イヤーマフ
「うああああ〜〜〜〜、さむぅい〜〜〜〜っ!!」
その日も朝から冬ならではの超低気温だった。
低血圧で寒がりな竜崎桜乃にとって、この時期は毎日が修行の様なもの。
しかし、無情にも学生生活を送る以上、遅刻という選択は真面目な学生には許されないのだ。
更に今日は、マネージャーとしてだけではなく、部室の鍵当番という重要な役目もある。
もし自分が遅れたらそれこそ部員全員に多大な迷惑を掛けてしまうことになるので、これは気張って行かざるをえないだろう。
「うーさぶさぶ…手袋とマフラーがなかったら絶対凍死してるよう〜〜」
勿論、そこにはコートという選択肢も入ってはいたが、彼女にとっては当たり前過ぎる防寒具なので、名前さえ挙がらなかったのだった。
外に出て、とことこと道を歩く間にも、彼女の歩行速度は段々と上がってくる。
早く学校に到着して屋内に入りたいという希望と、少しでも足をより多く動かすことにより体内の熱産生の効率を上げようという無意識的な行動によるものらしい。
そうしている間にも時折吹きつけてくる北風は、彼女の露わになっている頭部に容赦なく冷却攻撃を仕掛けて来た。
「はうう〜〜、寒いなぁ…部室に行ったら真っ先に暖房入れて…あとお湯も沸かしておこうっと」
自分がマネージャーを務めている立海大附属中学の男子テニス部は、歴史ある同校の中でも特に華々しい活躍をしているが、やはりそれだけの成績を納めているだけあって普段の練習内容もかなり厳しい。
朝の練習…朝練も毎日行われており、レベルも高い。
それを手伝うだけでもかなりの運動になる為、その間は寒さに震える暇もないのだが、始まる前は当然その限りではないのだ。
部室内はかろうじて空調設備の利用を許可されているので、活動が始まる前はまさにそこが前線基地となる…桜乃にとっても他の部員にとっても。
(昨日は三人ぐらい風邪で休んでたっけ…やっぱりインフルエンザも今から流行ってくるのかなぁ、気を付けないと……うう、寒い〜)
部室の前にようやくたどり着いた桜乃が、鍵を開けるべくごそごそとポケットを探っている時だった。
ふわ…
「!?」
不意に、自分の両方の耳があったかくなった事を感じて、少女が振り返る…と、
「よ、お早うさん」
「仁王先輩!?」
「今日も早いのう、感心感心」
見ると自分のすぐ背後に三年生の仁王雅治がいつもの制服姿で立っており、その両手を伸ばして自分の両の耳を塞いでいた。
今も感じている温もりは、彼の手の熱によるものだったのだ。
「お早うございます、仁王先輩。あれ? 今日は先輩も随分と早いですね」
「まぁの」
二年生の某エースの様に遅刻はしないまでも、そんなに早く来る方でもない仁王が今日は随分と早く登校してきた事を受け、桜乃は自然とその理由について考えてみた。
そう言えば、確かその二年生が以前それに関わる事を言っていた様な……
「………」
「何じゃ? 人の顔をじろじろ見て。何かついちょるんか?」
「…恋人さんの家にお泊りだったんですか?」
みにょ〜ん
桜乃の爆弾発言を受け、反射的に彼女の耳を覆っていた仁王の両手が、そのまま相手の耳朶を両側へと引っ張った。
「いたたたたたっ!!」
「何じゃ〜あ? その不届きな発言はぁ〜」
「せせせ、先輩っ! 目が据わってます目がっ!」
「俺の目が据わろうと泳ごうと走ろうと俺の勝手じゃ。それよりさっきの発言はどういう事か、とっとと吐きんしゃい」
うりうりうりうり、と更に耳朶を責められて、桜乃があうあうとそれなりに苦しみながら必死に弁解する。
「だってだってだって、仁王先輩がいつも違う道を通って通学してるのって、沢山の彼女さんの家から出かけてるんだろうって切原先輩がぁ〜!」
「…赤也ぁ?」
「仁王先輩確かにモテモテだし、頼まれたらきっと女の人は断れないだろうなって…」
「…ほう」
聞くだけ聞いて、仁王は一旦桜乃の耳を解放するとコートの奥に手を入れ、内ポケットから愛用の手帳を取りだした。
そしてそこに何かをすらすらと書きこんでいく。
実はそこには『近日中、赤也とタイマン』と書かれたのだが、勿論桜乃にはそれは見えない。
「?」
「全く…とんでもない誤解じゃ。俺はそこまでふしだらな男じゃないぜよ」
「違うんですか?」
「当たり前じゃ、俺だって友達は選んどる。昨日は松山さん家のミケ坊の所に泊まっただけじゃ」
「……」
「その前は田中さん家のジャック、一週間前は吉川さん家のタロー…」
「あの…そういう友達の選び方はしない方が」
せめて同じ人類で…と桜乃が恐る恐る突っ込んで、仁王も話をそこで切り上げる。
「兎に角、人間の女性繋がりでそこに泊まった事はないぜよ」
「そうなんですか…」
ほ…っ
不意に自分が漏らした安堵のため息に、はっと桜乃が気付いて赤面する。
(な、なんだろ、今の『ほ…』って…自分、ちっとも関係ないのに、何で安心しなきゃ…)
そんな相手の動揺を知ってか知らずか、仁王は顎に手を当ててふーんと考え込んでいた。
「しかしそうか…俺が頼んだら女性は断れん様に見えるんか、ふ〜ん…」
そして一言。
「今日泊めて」
「嫌です」
速攻で断られ、仁王があからさまに不本意な表情。
「断れんってお前さんが言うたばかりじゃが…」
「それとこれとは話が別です。私、不器用なんですからあまりからかわないで下さい。あ、いい加減鍵を開けなきゃ…」
相手の疑惑も晴れたところで、桜乃はいつまでも部室の入り口に立っているという訳にもいかないと再び相手に背を向けてごそごそと鍵を探し始めた。
そんな少女の後姿を、詐欺師は何処か安堵した表情で見下ろしていた。
「不器用ね…」
どっちかと言うと鈍感じゃないのか?
俺がこんなに朝早く来た事…本当はお前に会いたくて、とは考えんのじゃな。
(ま、言えん俺も俺か…こんなに良い子じゃと攻略も一苦労じゃよ)
まさかこんな純朴な子に、心をやられてしまうとは思わなかった。
誰かに手を出されるより先に、何としても手に入れたいが…ここまで鈍感だと先は長そうだ。
けどまぁ、鈍感だからこそゆっくりと策を練れるという利点もあるか。
「…」
暫く無言で相手を見下ろしていた仁王の表情がふと曇る。
その視線の先、まだ赤い相手の耳朶が痛々しげにおさげの向こうに覗いていた。
最初に彼女の耳を手で塞いだのも、あの赤みが気になり、少しだけでも冷えがましになるようにと思っての事だった。
「…にしても見ていて気の毒じゃ、耳が真っ赤になっちょるよ」
「ですか…確かに来る時もじんじんしてました。これじゃ耳までしもやけになっちゃいそうですね、気を付けないと」
「…」
ふわ…
「え?」
桜乃の両方の耳朶がほっこりと温かくなり、同時に優しい柔らかな感触が彼女の耳を覆った。
先程と同じく仁王が手を出してくれた事を悟り、少しだけ照れて桜乃が断る。
「い、いいですよ仁王先輩。部屋が開いたらすぐに暖房入れますし」
「氷みたいに冷たいのう、それに何となく固くなっちょる」
もみもみもみもみ…
「ふあ…っ」
血流を良くしてやろうと、軽く指先を使って耳朶をマッサージし始めた仁王に、桜乃がびっくりして小さな声を上げた。
何だろうこれ…気持ちいいけど、仁王先輩に触られてると思ったら…何だか身体がざわざわする…っ
嬉しい様な気もするけど……でも、ちょっと痛いかも…
「あ……仁王先輩…っ」
「…っ!?」
やけに上ずった、艶っぽい声を聞いた仁王が思わず指を止めると、相手が振り返って視線を合わせてきた。
その表情。
瞳が潤み、寒冷の為だけではない上気した頬を晒し、必死に何かを訴えかける少女の表情は、本能的な何かを仁王の奥底から呼び覚まそうとしているかの様だった。
「あのっ…私、そこ弱いみたいなんです……痛くしないで…」
「!!!」
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