夢の約定
不思議な夢を見ていた様な気がする
どんな夢かはよく覚えていないけど、何かを問われ、何かを答えた
今の己の姿は、その夢の名残なのだろうか…?
「ほほ〜〜…」
或る日の朝、立海の中学三年生であり男子テニス部レギュラーでもある仁王雅治は、起床して洗面台の前でじっと鏡を覗き込んでいた。
いつもなら変わり映えのない己の顔を洗った後で、手早く髪をまとめてゴムで括るところが、今日は鏡の前で過ごす時間がやけに長い。
「こりゃあ面白いのう、一体何がどうしたんか…」
利き腕でもある左腕を上げると、ひらっとパジャマの袖が派手に揺れる。
腕の長さとパジャマの袖の長さが明らかに合っておらず、そのアンバランスさは腕のみに留まらず全身に及んでいた。
幼い。
身体全体が幼少化し、顔も昨日の自分のものと比べて童顔になってしまっているのだ。
まぁ幼稚園児とまでは流石にいかないが、普段彼を見ている人間であれば、一見してその違和感には気付いてしまうだろう。
しかし、普通人間が一日で若返るなどあり得ない。
通常であれば軽くパニックを起こしてもおかしくない状況に放り込まれながらも、仁王は寧ろ面白そうにまじまじと自分の顔を覗き込んでいた。
「うーん…この背じゃと一年ぐらいの頃の俺かのう…いずれにしろ、このまま外に出て知り合いにでも会おうもんなら良い見世物じゃな、ふーん…」
どうしようか、と一時黙考に入ったが、それも長くは続かずに、彼は取り敢えずばしゃばしゃと顔を洗うと、そのまま自室へと引っ込んだ。
「えーっと、この身長じゃとまぁ妥当なんは…」
ばさっと纏っていたパジャマをベッド上に脱ぎ捨てると、仁王は制服ではなく私服を着込み、余った袖や裾を上手く折り曲げるなどして誤魔化す作業に掛かった。
制服であれば余剰な部分が嫌でも目につくが、私服である場合はそれもまたファッションの一つとして騙すコトが可能だ。
詐欺師の異名を持つ彼にとって、それはあまりにも簡単なことだった。
「あーあ、今日が休みで本当に良かったぜよ。明日からの事はまぁ今日の内にゆっくり考えるとするかの…」
ゆっくり考えようという思考が、既に常人のそれではない。
或る程度服の誤魔化しが終われば、今度はテーブルに置いたスタンドミラーを覗き込んで再び幼い自分と対面する。
「ん〜〜〜、俺のままでも柳生に変わっても、知っとる奴が見たら一発じゃな……ま、滅多にない機会じゃ、滅多にせんコトでもしてみるか…」
そう言うと、仁王は鏡の中の自分と視線を合わせ…にやっと意味深に微笑んでいた。
「いってきまーす」
それから三十分もしない内に、仁王は家を出て道路をのんびりと歩き出していた。
しかし、容姿は明らかに彼のものとは違う。
髪はくしゃくしゃのくせっ毛でしかも黒髪短髪、大きな瞳が生意気さを表しており、きょろきょろと辺りを時折見回す仕草には、落ち着きのなさが滲んでいた。
その姿の本来の持ち主である、二年生の切原赤也その人の様に…
(んー、身長が縮むっていうんもなかなか新鮮な感覚じゃのう、高く見せる技術なら幾らでもあるが、縮ませるのはなかなか、のう…ま、この際楽しませてもらおうか)
確かに、普段、ほぼ同じ体格の柳生比呂志の姿を真似る事はよくあるのだが、後輩であり自分より一回り小柄である切原の真似はあまりする事はない。
今日の様に身長が丁度彼と同程度になっていたら、化けても違和感はかなり誤魔化されるということもあり、仁王は今日は一日切原として過ごすことに決めた様だ。
身長はほぼ同じ、容貌の変装も完璧、言葉遣いや声音にもかなり自信はある。
あの副部長であっても、騙し切れる…と、仁王は内心密かな自信を持っていた。
(…が、わざわざ堅物の顔を見に行く程酔狂でもないんじゃよ)
全くの別人となって、行きつけてない場所を巡るのも、仁王の楽しみの一つだった。
そこで自分という存在を完全に隠し、代わりに別人が生きる人生を描くキャンパスの上を歩いて行く。
ほんの一日足らずの短い時間においてのみ輝く絵だ。
仁王ではない別人が、仁王という男の思うままにそのキャンパスの中に軌跡を描いていく。
操り糸を繰りながら、詐欺師は演じる。
自分以外の全ての人間達を観客に見立て、最後まで優雅に自分以外の世界を騙しきって見せるのだ。
この楽しみは、欺く喜びを知ってしまった自分にしか理解されないだろう。
その事実が、己の中でしか知られないささやかな秘密であったとしても…
(ここまで来たら、赤也の奴と鉢合わせるコトもないじゃろうな)
如何に詐欺の腕に長けていようと、やはり本物と出くわしたら始末が悪い。
相手に双子の兄弟でもいるというのなら咄嗟に片割れを騙る事も出来ようが、まぁそんな幸運はそうそう世間には転がってはいない。
元々あの二年生エースには双子の兄弟など存在すらしていないのだし。
仁王でありながら立ち居振る舞いは完全に二年生の後輩である若者は、ひょいひょいと足取りも軽く、電車から降りて久し振りの都内の喧騒を楽しんでいた。
(い〜い天気じゃのう、地下に潜ってぶらつくか)
早速思考がやや不健康な方面に向いてしまっている様だが…
「ここからなら、あの地下道から降りたら一番近いか…」
極力日光を浴びまいとするのは最早彼の習性なのか、若者は予め定めた道順を辿り、目的の地下道の入り口へと向かった。
人通りの多い道を歩いて見えてきた地下街への入り口は、向こうを向く形にあり、降りるにはそこで百八十度の転換が必要だ。
別にさして労力も必要なく、彼は入り口近くまで来たところで、ぐるりと身体の向きを変え、そのまま地下へと続く階段を下りようとした。
その時だった。
どんっ…
「え…」
「きゃ…っ」
仁王が切原の顔で驚くその視界の先で、一人の人間が身体のバランスを崩し、ふらりと宙を舞う。
彼にぶつかった拍子で、駆け上がろうとしていた階段から足を踏み外してしまったのだ。
舞う身体はとても細く小さなものだったが、だからと言って落ちた後での身の安全など保証される訳がない。
続く階段の踊り場まで高さは裕に数メートル…頭から落ちたら無論、無傷では済まない。
「…っと!」
思わず左手を差し伸べながら、仁王は視神経に飛び込んできた、もう一つの『情報』に戸惑いを覚えていた。
何だ、この既視感…
戸惑いながらも、今は相手の救出が先だと神経を集中し、彼はかろうじて相手が落下する前に何とか身体を抱き止め、そのまま屈み込んだ自分の胸の中に相手を押し抱く。
何故、自分がそこまで過剰に相手を守ったのか、その時の男は分からなかった。
一歩間違えたら、一歩遅れたら大事故に繋がりかねないハプニングだったが、何とかそれを未遂に留め、周囲の人々の視線を受けながら仁王は相手の顔を覗きこんだ。
「わ、悪い…っ!」
どんな場合であっても、詐欺師は素顔を晒してはならない…
相手を気遣う言葉は正に切原のそれそのものだったが、その姿を改めて確認した時、仁王は先程感じていた既視感の正体を知り、思わず被っていた仮面を外しそうになってしまった。
(りゅうざ…きっ!?)
「あ…」
竜崎桜乃…立海ではなく、青学の一年生の女子だ。
しかし、学校は違えども、実は彼女は仁王にとって最も気になる人物であった。
素直で優しいそれだけではない、意外なところではガッツを見せる少女は、仁王の興味を引き、徐々に徐々に二人の距離を縮めていくことになった。
恋仲という程のものではないが、メンバーの中では最も彼女に近い位置にいるだろうというのが仁王の自負である。
そんな相手とのいきなりの出会いに内心は驚きながらも、詐欺師は正体を伏せたまま、切原としての行動を守り通した。
「あれ? 竜崎じゃんか」
「え…あ、切原さん」
男の腕に守られたままだった少女は、相手を見上げて酷く驚いた様子だったが、すぐに彼の名前を呼んだ…正しくは男が化けている人物の名前を。
「びっくりしたぜ、アンタがここにいるなんて…」
「そ…それは切原さんもですよ、今日は東京にお出かけだったんですか?」
「ん…まぁ、な」
そこは上手く誤魔化しながら、仁王は切原本人に負けず劣らずのお気楽モードで、さり気なく質問を返していく。
「アンタこそ、ここで何してんの? 買い物?」
「いえ、特に何かを買うつもりはないんですけど…いい天気ですからちょっと街を見て回ろうかなって」
「一人で? 友達いないの?」
さらっと言われた台詞に、桜乃は胸を張って少しだけ不満そうに言い返す。
「むっ、そーゆーワケじゃないですよだ。切原さんだって、見たところ一人みたいですけど?」
「人間は一人で生まれて一人で死ぬもんなんだよ」
「一卵性双生児の場合は?」
「そういうツッコミはナシで」
「うふふふ」
言い合いも長くは続かず、切原の仮面を被った仁王は、さらりと桜乃にある提案をした。
「んじゃさ、独り者同士でちっと一緒に回ってみない?」
「はい?」
「嫌なら別に無理強いはしないけどさ、互いに暇ならって思って…どお?」
にっと笑う笑顔は、まさしく立海二年生エースのそれ。
完全に後輩の姿を模倣して桜乃を誘った仁王は、断られるのを覚悟で尋ねていた。
ここで断られたとしても、自分の今の姿が切原である以上、彼が断られたということになる。
逆に桜乃が申し出を受け入れたとしても、彼女の心は自分…仁王に向いているという自信がある以上、気を揉む必要はないのだ。
(上手くいけば、俺の普段見とらん顔を見ることが出来るかもしれんしのう…出来れば引き受けてほしいもんじゃが…)
さて、どうなるだろう…?
「うう、ん…」
右の人差し指を唇に当てながら、桜乃は少しだけ何かを考えている素振りを見せていたが、その指がゆっくり下ろされたところで彼女の首は縦に振られた。
明らかに分かる「受諾」という意味のジェスチャー。
「あの…私なんかで良いんですか?」
「ああ、そう構えなくてもいいって」
「は、はい…じゃあ、その…お願いします」
正式に言葉でも受諾した意志を伝えた桜乃は、微かに頬を赤らめて改めて頷き、偽切原へと一歩を進めた。
少しだけ縮まる距離、その分、相手の表情がより明らかになる。
これまでも、遠くても近くても、少女の表情には目を惹き付けられたものだ。
そして今も、仁王は彼女の表情の変化をじっと凝視していた。
但し。
いつものゆとりのある心情においてではなく、いやに不安を煽られたような…そんな心許ない感情を持て余しながら。
(…何じゃ…? 今の表情は…)
いつもの…他の立海メンバーに対しての表情じゃない…
俺でもあまり見た事が無い様な笑顔を、こいつ(切原)に見せたのは、何の理由があってのことだ…?
(まさか、な…)
ある訳がない、今、己の脳裏に過ぎった不安など……
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