…返答に困りますね」
桜乃が困り顔をしながらも、布袋からタッパー三段重ねを取り出し、蓋を開けて猫の前にちょんと置いた。
それぞれに入っている素材が違う、なかなかの豪華仕様である。
猫にとっても有難い食事内容だった…筈なのだが、既に二つの缶詰を食べ終えていた相手は既に満腹になっていたのか、そちらよりも寧ろ桜乃当人に興味を示して近づくと、しゃがんでいた彼女の膝の上にぴょいっと乗りあがった。
「あら」
そしてそのままそこで丸くなり、ごろごろごろ…と喉を鳴らし始める。
「きゃあ可愛い〜、もふっちゃお〜〜」
「…」
大喜びで猫の毛並みを愉しむ桜乃の隣に、倣う様に仁王もちょこんと座った。
そして猫が桜乃に愛想を振りまいている間、仁王はぽつんと一人っきりで無言のまま、桜乃の方を眺めていた。
「可愛い可愛い」
「……」
「んー、やわらか〜い」
「……」
「本当に人慣れしてて…」
「……」
「……」
「……」
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