最初は、仮とは言え初めて恋人という存在を持って戸惑うばかりの桜乃だったが、時間が経過するにつれて徐々にその生活にも馴染んでいった。
 それは彼女のあまり過去に拘らない柔軟な思考と、相手の仁王の気遣いによるところも大きかったかもしれない。
 確かに、契約の通り、男はやましい目的で手を伸ばしてくることは無かったが、さりげない動作の中でごく自然に自分に触れてくる。
 頭を撫でてくれたり、肩を抱いたり、手を軽く握ったり…恋人同士ならごく普通にありうる動作で、それは周囲の人々を騙すに十分な説得力を持ち、慣れない桜乃をフォローすることにもなったのだ。
 その見えない庇護は桜乃にとっても心地良く、いつの間にか、仁王の傍は桜乃も心安らげるお気に入りの場所となっていた。
「桜乃、これからケーキ食べに行かない?」
「あ、ごめん、ちょっとこれから人に会う用事があって…」
 友人の誘いを講義終了後に断った桜乃は、いそいそと嬉しそうに外に出る準備を始める。
「ね、もしかして、あの銀髪の人に会いに行くの? 最近、桜乃の恋人って噂が流れてるけど」
「え!…」
 正に正解を言い当てられてしまった桜乃は、わたわたと明らかに狼狽し、相手に筒抜けとなってしまう。
「やっぱり……まぁ、恋愛は自由だけど、ちょっと気をつけた方がいいよ、あの人『詐欺師』って噂だから」
「…詐欺師?」
 初めて聞く男の評価に、部屋を出る準備をしていた桜乃の手が止まった。
「何だ、やっぱり知らなかったんだ。あの人って悪い人じゃないんだけど、よく他人を詐欺にかけるんだって。まぁ、犯罪みたいな詐欺じゃないけど、猫みたいに気まぐれで誰にも本心を見せないらしくて…そこがいいって女性もいるみたいだけどね。特に桜乃なんかは人を疑ったりしない分、騙されやすいかもしれないから、気をつけた方がいいよ」
「……」
 それから教室の外に出て、目的の場所に向かいながら、桜乃は友人の言葉を頭の中で繰り返していた。
(詐欺師…本心を見せない人…)
 言われてみると、思い当たる節は確かにある。
 今まで彼は、自分と仮の恋人同士になってから、本当に恋人そのものの態度で接してきていた。
 優しく笑ってくれて、自分が困っている時にはさり気なく助けてくれて…たまにからかったりされたけど、それすらも嬉しくなるぐらい、一緒いると楽しくて……
 これが本当に演技なのかと疑ってしまうくらい…でも、詐欺師の演技だったとしたなら、それも納得だ。
(そうだよね…最初に言われてたじゃない……恋人の『振り』をしてくれって)
 彼は一言も、『恋人になってくれ』だなんて、言ってない。
 自分も、それで良かったのに…良かった筈なのに…どうして今になって、ショックなんか受けてるんだろう……
(…全部…嘘だったのかな……そう言えば最初は、彼も振りをしているだけだって考えていたのに、私、いつの間にそれを忘れていたんだろう)
 いつから…あの笑顔が本気のものだって思うようになってしまったんだろう…振りである以上、それが真実のものである訳がないのに。
 私が恋人の振りをしている以上…
「…っ」
 ぴたりと足が止まる。
 一つの答えに思い至った時、桜乃は、見えない雷に打たれてしまった様に、動けなくなってしまった。
(…私が…あの人の仮の恋人である限り……私は、あの人の本当の笑顔を見る事は…出来ないんだ……)
 契約を結んだ時には、考えもしなかった。
 『本当に』好きになってしまった時、今の立場がどれだけ自分を苦しめるか、なんて…
 契約を解除するのは、互いのどちらかが本当の恋人を見つけた時…でも、彼本人にそんな事を言ってしまったら…

『ウザい』

 周りの女性達と同じ様に見られて…解約と同時に、もう、傍に寄ることすら叶わなくなる。
(何…これ…どっちにしろ、私、救われない)
 心を隠して付き合うにしても…心を明かして去られるとしても…心そのものは痛むばかりだ。
 詐欺に掛けられた人間が真実に気付いた時、こういう絶望を味わうのだろうか…
 仁王が、こうなる事を見越して、自分にあんな願いをしたとは思えない…彼はきっと、本当に他の女子から離れたいから自分に傍にいるように願ったのだろう。
 でも、今思えば、それは私ではなく、他の誰かに願ってくれた方が良かったのかもしれない。
 もっと、別の出会い方をしていたら、こんな…こんな辛い思いは…!
「竜崎?」
「!?」
 不意に背後から呼びかけられ、振り向くと…彼がいた。
 いつもの様に優しい…悲しいほどに優しい笑顔を浮かべた銀髪の詐欺師が。
「こっちの講義が先に終わったからの、迎えに来たんじゃ。もう午後は休講なんじゃろ? ちょっと街にでも遊びに行かんか?」
 普段と変わらない、恋人としての男の振る舞いの一つ一つが、桜乃の心を傷つけていった。
 ああ、本当に…詐欺師だ。
 こうして見ていると、本当に…本当に優しい恋人でいてくれるのに…でも、振り、なんだよね。
 私はそれに、これからも、付き合っていかないといけないのかな…もう、笑えない、のに…
「…? どうした? 竜崎」
 いつもなら嬉しそうにはしゃいで喜んでくれる筈の相手が、今日に限って何も言わずに俯いている姿に、仁王は不思議そうに顔を覗きこんだ。
「…っ…みません…におう、さん…」
「…竜崎?」
 真っ青になり、今にも泣き出しそうになりながらそれを必死に耐えている桜乃の様子を見て、男が両目を見開いて僅かに動揺する。
「どうしたんじゃ、気分でも…」
「…もう…ダメです」
「え…?」
「…もう…仁王さんの、恋人は…できません…から…他の、人を…」
「!?」
「ご…ごめんなさいっ!」
 明らかに表情が変わった相手をそれ以上見ることが出来ず、桜乃は踵を返して急いで立ち去ろうとした…が、
 ぐい…!
「っ!?」
 右腕を掴まれ、あっけなく逃走を封じられてしまうと、彼女はそのまま引き摺られるように、側の小会議室の中へと押し込まれてしまう。
 しんとした部屋の中は、誰もおらず、彼ら二人だけの空間となった。
 その廊下より冷えた空気を、更に冷えた口調の仁王の声が、刃のようにゆっくりと裂いてゆく。
「…勝手に解約されて、はいそうですか…なんて、聞き分けの良い男とでも思っとるんか? お前さん」
「に…おうさん…?」
 静かに話している様に見えて、明らかに心は荒ぶっているのが分かる…見方によっては振られた様なものなのだ、気分を害されるのは分かっていた。
 それでも、今の自分みたいな惨めな思いを抱き続けるよりはまし…もう、終わらせないと…
「解約するなら、相応の理由で俺を納得させてからじゃよ…するかせんかは俺次第じゃけどな」
「何度言われても…私には無理、なんです……どうか…他の人、を…」
 壁を背にしながら頑なに拒む桜乃の様子に、仁王は前に立ちながら渋い顔を背けつつ尋ねた。
「…他に、好きなヤツでも出来たんか?」
「……」
 もしそうだったら…どんなに楽だっただろう。
 まさか、その好きになった人が…目の前の貴方だなんて…仮の恋人として望まれたのに、それを踏み越えて本当の恋人にしてくれなど…最も彼が嫌う女の姿ではなかったか。
 だから、言えない……言いたくても、言えない…
 なのに貴方は、言えと言う…嫌いな女になれと言う…
 私は一体…どうしたら、この苦しみから抜け出せるのか……もし言ったら…
「…どうなんじゃ」
 答えない相手の腕を再び仁王が静かに掴んだ時、はっと桜乃の瞳が彼を捉えた。

『ウザいんじゃ、お前さん』

 責めるような彼の表情と声…妄想であったとしても、それは桜乃の意識を捕え、簡単にパニックへと陥らせてしまった。
「や…だっ…・いやっ…!!」
「竜崎!?」
 何かに激しく怯えるように慄き、逃れようと身体を捩る相手を、仁王の腕が力強く押さえ込む。
「いや! いやです、できません! 私、もう…っ! 忘れられていい、騙されていい、でも、嫌われるのだけは…っ…!!」
「おい! 落ち着かんか…っ!」
 逃げることも出来ず、振り解くことも叶わず、桜乃は仁王に諭されると、そのままずるりと壁を伝う様にその場にへたりこんだ。
「……竜崎?」
「…詐欺師でも…私は、貴方と一緒にいて…楽しかったから…」
「まだ認めてもおらんのに、勝手に過去形にされてものう…忘れるとか騙すとか嫌うとか…何なんじゃ、いきなりネガティブに突っ走りおってお前さんらしくもない…」
 取り敢えず少しは落ち着いたらしい相手の前に、同じ様によいしょと座り込んだ銀髪の若者は、手を伸ばしてぽんぽんと相手の頭を優しく撫でる。
 それはまるで幼い子供をあやす仕草にも似て、見えない優しさに満ちていた。
「仁王、さんが欲しかったのは……仮の恋人…だったんでしょう…?」
「ん…?」
 不意の問い掛けに、仁王は戸惑ったのか、それとも答えを持っていなかったのか、明らかな返答はしないまま首を傾げる。
「恋愛感情がなくて、面倒じゃなくて、ただ、女の人達を避ける為に付き合ってくれる…そんな人が…欲しいんでしょう…?」
「!…」
「…だからもうダメ…私はもう仁王さんの期待には応えられない……あなたが好きになっ…」
「竜崎…」
 膝を抱え、顔を伏せ、桜乃は堪えきれずに泣き出してしまう。
「あなたが詐欺師でもそんなの関係なかった…騙されてたとしても、それでも……私の事なんかもう忘れて下さい、捨てて下さい、絶対に近づいたりもしませんから……だから、嫌いにだけは…」
「……」
 泣きながら懇願する桜乃の前で、暫く無言のままだった仁王は、やがてはぁ、とため息をつくと、ぼそりと苦い声で呟いた。
「そりゃあ……確かに解約ものじゃの」
 それは、二人を繋いでいた関係の終焉を意味する言葉だった。
 覚悟はしていたが、本人から言われるとやはり辛い…しかし、既にもうこれだけ泣いて恥を晒しているのだから、下手に気を遣われるよりは良かったのかもしれない。
「…ごめんなさい…」
「何を謝っとる。解約はするが、お前さんはこれからも俺の傍におるんじゃ」
「え…」
 何を言っているのか、と顔を上げた桜乃の動作を読んでいたとばかりに、仁王は彼女に顔を寄せて禁じられていた行為を行った。
 キスを。
「…っ!!」
 顔を背けようとした娘の顔を己の手で押さえて動きを封じ、完全に主導権を握った詐欺師は、キスをしつつ唇を歪め、ゆっくりとその味を堪能する。
「に…おう、さ…っ…」
「仮の恋人では禁忌じゃが…本当の恋人ならこれぐらい当然じゃろ?」
「本当…?」
 本当の恋人…って…どうして、いつの間に、そんな事に…
 落ち着いて考えたいのに、交わしたばかりのキスがあまりに衝撃的で、思考の全てを妨げてしまっている…いや、きっとキスだけでなく、自分を抱き締めている彼の腕もまた同じ様に…
「…上手くいかんもんじゃな……ただ、お前さんに好きと言わせる筈が、泣かせてしまうとは」
「…?」
「なぁ、竜崎」
 囁きにも近い小さな声で、仁王は桜乃の耳元で告白する。
「俺は、少なくともお前さんの前では下らん作り笑いをした覚えはないぜよ…お前さんを利用しようと思ったこともな…全ては狂言」
「…狂言?」
「俺に女を寄らせん為じゃない……お前さんに男を寄らせん為よ…それは上手くいったがの」
「…意味が…」
「一人の詐欺師が恋をして…捕えるために詐欺に掛け…彼女はようやく腕の中」
 美しい獲物を捕えたとばかりに、男は桜乃を抱き締めながら、再び顔を寄せた。
「やっと心を捕まえた…好きな女に限って身持ちが固いんじゃからのう…お預け食らっとった分、しっかり構ってもらおうか…」
 ようやく相手の意図するところが分かってきた桜乃だったが、今度はその事実を信じることが出来ず、まだうろたえるばかり。
「い、つからそんな……」
「さぁの…最初はおさげが気になって…見とるうちに、かの…侮らん方がええよ、竜崎。お前さんが思っとる以上に、俺はお前さんを見てきたんじゃから」
「ん…っ!」
 再び唇を重ねた仁王は、唇だけに留まらず、彼女の肌の至る所にキスを繰り返す。
 楽しんでいるのか…それとも焦がれているのか…それすらも詐欺師は明らかにしない。
 ただ、その瞳の奥に光る感情が、爛々と輝いていることだけは確かだった。
「仁王…さんっ…もっ…」
「俺にお預け食らわせたんはお前さんじゃろ? 俺はまだ…全然足りんよ?」
 だから…離さない…
「ん、あ…」
 滑らかな舌で桜乃の頬に残った悲しみの跡を拭い取り、しかしそれでも足りないと、耳朶からゆっくりと下へと唇を滑らせ、白く滑らかな首筋へと触れさせる。
「誰か…来たら…っ」
「誰も来んよ…誰も見ちゃおらん、俺以外は、の…じゃから、遠慮は要らんよ?」
 含み笑いを零しつつ、微かな桜乃の香りを楽しみながら首筋へとキスを落とし、顔を上げると、真っ赤になりながら拗ねた表情でこちらを見つめてくる桜乃の視線があった。
「もっ…知らない…っ」
「はは…ようやくお前さんらしくなったの…それでええよ」
 泣かれるよりも、まだ怒られた方が安心出来る…
 にこりと微笑む仁王の表情…
 それは桜乃にとって、非常に見覚えのあるものだった。
 いつもと同じ笑顔…仮の恋人として付き合っていた時にも、彼は同じ様に笑っていた…
(…嘘じゃ、なかったんだ……)
 彼はちゃんと…本気で笑ってくれてたんだ…
「……」
 今の気持ちを伝えるにはどうしたらいいのか分からず、桜乃はただ、腕を伸ばし、ぎゅ、と仁王を抱き締める。
「竜崎…?」
「……」
 何も言わず、ただ、抱き締める腕に力を込めて…
 その気持ちが腕を伝い、彼の心に届けられたのかは分からない、が、仁王は確かに笑った。
 満ち足りた、幸せそうな笑顔で…
「…大好き、じゃよ…」
 だから、忘れたりせん…騙すのは…たまにはアリか?
 嫌いには…なれる訳もなさそうじゃし…
(…しかし、俺が他人にここまで夢中になるとはの…)
 信じられんが、まぁ、この子ならいいか…
 ようやく望みの相手を手に入れられた悦びをこっそりと噛み締めながら、仁王は、優しい腕で桜乃の身体をそっと抱き締め返していた……






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