悪魔と遊園地


「お早うございます、仁王さん」
「ああ、お早うさん、桜乃」
 或る晴れた日曜日、青学の中学一年生である竜崎桜乃は、他校の生徒である若者と少し離れた場所の遊園地で待ち合わせていた。
 いつもなら、テニスコートで出会うことの多い二人だが、今日は違う。
 桜乃の前に立った若者は、銀の髪を風に揺らしつつ、優しい笑みを少女に向けていた。
 彼の名前は仁王雅治。
 中学テニス界で王者と称えられる立海大附属中学の男子テニス部においても、最も恐るべき男とされている。
 生まれ持った才能を如何なく発揮し、コートに於いて人を欺き、翻弄する冷酷な姿に付けられた仇名が、『コート上の詐欺師』。
 齢十代にして大人顔負けの人を操る能力を備えている男だったが、最近、彼は人を欺く以外の楽しみを見つけていた。
「ん、今日も可愛いのう。服もよく似合っとる」
「そ、そんな…褒め過ぎ…です、よ」
 その楽しみというのが、目の前に立つ少女…竜崎桜乃だった。
 繰り返すが、仁王にとっての彼女は『人を欺く』以外の楽しみである。
 だから、欺くという行為を求めて、若者は相手と会うのではない、語るのでもない。
 他人には決して明かさないが、仁王はこの桜乃という娘がどうしようもない程に好きなのだ。
 本当に、どうしようもなかった。
 自分の気持ちに気付いた時には、最早手の施しようがなかった。
 日々想いは募り、欺くことすら困難になり、仁王はその時初めて、世の中に自分でもままならぬものがあると知ったのだ。
 止めたくても止められない想いならば、止めようと思ったところで無駄なコト。
 それならいっそ、と仁王は桜乃に想いを打ち明けた。
 無駄なら、突っ走るだけ突っ走って、最後に壊れたらいいだけの話。
 決めた後は、寧ろ心は楽だった。
 しかし、手を伸ばした宝玉は、一際美しい輝きを放つと、そんな彼の手の中にころんと転がり込んできたのだった。
『…私なんかで、いいのなら…』
 そんな言葉と、頬を染めて微笑む姿で。
 まるで自分が輝く宝石ではなく、そこらの石ころであると思い違えている様にあっけなく、こちらが逆に戸惑う程だった。
 兎にも角にも、晴れて二人は世間で言う恋人という立場になったのだが、それで落ち着くと思っていた仁王の心は、今もまだ一向に止まる様子はない。
(寧ろ、酷くなっとるんじゃよなぁ…ああ、完全に誤算じゃよ)
 最近はもう止めようとする努力すら面倒になってきた…と言うよりも、そんな自分の心すら心地いい。
 今も、酷く恥ずかしそうにしながら、でも少しだけ嬉しそうに微笑む目の前の娘が、とにかく可愛くて仕方ない。
 まさかここまで、自分が一人の女性にメロメロにさせられるとは思っていなかった。
「そう照れんでもええじゃろ、本当の事なんじゃし」
「も、もう…」
 これもかなり恥ずかしい言葉には違いないのだろうが、別に嘘ではないし、その言葉一つでこの子の可愛い照れ顔が見られるのなら安いものだ。
 もっとずっとこの顔を見つめていたい気もするが、今日はこんな場所に来た以上は、やはり場所に合った楽しみ方をしなければ。
「…ま、ここでずーっと突っ立っとってもつまらんの…ほら」
「!」
 相手のぞんざいな右腕の上げ方に特別な意志を感じ取った桜乃は、まだ頬を赤らめたまま、しかし相手の意志を汲んでその腕に縋る。
「い、いいですか?」
「ん」
 律儀に確認してくる少女にくす、と笑いながら、仁王は一歩を踏み出す。
「…あのう」
「ん? 何じゃ?」
 腕に縋って一緒に歩き出した桜乃の遠慮がちな声に、仁王がそちらへと顔を向けると、見上げてきている彼女と目が合った。
「…仁王さんと一緒なら、私、何処でも楽しいですよ」
「っ!!」
 桜乃は普段は非常におっとりとした、どちらかと言うとドジっ子の部類に入る。
 しかし、時に…本当にたまにという話だが、彼女は詐欺師の心を貫くような言葉を投げかけてくる事がある。
 厄介なのは、それに『痛み』が伴わないということ。
 もし、心に痛みを与えてくれるものであるのなら、こちらも痛みに対して何らかの反応を返すことが出来た。
 特に痛みに対しては、自慢ではないが自分は非常に慣れている。
 ところが、桜乃が投げかけてくる言葉にはそれがないのだった。
 痛みではない…ただ、凄い衝撃が胸の奥底にまで届いたかと思うと、ほわんと心を包まれるような柔らかな何かを感じる。
 これまでの人生でそんな経験などなかった仁王には、どうしていいのか分からず、どんな顔をしていいのか分からず、毎回難儀させられているのだ。
「…単純」
「えーっ!?」
 だからつい、こんなぞんざいな返答になったりもする。
「はは…まぁ、何でも素直に喜べるんはいいことじゃな。けど今日は折角のデートじゃろ? 立っとるだけじゃあつまらん」
 そして、困らせてくれた仕返しとばかりに、徐に少女の耳元に唇を寄せて囁いてみる。
『俺は、お前さんの可愛い顔をたーくさん見たいんじゃがのう…?』
「っ!!」
 効果覿面。
 真っ赤になった桜乃が声も出せなくなり、う〜っと恨めしそうにこちらを見上げてくる顔を見て、仁王は満足げに笑いながらくい、と掴まらせている腕を軽く引いた。
「そうそう…傍におらんと見えんしなー」
 そして二人は、遊園地に入園し、人ごみの中に紛れていった。


 快晴の空の下、遊園地の賑やかな人混みに紛れながらも、二人は一緒に様々なアトラクションを大いに楽しんでいた。
 桜乃はスカート姿だったので、あんまり激しい動きのそれは却下するしかないのだが、元々のんびりとした遊びを好む彼女にはさして問題にはならない。
 少々仁王にとっては刺激が少ないのではないかと思いきや…
「あ〜〜、面白かったの」
「……」
 にこにこと笑いながら屋内アトラクションから出てきた仁王とは対照的に、桜乃は顔色が何となく優れず、相変わらず仁王に必死に縋りついている。
 そんな怯えた小鳥の様な少女を見下ろし、若者はにっと意地悪な笑みを浮かべてみせた。
「お前さんも堪能したようじゃな…発声練習」
「だから止めましょうって言ったのに〜〜〜〜っ!!」
「いや、俺は面白かったから」
 え〜〜〜んっ!と嘆きつつその男を非難した娘だったが、相手は何処吹く風でけろっとしている。
 そんな二人の背後にあった屋内アトラクションの看板には『お化け屋敷』とでかでかと書かれていた。
 渋る桜乃を半ば無理やり中へと連れ込んだ仁王は、目論見通り、恐がり怯えまくる桜乃が自分に密着してくる感触と、恐がる表情を思うままに楽しんでいたのだった。
 御機嫌になるのも無理はないが、怖い思いをした桜乃にとっては大問題である。
「仁王さんの意地悪〜〜…」
 くっすーん…としょげる少女を改めて見つめた仁王は、それまでの笑みを一瞬だけかき消して、少し物足りなそうな表情を浮かべた。
(…今日で三回目になるんじゃけどな…デート)
 今までデートなんてものには縁が無かったが、この回数はどうなんだろうか?
 多いのか? 少ないのか?
 いや、数で決まるものではないとは分かっているが…
(そろそろ呼んでくれてもええと思うんじゃけどな…名前で)
 自分はもう告白した時から相手を名前で呼んでいたが、彼女はそれからも『仁王さん』止まりだった。
 性格上、恥ずかしくて呼べないのだと理解はしているが…流石に複数回デートを重ねて苗字呼びというのも物足りない気もする。
「…なぁ桜乃…?」
「……」
 呼びかけてみたが反応はなく、ん?と相手の顔を覗き込んでみると、ちょっとばかり不機嫌モード。
(ありゃ…ちと刺激が過ぎたか?)
 もし今頼みごとをしても、多分却下される可能性が高い。
 無謀な戦いは、勝利へ繋ぐ糸口を得ない内は挑まないのが吉。
 そこはしっかりと詐欺師の経験を経て、男は早速その糸口を見つけ出した。
「そう言えば、ここのクレープ。雑誌に載るほどに美味いそうじゃな…特製クリームに苺を乗せて、そこにたっぷりのチョコレートソース…」
 ぴく…
 桜乃の肩が微かに揺れて反応したのを目敏く確認し、仁王は更に餌を撒く。
「クレープ屋の傍に、やけに細かいアクセサリーのグッズショップもあったのう…期間限定モノもあるとか何とか…クレープ食べながら見ても十分に楽しめそうじゃ」
 ぴくぴくっ…
 再び動く桜乃の肩…その振幅がちょっと大きくなっている。
 小さく可愛いモノが大好きな少女に、これもまた大きな撒き餌になった様だ。
 相手の興味のベクトルが大きくこちらに傾いているのを実感しながら、仁王はほぼ勝利を確信しつつ釣り針を放った。
「…奢っちゃるから、行ってみんか?」
「はい!」
 海に放ったと同時に、大物が掛かった気分だ。
 ここまで素直だとこれからの人生、別の不安が過ぎるのだが、まぁ自分がその分気をつけていたらいいし…
「よしよし、ほんじゃ行くか」
 あまり長々と愚痴を言う女は好きではないが、この子みたいにちょっと拗ねるぐらいなら、こちらも思い切り構ってやりたくなるものだ。
 仁王は手にしていた園内マップを見て素早く最短ルートを探し出すと、桜乃の手を引いて歩き出した。
 これまでのデートでも、こうして道を探して導いていくのは仁王の仕事だった。
 まぁ大体デートでのイニシアティブを取るのは男性であると相場は決まっているのだが、彼らの場合にはもう一つ大きな理由がある。
 それは、桜乃の『迷子癖』。
 慣れている場所なら八割〜九割は安全圏なのだが、慣れない土地…特にこういった混み合う場所であった場合、先ず間違いなく彼女は迷う。
 これまでの短い付き合いの中でも、既にその性癖を掴んでいた仁王は、当然それを未然に防ぐべく、桜乃と一緒に行動する時には、自分が率先して彼女を引率していた。
 探す手間もそうだが、何より不安だったのが、目を離した隙に他の男に獲られないかという可能性。
 桜乃はまだ気付いていないかもしれないが、彼女は十分に可愛い部類に入る。
 こんな場所で一人でいたらどうなるか…想像するだけでも不愉快になってくる。
 この子の傍にいるのは、自分だけで十分なのだ。
 かなりの独占欲を有していると判明した詐欺師は、とてとてと桜乃と一緒に先ずは第一目標のクレープ屋に到着すると、少しだけ出来ていた人の列に並び、無事にクレープをゲットした。
「わぁ、おいしー」
「ん…なかなかいけるの」
 結構な出来栄えに満足しながら、二人は仲良く手を繋ぎながら次なる目的地のショップへと足を向けた…ところが、
「うわ…人が一杯…」
 桜乃の感嘆した言葉の通り、店の中は人が溢れており、向こうの壁が見えない状態。
 入れない事もないが、すし詰めにされるのは間違いない。
「で、出直しましょうか?」
「そうじゃな…いや」
 一度は同意しかけた仁王だったが、マップの注意書きを改めて読んだところで言葉を止める。
「…」
「仁王さん?」
「…混んどるように見えるかもしれんが、これでもまだ空いとる方らしい。もっと混み始めると、一時間待ちはザラにあるそうじゃよ?」
「えええ!」
 マップをしまい込みながら、仁王はもう一度店の中を眺めて軽く頷いた。
「どうせこういう場所はいつでも混むもんじゃ、入れるなら乗らん手はない……見たいんじゃろ? そこの店」
 尋ねる相手に、桜乃は遠慮がちにこくんと頷く。
 最初に誘ったのは仁王本人だという事もあり、彼は相手の意志を汲んで、一度離した手を再び差し出した。
「じゃあ、しっかり手を握って離さん様にな」
「は、はい」
 先程より更に力を込めて桜乃は仁王の手を握り、そしていよいよ店の中へと入っていった。
 店の装飾は明るい色で統一され、ライトも店内を眩いほどに照らしていたのだが、人混みの中に潜ると他の客の身体やその影が視界に入ってしまう。
「わぷ…」
「大丈夫か? 桜乃」
「はい」
 二人は手を握り合って店の中を彷徨い…随分後になってようやく店の隅に空いていた僅かな空間に逃げ込んだ。
「あー、思ったよりも窮屈じゃのう…桜乃、もう少しこっちに」
「……」
「? 桜乃?」
 どうした…?と握っていた相手の手を追って視線を落とすと、そこには確かに少女がいた。
 但し、桜乃の姿ではなく、せいぜい小学校低学年ぐらいの見知らぬ子だったが。
「ああっ! 桜乃がいつの間にかこんなにちっちゃく!! じゃからあれ程しっかり食えと言っとったのに!」
 勿論、そんな事が現実にあるワケがなく、即座に仁王は現実へと立ち返る。
「なんて一人でボケとる場合かーっ!! おーい、桜乃―!! それとこの子のお母さんっ!」
 流石に小さな子を一人にする訳にもいかず、先ずは保護者の捜索を最優先。
 幸い母親はすぐに見つかって、若者はすぐにその子を返すと、急いで見失った恋人の捜索を開始する。
(手さえ離さなければ大丈夫だと思っとったが…しまったのう…)
 しかし、店の中で見失った以上、彼女はまだこの空間の中にいる筈だ…!
 それだけを頼りに、仁王は結構長いこと店の中を探し回っていたのだが、やがて彼は一つの事実に行き着いた。
(嘘じゃろ…)
 おらん! 何処にも!
 常識的に考えてあり得ない、あの子が勝手に自分を置いてここを離れてしまうなど…と言う事は…!?
(まさか…もう他の男に…)
 拉致られた―――――っ!?
 仁王の脳裏に、見知らぬ男に腕を引かれて泣きながら連れ去られる桜乃の姿が浮かぶ。
「桜乃―――――――っ!!」
 『いや―――――――っ!!!』と心の中で悲鳴を上げながら、彼は滅多に見せない狼狽した姿で店を飛び出して行った。



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