しかし約三十分後…
「ううう…気になって眠れない〜〜〜」
 必死に眠ろうと努力はしたのだが、どうしても目の前にナイフと仁王の顔がちらついて眠りの邪魔をする。
(どうしてこんなに小心者なのかなぁ…)
 ぐすんと己の気性を嘆きながら、少女は再びベッドから起き出し、手持ちの懐中電灯を持った。
 彼は起きているだろうか…それとも眠ってしまっているだろうか…
 分からないけど…ちょっと行くだけ行ってみよう。
 もし起きていたらそのまま返せるし、眠っていたら、それはそれで明日返す理由にもなるから、自分も心おきなく眠れるだろう。
「うわ…暗い…」
 扉を開いてみると、予想以上の漆黒が目の前に広がっていた。
 月夜だけど…一人だとこんなに暗く感じるものなんだ…
(広場に大勢いる時は明るいのに…あ、焚き火をしているからかもしれないけど…と、とにかく早く行って、早く戻ろう…!!)
 懐中電灯を自身の守り神にして、桜乃はパジャマ姿のままで仁王がいるコテージへと向かった。
 暗いのに…いや、暗いから、その分聴覚が鋭敏になって、耳に様々な音が飛び込んできた。
 あれは木の葉擦れの音…今のは、鳥の声? それとも何か獣の足音…?
(うああああ、恐い恐い恐い〜〜〜〜っ!!)
 必死に足元を電灯で照らしながら、桜乃は仁王の居場所へと急いだ。
(ああ…やっと着いた……でも、もうランプ、消えてる…)
 外に下げられているランプが消されているということは、もう中の人達は就寝している可能性が高い。
「…あれ?」
 ふと、電灯で照らした先…コテージの窓が揺れているのを見つけて、少女はそちらへと足を向けた。
 窓が開いている…その開かれた扉が、風の煽りを受けてゆらゆらと揺れていた。
(そう言えば、仁王さん、寝る時に窓開けて寝るって言ってた…)
 ちょっと…と言うか、かなり無用心な気もするけど…男の人だからかなぁ…
 取り敢えず、窓の処に来た桜乃は、すぐに中にいる人達がもう眠っているのだと確信した。
 真っ暗だ…部屋の中には誰の声もなく、灯りもない…
(ああ、やっぱり眠ってるのかな…ちょっと残念…)
 コテージの窓は比較的低い位置に取り付けられており、桜乃でも少し爪先立ちをしたら中の様子が十分に伺える程だった。
 灯りで相手を起こさないように、電灯の明かりを消して、桜乃はこそっと部屋の中を覗いてみた。
 電灯の灯りに慣れていた瞳も、暫くすると月光と星の明りに助けられ、闇と少しだけ親しくなれる。
(…あ)
 心の中で声が上がった。
(仁王さんだ…)
 コテージの窓の傍のベッドで、彼の人が安らかに眠っていた。
 その美しい銀髪が、月光に映え、桜乃にその居場所を教えてくれた。
(うわあぁぁ……仁王さんの寝顔…綺麗…)
 男の人にそんな事言ったら失礼なのかな…でも、何だか目を逸らせない程に綺麗で、見蕩れてしまう…
(ちょっと意地悪な時もあるけど…こうして見ていると本当に優しそうな人…)
 何故か、どきどきする…
 同年代の男の人の寝顔なんて、初めて見るからかなぁ…ううん、多分それだけじゃない。
(……遭難はしたけど、この人とお話出来る機会を持てたのは良かったな…)
 そして欲を言えば…もう少し…この人に近づきたい…
 親しく話すようになって、まだ数日しか経っていないのに、おかしいね…
「好きになっちゃった、のかな……私の気持ちなんて、届く訳もないのに」
 そもそも学校も違うし…やはり互いを知るには時間が短すぎる…
 つい、口に出して言ってしまった…聞こえない程度に小さな声だったが。
 そんな呟きの後、そこで少女はようやくここに来た本来の目的を思い出した。
「いけない…ええと…」
 相手は眠っていたが、幸い窓の傍にテーブルがあった。
 何とか手を伸ばせば届きそうだ。
 桜乃は手にしていたナイフを、テーブルの上へと差出して、ゆっくりと音を立てないように置いて、腕だけをそっと引き戻した。
 聞こえないだろうけど…明日、改めてお礼を言おう…
『…有難うございました、仁王さん…お休みなさい…』
 ひそっと小声で眠っている男に呼びかけ、少女はくるりと踵を返して元来た道を再び辿って行った。

 懐中電灯を灯して、小路を行く間にも、桜乃の脳裏には見たばかりの仁王の寝顔ばかりが浮かんでいた。
(わー…どうしよう…さっきから仁王さんの顔が浮かんで消えない…)
 でも帰ったら眠らなきゃ…寝坊なんて出来ないし、急いで…
 ぱたぱたぱた…
 たったった…
(……え?)
 何…?
 今、自分の足音以外の何かが…聞こえた気がするんだけど…後ろから…
 どうしよう…振り返ってみるべきなんだろうけど…恐い…!!
 ぽんっ!!
「きっ…!!」
 徐に背後から手を肩に置かれ、びくっと肩を竦めながら引きつった声を上げてしまった桜乃だったが…
「今晩は…可愛い泥棒さんじゃの?」
「え…」
 続けて掛けられた言葉…その声に自分の耳が馴染んでいる事実に気付いて振り返ると、鮮やかな銀の彩が桜乃の瞳に飛び込んできた。
 まるで、月がこの場に降りてきた様な眩さ…
「に…仁王さん!?」
 間違いなく…彼だった。
 先程まで眠っていたとは思えない程にその瞳ははっきりと開かれ、こちらを見下ろしている。
「外で何か音がしたから盗人かと思ったが、まさかお前さんじゃったとはのう…女が一人でこんな夜更けに出歩いたら駄目じゃよ?」
「ご、ごめんなさい!…起こして、しまったんですか…?」
 ぺこっと頭を深く下げる少女に、若者はいや、と軽く首を横に振りながら笑った。
「俺は元々、気配がしたら自然と気付いてしまう方なんじゃよ、お前さんが故意に起こしたとは思っとらん」
「…そう…でしたか……あ、あの、仁王さん、私…テーブルに…」
「ああ、ナイフじゃろ? ちゃんと受け取った。明日でも良かったのに、わざわざ届けてくれたんか…?」
「はい…お休みのところ、邪魔したら悪いかとも思ったんですけど…どうしても気になってしまって…」
 口元に軽く握った拳を当て、憂いの表情で俯く桜乃の姿を、仁王は薄い笑みを浮かべたままに、しかし決して瞳を逸らすことなく一心に見つめ続けている。
 夜、月光の下、パジャマ姿で髪を解いた姿の少女……
 月に映える白い肌と細い身体…ほっそりとした首筋が、あまりにも艶かしい。
 不埒な話だが…もしあの時、桜乃が間違って部屋の中に踏み込んでいたら…同室の者がいたとしても、自分はあらゆる手管を使ってでも彼女を相手のコテージには帰さなかったかもしれない…本当に、危なかった。
 いや…そういう意味での危険は、まだここで続いているのだが…
「あの…仁王、さん…?」
「!…ん?」
 呼びかけられ、はっと我に返った若者は、何事も無かったようにお得意の詐欺師の笑みで返す。
「仁王さんは、どうしてこちらに…?」
「どうしてって…お前さん一人じゃ危険じゃからの、コテージまで送ってやろうと思ったんよ」
 それは嘘ではない。
 しかし相手は男の好意に、却ってわたわたと慌て出した。
「えっ…で、でも、大丈夫ですよ! 後はもう一本道ですし、そのまま行けば…」
「そんな格好で出歩いて、襲われても知らんよ?…道を歩いとるのが、生きとる人間ばかりとも限らんし…」
「っ!!」
 その時、ようやく桜乃は自分の格好に気が付いてパニックになり、男の最後の意地悪な忠告で、更にそのパニックに拍車がかかる。
「ここ、この格好はそのっ…そ、そそそ、そんな…ゆゆゆ、ユーレイなんてっ…」
「わっ!!」
「きゃあああああああっ!!!!」
 突然の仁王の大声に、思わず桜乃は相手にひしっとしがみ付いてしまった。
 無論、相手の作戦である。
「よーしよーし、いい子じゃの」
「!!」
 パジャマ越しに、少女の柔らかな身体の感触を楽しみながら、詐欺師はくすくすと笑いながら相手の頭を優しく撫でる。
「仁王さ〜〜〜〜ん…!」
 非難するように拗ねた瞳を桜乃が向けると、仁王はさわ…と相手の頬を優しく撫でた。
「っ…」
 乙女がぞくんと不思議な戦慄を感じている間に、男は笑って素直に詫びる。
「はは、すまん…じゃが、やはりお前さん一人を行かせるのは不安なんじゃよ。お詫びも兼ねて、ボディーガードさせてもらえんか?…添い寝までやるとは言わん」
「ひっぱたきますよ」
(言わなくて正解じゃったな…)
 水面下での攻防はともかくとして、桜乃は相手の希望を仕方なく受け入れた。
 確かに、仁王の言う事も一理あるし…悔しいが、彼の先程の一言で、この暗闇が更に恐くなってしまったのだ。
「じ、じゃあ…コテージまで、お願いします」
「ああ…じゃあ、懐中電灯を貸してみんしゃい、俺が照らそう」
「あ、はい…」
 言われるとおりに電灯を渡すと…彼はそれを受け取りながら別の手で自分の手を握ってきた。
「!?」
「転ばんように、しっかり握っとるんじゃよ?」
「は…はい…」
 びっくりした…ちょっとだけ期待してしまった自分がいたけど…
 でも、こうしてくれるって事は、それだけ私を心配してくれてるってコトだよね…
(あったかい手だなぁ……わ、私の動悸…バレないよね…)
 胸を高鳴らせたままに、桜乃は仁王に連れられて、コテージへと向かった。
 一人でここを来た時にはあんなに恐かったのに…今は不思議な程に安心している。
 きっと、何かが起こった時にはこの人が助けてくれる…根拠は無いけど、そんな絶対の信頼があった。
「…空、綺麗ですね…」
 何となく間が持たなくて、桜乃が仁王に話しかける。
「そうじゃの…なかなか都会ではこれ程のモノは見られん…そう考えると、ここにいるのも一つの贅沢じゃな」
「ええ……でも上を見上げるとあんなに明るいのに、やっぱり道は暗いんですね。懐中電灯が無かったら前に進むのも難しいです…」
「……恐いか?」
 優しい仁王の声が尋ねてきた…ほんの少しだけ、自分の手を握る力を強めながら…
「…えへ、今は平気ですよ…仁王さんがいますもん」
 そして桜乃は笑って答えた…同じ様に力をほんの少し込めて……
 それからは二人、何を話すことも無く、無事に彼女のコテージの前に着いた。
 もう少しだけ、遠くても良かったのに…なんて思うのは勝手だろうか…
 己の心の浅ましさを恥じるように、桜乃は自嘲の笑みを浮かべ、それを相手に見られないようにお辞儀をした。
「有難うございました、仁王さん…」
「おう…まぁ、これで俺も安心じゃ」
「却ってお手間を取らせてしまって……あ、懐中電灯はどうかそのまま持って行って下さい。本当にそれがないと真っ暗で…」
 ふ…っと、言っている傍から周囲が漆黒に包まれる。
 仁王の持つ懐中電灯の明りが、突然消えたのだ。
「あ、あれっ?…電池切れ、ですか…?」
 こんな所で明りを消す理由がないと思った桜乃は、素直にそんな可能性を考えた。
 どうしよう、さっきまで電灯の明りを見ていたから、まだ闇に目が慣れなくて何も見えない…
 今、目の前にいる筈の若者の姿も、何も…
 さわ…
「っ…!?」
 闇の中から、誰かの手が伸びて自分の頬に触れた…また、仁王さん…?
「…え?」
 ちゅ…っ
 耳元で、小さな音がした…と同時に、その音が聞こえた方の頬に柔らかな何かが…掌ではない何かが優しく押し当てられた…
 仁王さんの息遣いがこんなに近く…吐息が髪を揺らす程近くに…
 これって…今のって…見えなかったけど…
「に、おう…さん…?」
『気持ちは…ちゃんと届いとるよ…?』
「え…」
 密やかな囁きの後で、また、そっと頬に何かが触れる…あくまでも優しく…秘密が外に零れないように…
『お休み、桜乃……良い夢を見んしゃい』
「あ…」
 誰にも見せない…お前以外には…この心の内を。
 無言の宣誓をそこに残して、仁王はその場を後にした。
 消した電灯を再び灯し、すたすたと難なく歩いてゆく。
 そしてコテージの入り口では、中に入ることも忘れ、桜乃がそんな彼の足音を遠く聞いていた。
 段々遠ざかる男の足音…なのに、胸の動悸は治まらない…
「嘘…仁王、さん…」
 さっきのって…貴方の、唇、だったんじゃないですか…?
 そんな事をするって…あんな言葉を残すって……
「そんな…そんな事されたら……私…」
 期待しちゃいます…よ…?
 闇の中に隠れた真っ赤な顔を覆って、乙女は初めて感じる恋の細波に身を震わせる。
 想い人の髪の彩と同じ光を宿した月が、静かに、いつまでも見守っていた……






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