保健室の悪魔


 立海大附属高校にも冬がやってきた……
「はわ〜〜、寒い寒い〜」
 今年の春に立海大附属高校に養護教諭…つまりは保健室の先生として赴任してきた竜崎桜乃は、その日も朝早く、自分の持ち場である保健室を訪れると、早々に暖房を稼動させ、加えてストーブにも火を入れた。
 来たばかりの保健室は外気とあまり変わらない気温で寒さが染みるが、それももう少しの我慢である。
 部屋が暖まるまで、桜乃は身体を動かすことで暖を取ろうと、部屋の中の簡単な掃除と窓拭きを始める。
(ストーブの上にやかん置いて湿度を保つのはいいけど、下手したらカビが生えるもんね…気をつけないと)
 まめに壁やガラス窓の結露を確認しておかないと…と思いつつ窓ガラスを拭いている桜乃の背後で、保健室の扉が音もなく開かれた。
 彼女が気付かない間に部屋に入って来たのは、銀髪の同校の男子生徒、仁王雅治。
 彼はまるで桜乃を気にする素振りも無くごく自然に気配を消して入ってくると、火がつけられたストーブの前の椅子にすとんと座り、自分の鞄を開けた。
 そこから取り出したのは、市販のスルメ。
 その袋をぱりっと破いて中身を取り出すと、彼はスルメを手で裂いては、ストーブの上に乗せていった。
 保健室で焼きスルメ…不届き極まりない行為である。
「…ん?」
 その内、背後の背信行為に全く気付かなかった桜乃が、くん、と鼻を鳴らした。
 何か…不思議に香ばしい匂いが……?
「?」
 何事と思って振り返ると、悪びれもせず、寧ろ嬉しそうににこにこと笑いながらスルメを焼いている仁王の姿がそこにあった。
「きゃ―――――――――――っ!!」
「おう、おはようさん竜崎先生。いつも元気じゃのう」
 悲鳴の大きさは、多分元気とかそういうモノとは違う…
 分かっているのかいないのか…仁王はあっけらかんとした挨拶をしながらスルメの具合を確認した。
「お、そろそろ…」
「ちょ、ちょちょちょちょ!! ダメですよ、保健室でスルメ焼いたら〜〜!」
「しょーがないじゃろ、今の時間、家庭科室は閉まっとるんじゃ」
「そうじゃなくて、学校でスルメ焼くことそのものが…」
「…ほう」
 にやっと仁王が笑う…が、手にスルメを持っているのであまり様にはなっていない。
「?」
「スルメじゃなけりゃええんじゃな? タコとか餅とかマシュマロとかなら、文句はないと!」
「い、いえ…」
 何だか話が変な方向へ…と思っている間に、生徒は手にしたスルメに哀れみの視線。
「哀れじゃのうスルメ…お前さんも好きでスルメになったワケじゃなかろうに」
「あ、あのもしもし…?」
「……謝りんしゃい」
「はい?」
 惑うばかりの女性教諭に、スルメを突きつけた仁王が凄む。
「可哀相なスルメに謝れとゆーとるんじゃー!」
「きゃあああ! よく分からないけどごめんなさ―――いっ!」
 何だかよく分からないけど、悪い事を言ってしまったのだろうか…と、桜乃は相手の勢いに圧されて軽いパニックに陥ってしまった。
「いや、本当に飽きんキャラじゃのー」
「……はっ!」
 謝った後にはっと我に返ると、当の相手は既に椅子に座り、スルメをもしょもしょと口に入れてのんびりと暖を取っていた。
「〜〜〜〜〜〜〜!!!」
 またやられた〜〜〜〜〜!!
 上手くからかわれてしまった自分に、悔しさと怒りと羞恥が湧き上がり、桜乃はふるふると肩を震わせた。
 そう、またやられてしまった…この生徒に。
 彼、仁王雅治は、この立海大附属高校の二年生なのだが、自分がここに赴任してきてからなのか、それ以前からなのか、やたらとこの保健室に足を向ける常連さんだった。
 では何か病気持ちか、それとも身体が弱いのか、という話になるが、いずれも違う。
 およそ病気に縁はなく、中学生の時からテニスの腕前も全国的に名を知られているという名プレーヤーなのだ、無論、文句のつけようがない程の健康体。
 それでは何故保健室に来るのか…と言うと、ほぼ間違いなく居心地がいいからだ。
 何しろベッドはある、ストーブはある、静かで落ち着く環境……そして
(多分…弄れるオモチャ(私)もあるからよね…)
 はう〜と、桜乃は涙目で目を向けたくない真実に向き合う。
 仁王が他の職員からも、あらゆる意味で危険人物と看做されているのはすぐに耳に入って来ていた。
 別に教室で暴れたり授業の妨害をしたりという問題行動は起こさないのだが、他の教師曰く彼は『よく分からない』のだという。
 テニスのプレースタイルにおいても、『コート上の詐欺師』という異名さえついているらしいのだ。
 そんな、あまりにもファジーであまりにもブラックボックスな人格、行動で、常に周囲を煙に巻く為、多くの生徒を指導しなければいけない教師達からは扱いにくいタイプと看做されていた。
 その仁王が最初に保健室に来たのが自分が赴任して来た初日、始業式の後。
 いきなり、部屋を片付けていたところに現れた彼は、自分を見てにこりと笑った。
『ほう…』
『?』
 何を思ったのか、一言、そんな感嘆の言葉を漏らした後で、仁王は片づけを手伝ってくれた。
 その時は、良い生徒さん!と思った…そう、その時は。
 ところが早速次の日から、仁王の保健室への入り浸りと、自分とのよく分からないコミュニケーションが始まったのだった。
 今日の様な小さな悪戯はするものの、特に他の生徒に迷惑を掛ける事はないのだが、流石に健全な男子生徒がいつも保健室に居座るのは宜しくなかろうと、職員室でさりげなく他の教師の間で切り出したのである…が、
『あの問題児が保健室で大人しくしてくれているのはいいこと』
との結論に達し…詰まるところ、保健室へ態の良い厄介払いをされてしまったらしい。
 そういうのは、学校の教育現場としては如何なものか…と思うものの、成績も良く出席も問題なく、素行も(見ている限りでは)優良である以上、下手な介入は出来ないというのが向こうの本音らしい。
「どうしたんじゃ先生」
 その『厄介者』が、無言を守っている桜乃に気遣う言葉をかけたのだが…
「…せめて匂いがキツイのは止めてくれないかなぁ」
と、朝から疲労困憊となってしまった相手に言い返されてしまった…しかし自業自得だろう。
「別にええじゃろ、強力な脱臭剤置いとるんだし」
「その脱臭剤を請求する時に、『食べ物の匂いがキツくて必要なんです』と頼まなきゃいけなかった私の気持ちを考えたコトがあるの〜? よりによって…・よりによって、何であの時クサヤなんか…」
「いや、あん時は俺も流石に驚いたぜよ、まさかあそこまでとは…」
「家でやりなさい、家でっ!!」
 流石にあの時は大問題になりそうだったのだが、結局桜乃は何とか内内で誤魔化して、仁王がきつく責められないようにと取り成してやったのであった。
 根が優しい性分なので、どうにも誰かを責めるという行為は苦手らしい。
「んもう…ここでスルメ焼いて食べた事は内緒にしてあげるから、すぐに教室に行って授業を…」
「あ、今日の一時限目、自習なんじゃ」
 桜乃の言葉を途中で遮ると、仁王はいそいそと保健室のベッドへ潜り込んでしまった。
「お休み〜〜」
「ちょっと――――――――――――っ!!」
 桜乃の可愛い声が響いた時には、仁王はとっくに夢の世界へと逃げ込んでしまっていた……


 立海での桜乃のお仕事は、保健室においてのものだけではない。
「医療備品の補充に来ましたよ〜」
「ああ、これは…竜崎先生」
 大きなバッグを肩から下げた桜乃は、放課後に男子テニス部のコートを訪れていた。
 部長である幸村精市が、彼女の姿を認めると、特に疑問に思うこともなく軽く一礼する。
 運動部は当然、その活動中に小さな怪我をする事はよくある事で、特に仰々しい治療が必要ないものであれば各部で対処するようにそれぞれの部室に救急箱が設置されている。
 定期的に各部を回ってそれらの補充をするのも、桜乃の大事な仕事だった。
「特に何か足りなくなってるのはあるかな?」
「そうですね、傷の消毒に使うオキシドールとイソジンはいつも通りの減りですが…ああ、スプレーが少なくなっていたと思います」
「了解、丁度持って来ているから一緒に補充しましょうか…見せてもらっていいかな?」
「ええ、俺はちょっと手が離せないんで、誰か代わりに付けましょう…ええと」
「…お、先生じゃ」
 ナイスタイミング?
 二人の傍を仁王が通りかかってその足を止め、幸村は丁度良いとばかりに相手に向かって頷いた。
「やぁ、仁王。丁度良かった、君、竜崎先生と一緒に部室に行って救急箱の補充を確認してくれる?」
(わー、仁王君のテニスウェア姿だ…格好良いなぁ)
 制服の姿も様になっていたけど、引き締まった手足が露になっている今の格好も凄く目を惹きつける。
(…モテるんだろうなぁ、クラスの女子にもあんな事してるのかは知らないけど…私はまぁ、嫌われてはいないと、思う…けど…)
 ふと思った。
(…私は、仁王君の心の中で、どんな場所にいるんだろう…? あれ?)
 何でこんなコト考えて、不安になってるんだろう、私…おかしいな。
 気を取り直そうと構えている間に、仁王はきょろっと桜乃と幸村の間で視線を動かした。
「何じゃ、今日はウチの番か…ええよ?」
「……幸村君の言う事は素直に聞くのね〜」
「だって部長じゃもん」
 つまり、生徒である部長にも負けてしまっている、ということか。
 確かにこの幸村という生徒は、テニスの腕が立つ上に非常に部員達の面倒見が良いことで知られる人格者なのだが。
「どうせ威厳の欠片もありません…」
 ふにゃんと軽く落ち込む桜乃に、仁王はふ、と薄い笑みを浮かべた。
「心配せんと、俺は先生が憎くて保健室に行く訳じゃないんよ? 面白いだけじゃ」
「うん…そうだろうね。すっごく良く分かる、ソレ」
「仁王」
 朗らかな笑みを浮かべて二人のやりとりを見つめていた幸村の傍に、副部長の真田が歩いてきつつ仁王に注意する。
「良き師は敬うべきものだ。俺達生徒の健康を気遣ってくれる竜崎先生を困らせることはするなと、何度言えば分かる」
 自分を気遣ってくれた副部長に、桜乃はぱたぱたと手を振って同時に首も振った。
「あ、いいのいいいの、真田君。私もまだまだ未熟だし、良き師って言われる程の事もしてないから…じゃあ、行ってくるね」
「……じゃあの」
 桜乃と仁王が並んで部室に向かっていく姿を見送りながら、真田が困ったものだと息を吐く。
「全く…いつの間に保健室に入り浸るようになったのか…たるんどる」
「……楽しいから、だけじゃないみたいだけどね」
「うん?」
「いや、何でもないよ」
 詐欺師の心の中すら見通しているのか、部長の幸村はただにこにこと笑うだけだった。
 そんな部長達が話を練習内容に切り替えて話し合っている間に、仁王は桜乃を部室に案内して救急箱を開いていた。
「えーと、綿球のパックが三個不足…うわ、スプレー殆ど空じゃない、前にも替えたばかりなのに…部員さん達の筋肉とかは大丈夫?」
「おう、アップもダウンも十分やっとるし、大きな怪我もない」
「良かった…まぁ、常勝立海のテニス部だもんね、流石にしっかりしてる…仁王君も、大丈夫?」
「? 当然じゃよ」
「そっかぁ、いつも保健室に来ているから、やっぱり無理してるんじゃないか何となく心配でね…良かった。まぁあれだけマイペース保ててるなら、大丈夫かな」
「………」
 健常者が居座っている事を責めるより、陰で無理している事を心配してくれる女性教諭に、腰を少し屈めたままに仁王が視線を向ける…が、相手は救急箱の補充に忙しく、気付いていない。
(……これがポーズじゃないのは凄いのう)
 浅はかな下心を持った奴らの好意を腐るほどに見てきたからこそ、『こういう』言葉は心に響く。
 いつもそうだ、最初に会った時から今まで、彼女はいつもいつもそうだった。
「…りゅう」
 仁王が相手を呼ぼうとした時、部室に同じくテニス部員の切原赤也が入って来た。
「すんません、竜崎先生?」
「あ、切原君、どうしたの?」
 桜乃が顔を上げて相手を見た時には、仁王は既に腰を伸ばし、いつもの様にポーカーフェイスを守っていた。
「何か柳先輩から伝言で、アルコール綿にアレルギー起こす奴が何人かいるんで、代わりの消毒綿も欲しいって」
「あ、そっか…そうだね、じゃあそれも補充しとくね」
「よろしくッス」
 伝言を伝えた後で、切原は自分のテニスバッグもロッカーから取り出して、中からタオルを引き出した…ところで、そちらを見た桜乃がぱっと顔を綻ばせた。
「あ! それ…」
「んあ?」
「それ、最近出たばかりのUFOキャッチャーの景品だよね」
 桜乃が指差したのは、切原の鞄の取っ手に括りつけられていた、猫をイメージしたマスコットキーホルダー。
「え…おー、そうそう! ゲーセンに行ったついでに久し振りにやってみたら、一発で落としたんだ」
「凄いねー」
 にこにこと楽しそうに微笑む桜乃の様子に、切原は首を傾げる。
「ナニ? もしかして先生、ゲーセンにも行くの?」
「あ、ううん。ゲームじゃなくて、UFOキャッチャーの景品に可愛いのがあったらつい見ちゃうの。元々ぬいぐるみとか好きで、恥ずかしい話だけど家にも沢山置いてたり…才能無いから、景品を狙うのはまず無理だけど」
「あー、確かに最近のは、女が好きそうなモノも結構あるからなぁ」
「でしょ? でもああいうの取るの得意なのは、大体男子なのよね」
「ふーん……そう言えば、仁王先輩ってああいうの得意そうッスけど?」
「いや? どちらかと言うと苦手じゃの」
 悪びれもせずに、仁王はさらりと相手の予想を否定する。
「へ? そうなんッスか? 何かいかにもあっさり取ってきそうですけど」
「俺が掠め取るのは生きた人間の情報じゃ、機械相手じゃ融通が効かんじゃろ。それに、上手くなる程に執着するモノもないしのう」
「は〜、成る程ね」
 そう言われてみたら納得出来るな、と頷いて、そこで後輩はタオルを肩に掛けると再び部室の外へと出て行った。
「…子供じゃの」
 再び二人になったところで、くっと上から仁王が唇を歪めて一言…何の事を言っているのかは明らかだ。
「うっ…い、いいじゃない、個人の趣味なんだから」
「まぁ、それもそうじゃな…けどまぁ…そういう先生も可愛いぜよ」
「…今度はナニ企んでるの?」
「…たまに褒めるとこれじゃ」



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