朝練中…
「んー…うん」
部員たちの練習風景を見ていた部長の幸村が、一通り見終わったところで頷いた。
「いいね、病休の子達は仕方ないにしても、全員気合いが入ってる」
「そうだな」
相手の意見に異論ないのか、副部長の真田もうむと満足そうに頷いたところで、幸村は参謀の柳へと話を向けた。
「レギュラーの調子はどうだい蓮二。俺も後で見に行こうとは思っているけど、非レギュラーの子達も面倒を見ないといけないからね…何か気になった事があれば教えてくれないか」
レギュラー、非レギュラー問わず公平に扱う博愛主義の親友の言葉を受け、ノートに書き込みを行っていた柳が手を止めて久しぶりに顔を上げた。
「そうだな…注意する、という程のものではないが…」
ふむ、と少し考え込んだ後、彼は幸村へ視線を向けながら一つ、気がついた事実を述べた。
「…仁王にいささか、動揺が認められた。珍しい事だ」
「動揺…? 仁王がかい? それは確かに珍しいね」
あの鉄面皮の詐欺師が相手にそうと分かる程に心の揺らぎを見せるとは…
驚きよりも寧ろ、楽しげな表情を浮かべた幸村の代わりに、真田が相手に再度確認する。
「本当か? 朝に部室で会ったが、俺には普段と変わりない様に見えたが…」
「いや、部室の中での方が寧ろ動揺は激しかった。あいつは極めてポーカーフェイスが得意だからな、弦一郎が見抜けなかったとしても不思議ではない。他に気付いているのも柳生がせいぜいだろう」
「むぅ…」
「その原因が何なのか、もう分かっているのかい? 蓮二」
「奴の朝からの行動を分析した限りでは、若干、竜崎との接触を避ける傾向が見られるな。しかし嫌悪というものから来るものではなさそうだ」
「竜崎さん? 尚更不思議だね、あんなに彼女を気に入っていた彼が」
少女の方は鈍感だから気付いていないだろうが、あの詐欺師がかつてない程に一人の女性に入れ込んでいる事はとっくの昔に知っている。
「うむ…しかし肝心の竜崎に関してはいつもと全く変わらない。仁王に対する態度も普段通りだ。故に二人が共に何かの秘密を共有しているという可能性は極めて低い…これ以上となると仁王本人から聞くしかないが、まぁ難しいだろうな」
「…ふぅん」
確かに、あの男に無理強いして口を割らせるなんて、神にも悪魔にも出来ない芸当だ。
しかし、少なくともあのマネージャーに何の変化もないということなら、無粋な事を仕出かしたという訳でもないのだろう…なら、今は静観に留めておこうか。
「幸村部長? 丸井先輩達がコートに来てほしいって…お取り込み中でしたか?」
そこに丁度そのマネージャーが伝言を伝えに小走りで来た。
軽く様子を窺ってみるが…確かにいつもと変わりない。
仁王と異なり嘘をつくのが苦手な子なので、確かに彼女個人に関しては何もなかったのだろう。
「うん、わざわざ知らせてくれて有難う。大丈夫だよ、こっちの話ももう終わったから。すぐ行くね」
「はい!」
桜乃に乞われるままコートへと足を向けた部長が、さり気なく左手を軽く振る。
『この話はここまでにしよう』
そんな暗に示された指示を受けて、柳と真田もそれ以上の発言は行わなかった。
翌日…
「おう、竜崎」
「はい?」
その日、いつも通り朝練が始まる前に、桜乃が部室内にいた仁王に声を掛けられた。
「何ですか? 仁王先輩」
「ん、お前さんにこれをくれちゃる」
「?」
受け取ったのは小さな紙袋…何処かの雑貨屋のものの様だ。
「開けていいですか?」
「ええよ」
何だろう?と思いつつごそ、と中身を取り出して見ると、ぽわぽわした起毛が柔らかい一組の白いイヤーマフだった。
昔も今もあるプラスチック製のヘッドバンドで繋がったものではなく、それぞれが袋状になって耳朶を包む形で、端のゴムで固定する形状のものだ。
「わ!」
「今日も見とったが、やっぱり寒そうなんでなぁ。それ付けたら少しはましになるじゃろ?」
「嬉しい! わぁ、ふわふわしてあったかそう〜」
大いに喜んだ桜乃が、早速付け心地を試すべく両方を自分の耳に嵌めてみたが、大きさも合っていて付け心地も上々の様だ。
「きゃ、あったかーい。本当に貰っていいんですか? 仁王先輩」
「ああ、しもやけになったら辛いじゃろうしな、付けときんしゃい」
「有難うございます! 大事に使いますね」
にこにこにこと満面の笑顔で礼を言う少女に、うんと頷いた後で仁王がすっとその視線を外す。
(まぁ、アレ見た以上、放置しとく訳にもいかんしのう…)
昨日の、耳朶を揉んだ時に見せたこの娘の煽情的な表情と艶やかな声…
見た瞬間、時と場所も憚らず、思わず押し倒しそうになってしまった事は誰にも言えない自分だけの秘密だ。
何とか抑えはしたが、暫く心臓が胸を突き破りそうな感覚を耐えなければならず、おまけに邪な気持ちを少しでも抱いてしまった心苦しさか、桜乃の顔を見られなかった。
あれは…ダメだろう。
あんな顔、下手な男に見せる訳にはいかない。
自分以外の誰かが、また同じ様に彼女に耳を塞ぐような行為をしたら…そう思うだけでぞっとする。
この不安を抱え続けるくらいなら、自腹でイヤーマフをプレゼントして予防線を張った方が億倍ましだ。
(……人の気も知らんで呑気なもんじゃ)
相変わらずマフの付け心地に喜んでいる少女を改めて見つめながら、仁王は軽く息を吐いた。
やめた。
鈍感だからのんびり攻略しても…などと思っていたが、大きな間違いだった。
あの調子で知らず知らずの内に他の男達を夢中にさせてしまう可能性がある以上、のんびりなんてしていられるか。
(本気、出すか…)
この俺が初めて欲しいと思った女…逃す訳にはいかない。
絶対に、俺しか見えない様にしてやる…そして好きだと言わせてみせる…!
狡猾な詐欺師の脳内で、目の前の乙女を手に入れる為の策略がゆっくりと、綿密に練り上げられ始めていた……
了
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