翌日……
「…ん?」
 いつもの様に堂々と保健室を訪れた仁王は、普段とは少し異なる光景に声を漏らし、視線を先の机へと向けた。
 その向こうで、桜乃が身体を机に突っ伏し、動かない。
「…どうしたんじゃ? 先生」
「…ん」
 呼びかけられ、のろのろと上体を起こして顔を向けた相手に、仁王は不覚にも胸がときりとした。
(顔が赤い…)
 いつもよりやや上気した頬と、潤んだ瞳が、やけに艶っぽく映る…寝起きだからだろうか?
「…仁王君?」
 尋ねてくる声にもいつもの張りがない…これもまた寝起きのそれに近い。
「寝不足か? 先生」
「ん…そうかもね、昨日ちょっと気分が優れなくて寝付けなくて…あれ?」
「?」
「仁王君、シャツのボタン、取れかかってる?」
「あ?…ああ、本当じゃ」
 指摘された右腕を掲げてみると、袖口のボタンがギリギリ何とか留まっている状態だった。
 少しでも意図的に引っ張ったら、おそらくは外れてしまうだろう。
「シャツ、脱げる? 丁度ソーイングセット持ってるから、付け直してあげるよ?」
「そう、か…? じゃあ、お願いしようかのう」
「うん、付け終わるまで、上着だけでも羽織ってて。暖房は効いてるけど、風邪引いちゃいけないから」
 言われるままに、仁王は上着を脱いで続いてシャツも脱ぐと、それをそのまま桜乃に渡した。
 アンダーウェアを纏わず、諸肌の上に直接シャツを着ていた均整の取れた上半身が、ほんの数秒露になり、桜乃はどきりとしながら慌ててシャツに注目した。
「ち…ちょっとだけ待っててね」
「すまんの」
 ソーイングセットを出した桜乃は、白の綿糸を適度な長さに切って針に通し、ボタン付けに取り掛かる。
 いつもの様にやればほんの数分で終わる作業である筈が…今日は違った。
(…あれ? 何だろう…目、霞む…)
 頭が上手くまとまらない…ボタンを付けたい筈なのに、指が上手く動いてくれない…動かそうとしているのに…何でだろう…?
(何だかぼーっとする…暖房、効きすぎてるのかな…気持ち悪い)
「先生!?」

 がたんっ!

 くらりと傾いだ教師の身体を、仁王が咄嗟に受け止めた。
 その衝撃と呼びかけられた事で、一時遠のいた意識がまたはっきりとしてくる。
「あ、あれ…仁王君…?」
「どうしたんじゃ…って、先生…」
 問い掛けたところで、仁王はは、と何かに気付き、さわ、と相手の額に手を触れた。
 桜乃はひんやりと心地よい細雪を当てられた様に感じ、仁王はストーブに手を翳した様に感じた。
「熱あるぜよ…気付かんかったんか?」
「え、そうなの…?」
「…取り敢えず、針を離しんしゃい。怪我したらいかんからの」
「う、うん」
 相手の指示に従い、シャツと針を机の上に置いて、桜乃は一度椅子に座りなおした。
「ごめんごめん…うわ、風邪引いちゃったのかな…でももう大丈夫だから」
 とても大丈夫とは言えない熱だと思うのだが…?
「……ぴた・ひえ、要るかの?」
 相手の申し出た単語に一瞬きょとんとした桜乃は、すぐにそれが何であるかを連想し、嬉しそうにこくんと頷いた。
 きっとあれだ、額とかにぺたりと貼る、冷感シート…でも…
「わ、嬉しい、持ってるの? でもそれって、ちょっと言葉の順番が逆なんじゃ…」
「……」
 相手の台詞には答えず、仁王はすっと手を伸ばし…
 ぴたっ
と、自身の諸肌の上半身に、相手の身体を抱き寄せて密着させてしまった。
(え?)
 密着させた男の肌から、確かにひえひえ〜と心地よい冷感…ぴた・ひえで間違いない、が…
「ちょ、ちょっと仁王君!? あのっ…」
「俺、体温低いんじゃ…気持ちええじゃろ?」
「そういう意味じゃなくて、そのっ…これはちょっと…」
「遠慮しなさんな…どうせすぐに同じ体温になる、それまではこうしててやるけ」
「う……」
 最初は口調も強く遠慮していた桜乃の声が徐々に小さくなり、やがて消える…それと同時に、相手を押し返そうとしていた腕の力もかくんと抜けていった。
 また…意識が遠のく…
「よしよし…楽にのう…」
(…うわ…凄く気持ちいい……仁王君の手、なぜてくれてる…とっても優しい)
 くたんと脱力した身体を全て仁王に預けて、桜乃はほんの少しの間だけ、眠りに堕ちた。
「…疲れとったんじゃな…俺の責任でもあるんじゃろ…?」
 こんな客がしょっちゅう来とったらな…少し悪乗りし過ぎたか、済まないことをした。
 しかし、俺ももう……
(なぁ……そろそろ…ええじゃろうか?)
 不思議な問いを心の中で投げかけると、仁王は眠った彼女の身体を軽々と抱えてベッドへと運び、そして、静かに保健室を出て行った……


 それから数時間後、桜乃は目を醒ました後、学校を後にして、とことこと家路についていた。
 どうやら眠った後で、仁王が他の職員に自分の体調について説明してくれていたらしく、起きた時には既に帰宅の措置が取られていたのだ。
 少しだけでも睡眠をとったことが身体に良い影響を及ぼしてくれたのか、今の足取りは比較的しっかりしていた。
(はぁ…情けない…今日はもうすぐに帰ってゆっくり眠ろう…)
 ぽん…
「?」
 いきなり背後から肩を叩かれ、振り向いた桜乃はえっと目を剥いた。
「仁王君!?」
「よ、起きたようじゃの、先生。帰るんじゃろ? ついでじゃ、お供するけ」
「ついでって…どうしてあなたが…」
「ああ、俺も今日は早退じゃ…どうも気分が乗らんでの」
 けろっとした顔で背後に立っていた仁王は、にこ、と笑いながら桜乃の隣に移動する。
「そんな事で…」
「先生がちゃんと家に着くか心配じゃ、送っちゃる。今更ナニ言っても早退は早退じゃよ?」
「…もう」
 確かにその通りなのだが…もしかして相手は自分の為にこんなコトをしたのでは、と桜乃は不安になった。
「…私の所為かな…」
「俺の為じゃよ」
 即答して、仁王は桜乃と連れ立って歩き出した。
「…顔色、少しは良くなったようじゃの」
「そ、そうかな…でも確かに身体はちょっと楽になったよ? ありがと…仁王君のお陰…だね」
「…はは、そうか…なら、またしちゃるよ」
「うあ…そ、それはその…」
 さらりと大胆な事を言う生徒に女性教諭が押されていると、不意にその生徒の足が止まり、視線が一点へと向いた。
「…仁王君?」
「なぁ…ちょっとだけ…ちょっとだけ寄っていかんか? 先生」
 仁王が指差したのは、一軒のゲームセンターだった。
「ちょっと…早退してるんでしょ?」
「気分転換じゃよ、ほんのちょーっとでええから、な?」
「わ…」
 答える暇も与えてもらえず、桜乃は腕を取られてずんずんとゲームセンターの中へと連れ込まれてしまった。
 中に入ると、特徴的な電子音の波が一斉に襲ってくる。
 昼間なのに少しばかりの光源で薄暗い店内を、仁王は迷う事もなく桜乃と歩いてゆくと、店のかなり奥まったところに置いてあったUFOキャッチャーの前に来た。
 中にはアクセサリーやキーホルダー…様々な小物が入れられたプラスチックボールの山。
「あれ…? 仁王君、これ、苦手じゃなかったっけ?」
「ま、得意じゃないのう…けど、たまにはな……そうじゃ、先生」
「はい?」
 ケースの中のボールなどの位置を確認してから、仁王は相手を振り返って笑った。
「ただやるんもつまらん。ちょっと賭けをしてみんか?」
「賭け?」
「…俺が今からこれに一回チャレンジして、もし何かを取れたら、先生の部屋にあるものを一つ、交換せんか?」
「交換するの…? 何でもいいの?」
「そうじゃな…最初は俺に選択権をくれんか?」
「うーん……」
 暫く桜乃は考えたが、相手が苦手ということと、一回だけのチャレンジということで、その心意気を汲んで頷いた。
「いいよ?」
「よし、決まりじゃな」
 再び笑うと、彼はポケットから小銭を取り出し、指定の金額を入れ、ガーッと音を立てながらクレーンを動かしてゆく。
 一回だけのチャンスというのに、その動きには淀みも躊躇いもない。
(まぁ、彼にとってはキーホルダーとかぬいぐるみとか、あまり興味なさそうだもんね、負けてもそんなに痛手じゃないだろうし…でも何でこんな賭けを持ちかけたんだろ…)
 考えている間にも、クレーンは動き続け、いよいよ下へとアームを開きながら降りてゆく。
「…あっ!」
 思わず声が上がった…一個、ボールを掴んでクレーンが持ち上がってきた!
(わーっ! 凄い凄い! お、落ちないかなぁ!!)
 クレーンが持ち上がったら、後はもう自動で動くだけであり、二人が見つめる前で、クレーンは無事に途中で取り落とすこともなく、一個のボールを取り出し口まで運んでくれた。
「きゃあ、やったぁ!!」
「ま、上出来じゃの…さて」
 仁王が取り出し口からボールを持って、かぱりと開けてみると、そこから出てきたのはパワーストーンで作られた指輪だった。
「可愛い…指輪ね?」
 微笑む桜乃に、仁王は勝者の笑みを返しつつ言った。
「……さて、約束じゃな先生。コレと交換に一つだけ先生の家にあるもんを」
「…本当に不得意だったの?」
「さぁのー…ん? 先生なのに約束破るんか?」
「うっ…わ、分かってますよう、約束だもんね。でも、ウチに何があるかは知らないと思うから、今度リスト書いて…」
「そんな面倒は要らんよ?」
 即答した仁王は、そっと桜乃の左手を取り上げると、手にした指輪を嵌めた…
 薬指に。
「………え?」
 その意味を理解し、戸惑い、顔を上げた桜乃に、仁王が唇を歪めたままに顔を寄せた。
「約束通り、もらおうかの…先生」
「え…えええっ!?」
 どさっと手提げ鞄をその場に取り落としながら声を上げたが、場所が奥まった処で更に死角であることより、誰も二人の様子には気付かない。
「そ、それって、アリ!? ぬいぐるみとかじゃ…」
「先生の部屋にあるって条件だけを言うたじゃろ…? 別にぬいぐるみとか、一言も言うた覚えはないのう」
「詐欺師〜〜〜〜〜!」
「何を今更」
 奥まった場所故に、相手に道を塞がれたら、最早逃げ場は無い……
 追い詰められながら、桜乃は高鳴る動悸を覚え、持て余し、困惑していた。
(私…嫌がってない……確かに仁王君の事は嫌いじゃないし…手は掛かるけどずっと見ていて、優しい人だってことは、分かってた……嫌いじゃない…なら…?)
「先生」
 すぅと頬を優しく触れられ、びくんと身体を戦慄かせながら、桜乃は相手を見上げた。
 いつもの皮肉の笑みを消した、真剣な表情の彼がそこにいる。
「…俺は、今からお前さんにキスをする」
「っ!」
「…拒むんなら今からでもええし、キスした時に俺の唇、噛み千切ってくれても構わん…本望じゃよ。詐欺師の嘘かどうか…疑うも信じるもお前さん次第じゃ」
「そんな…っ」
 そんなの…ずるいよ…
 そんな真剣な目をして見つめてくる生徒を疑うなんて…教師失格じゃない…
 そんなに激しい想いをぶつけられて心を揺らさないなんて…女じゃ…ない…
「拒まんのか…?」
「……」
 ひそりと囁かれ、桜乃は答えに頬を染めながら伏目がちに頷く。
 見届けた仁王は微かに笑みを浮かべ、そして静かに優しく彼女の唇に己のそれを重ねた。
「…っ」
 瞬間、二人の聴覚が周囲の騒々しい音を一切遮断する。
 二人だけの、短い、閉ざされた完璧な世界だった。
 薄暗いゲームセンターの奥で、教師と生徒が口付けを交わしている背徳の瞬間を見る者は誰もいない。
「仁王…くん…」
「好きじゃよ…」
 甘い囁きを受けながら、桜乃は唇を離されると何を思ったか、口元を手で押さえて俯いてしまった。
 それを掴み、仁王は再びキスをしようと彼女を上向かせる。
「折角可愛い顔をしとるんじゃ…そう隠さんでもよかろ…?」
 強引な男に、ふるふると震えながら桜乃は小声で訴えた。
「だ、め…仁王君に…風邪、うつっちゃう…」
「!」
 こんなに可愛いことを言ってくれるのか…なら、ちゃんと答えてやらんとな…
「ああ、ええよ。全部、もらっちゃる」
 お前さんも、お前さんを苦しめる風邪も、全部……そしたら、治るじゃろ?
「んん…っ」

 そして、唇は再び、優しく、しかし激しく、塞がれた……






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