お兄ちゃんと兄妹喧嘩
「…で、何じゃこれは、参謀」
「栄養ドリンク」
「栄養ドリンクゥ?」
「…を目指してみたジュース」
「……」
或る日の立海…その男子テニス部部室内で、レギュラーメンバーが一同に会し、テーブル上の物体を凝視していた。
一リットルのジュースコンテナ内に入れられている謎の物体X…もどきの色合いの液体。
あまりにも不思議な見た目の為か、普段は食欲魔人の丸井ですら手をつけようとしない。
「取り敢えず、栄養面では文句なく補給出来る筈なのだが…ちょっと配分を誤ったかな?」
ぱらぱらぱら、とノートを捲っている柳はいつも通りの表情だが、他の男達はその液体の様に一様に顔色が悪い。
「…これで間違いがちょっとなら、成功しても飲みたくないッス」
「…よし、ここは一つ丸井のヤツに男を見せてもらって…」
「ばっ! ジョーダンじゃねってのい! そう言うジャッカルが飲めばいーだろい!?」
早速その液体の試飲を巡ってトラブルが勃発しそうになったが、そこはすぐに部長の幸村が止めた。
「ストップ。ここで押し付けあっても仕方がない…そうだね、じゃあ…今日のメンバー間の試合で最下位の人に飲んでもらう事にしようか」
それがいい…と言うよりも、そうするしかない。
(ぜってー負けらんねー!!)
「味はともかく、中身は悪くないと思うのだが…」
「いや、味が一番重要なんだってば!!」
柳の言葉に丸井が必死に説得を試みたが、相手は残念そうに溜息をつくばかりだった。
「仕方ない、せめて『ご自由にどうぞ』という貼り紙を付けておくか…」
(不自由のままでいい…)
いつにも増して物凄い気迫を漲らせながら、メンバー達がコートに向かい、彼らがここに戻るまでの間、そのコンテナはテーブルの上で憐れな犠牲者を待つ事になったのである。
それから暫くして、熱気溢れる運命のレギュラー間の試合の合間に、一人の来訪者がコート脇に現れた。
「あ、雅治お兄ちゃん」
「ん…? 何じゃ桜乃、どうした?」
仁王雅治の妹である、桜乃…彼と同じ立海の学生で、現在中学一年生である。
丁度コートで試合を終えて休憩を取っていた兄は、妹の珍しい来訪に不思議そうに尋ねた。
それに対し、長いおさげを揺らしながら、少女は困った表情で男に答える。
「お兄ちゃん、もしかして私のノート、鞄に入れてない? 昨日、一緒に勉強した後から見つからないの。あれから本棚を弄った記憶はないから、もしかしたらって…」
「ん? そうなんか? いや…俺は気付かんかったが」
少し記憶を遡って考えてはみるものの、そういう物を見た覚えは無い…と言うより、今日は鞄を開いた覚えがない。
「鞄の中か…生憎俺は今は手を離せん。勝手に部室に入って見てくれてもええよ?」
「本当? じゃあ、ちょっとだけ御免ね……危険物は入れてない?」
不審な目を向けてくる妹に、兄も負けじと呆れた視線。
「それが実の兄に対する言葉かのう…過激派じゃあるまいし」
「過激派なんて全然恐くないわよ…昨日、お兄ちゃんの鞄の中から出てきたカエルの干物に比べたら…」
「あの悲鳴はマジでご近所さんから通報モンだったのう…」
通報はされなかったが、無論その後、兄は妹からこっぴどく叱られる羽目になってしまったのだった。
実はこの仁王雅治という男、詐欺師という物騒な異名を持っているが、可愛い実の妹にだけは頭が上がらない。
「今度あんなゲテモノ入れてたら、金輪際、お兄ちゃんの鞄に私の手作りのお弁当が入る事はないと思ってよね」
「分かった分かった」
びしっと厳しく念を押した後で、桜乃はやれやれーと思いながら一人で部室に向かった。
(本当にもう…でも、今日は随分と部活に熱心ね。何にでもああやって取り組んでくれたらいいのに…悪戯と詐欺以外で)
無理だろうな…と、はぁ、と溜息をつく桜乃は、無論、彼らがそれだけ熱心に試合に臨んでいる理由を知らない。
そんな事を考えている間に、彼女は部室の前へと辿り着き、その扉を開いて中へと踏み込んだ。
流石に常勝を謳うだけあり、常日頃の整理整頓も徹底されている…きっとあの部長さんや副部長さんが気合を入れて指導しているのだろう。
「えーと、お兄ちゃんのロッカーは…あったあった」
ネームプレートで兄のロッカーの場所を知った桜乃は、その扉を恐る恐る開いてみた…が、
「あれ? 意外と綺麗」
まとまっている中を見て、ほっと安心しながら彼女は相手の鞄を取り出し、中を覗き込む。
「うーんうーん…あっ!」
見つけた!!
桜乃は見慣れた自身のノートを引き出して、嬉しそうに胸に押し抱いた。
「良かった〜〜…あ、鞄、しまっておかなきゃ」
それから彼女は元の通りに鞄を戻し、ロッカーを閉め…たところで、テーブルの上の謎の物体に気が付いた。
「?」
実に不思議な液体…しかもコンテナには『ご自由にどうぞ』なんて貼り紙が…
「何だろうこれ…ジュース? 変わった色をしてるけど…」
でも、『ご自由にどうぞ』なんて書いているなら、ちゃんとした飲み物なのよね…?
貼り紙を額面上通りに受け取った桜乃は、そこで運命の選択をしてしまう。
(…ちょっと喉渇いてるし、一口貰っちゃおう)
そして彼女は、コンテナと一緒にテーブル上に置かれていた紙コップにその液体を注いで…こくん、と少しだけ口に含んで飲んでみた。
「? 何だか不思議な味だなぁ…でも、飲めないこともないけど…」
お兄ちゃんの部活が強いのって…こういうモノを作って飲んでいるからかしら…
合っているかもしれないが、全員が好きで飲んでいる訳ではない。
結局、桜乃は自分が注いだ分を全て飲み切ってしまった。
「ご馳走様でした…さて、と」
くらっ…
「はえ…?」
一歩、扉に向かって歩き出したところで、桜乃を取り囲む世界が大きく揺らぐ。
それが何故か…と思う間もなく、桜乃はそのままぱったりと冷たい床に倒れ、意識を失ってしまった…
「……遅いの、何しとるんじゃアイツは」
「妹君ですか?」
鞄を見るだけですぐに出てくるだろうと思っていたのに、なかなか姿を見せない妹に、仁王がちらちらと扉を見ている様子に、相棒の柳生が確認する。
「おかしいのう…カエルの干物は取り出したし、ヤモリの干物はとっくに使ったし、例の目玉は…」
指折り数えながら不吉な単語を呟く相手に、柳生は実に不審そうな目を向けた。
「君には魔女のお知り合いでもいるんですか…?」
そんな二人が取りとめもない会話を交わしている脇を抜けて、副部長が部室へと向かってゆき、その扉をかちゃりと開いたところで、びたっと身体を硬直させる様なリアクションを見せる。
そのまま彼は物凄い勢いで部室内へ飛び込んでいき、少なからずその姿は他の部員の目を引いた。
無論、仁王と柳生の二人も例外ではない。
「? どうしたんでしょうか、真田副部長…」
「……」
ざわ…と何か嫌な予感が仁王の全身を襲った。
部室から桜乃が出てこない…それとまさか関係があるのか…?
ベンチに座っていた腰を浮かしかけた正にその時、部室の扉が再び勢い良く開かれ、真田が仁王に向かって叫ぶ。
「仁王っ!! 来い!!」
相手の呼びかけに、仁王はもう既にそちらに向かって走り出していた。
そして部室の中に誘われるままに入ったところで、彼は床に倒れた妹の姿を見て意識が一瞬真っ白になってしまった。
「桜乃っ!!」
慌てて駆け寄って抱き起こしたが、向こうは意識を戻す様子はなく、ぐったりと兄に身体を預けたままだ。
「桜乃っ! しっかりするんじゃ! おいっ!」
何やら不測の事態を聞きつけて、他のレギュラーメンバーも集まってくる。
「どうしたんだい?」
「え…桜乃ちゃん?」
「桜乃さん!?」
同行していた柳生も何事かと少女を気遣い、仁王はぺちぺちと軽く妹の頬を叩いて意識の覚醒を促す。
そうしながら、彼はどうして彼女がこうなってしまったのかという原因を探ろうとしたのだが…
「…あ」
「え?」
真田が珍しく間の抜けた声を上げると同時に、テーブルの上を指差した。
例の柳特製ジュースの入ったコンテナの隣に、何かを飲み干した後に残された紙コップ。
少なくとも、立海の部員は、まだその魔の飲み物には手を付けていない筈…ということは。
「……た、確かに『ご自由にどうぞ』と書いてはあるが…」
それで飲もうと思うものか?と、うーむと悩む副部長の向こうで、仁王は半ば怒りを込めつつ桜乃の肩をがっくんがっくんと揺さぶっていた。
「お前は詐欺師を兄に持ちながら、どーして疑うことを知らんのじゃ―――――っ!!」
そんな相手の様子を眺めつつ、丸井がぽつりと呟いた。
「…責められるべきは、詐欺師の方じゃねーのかい?」
「すっげぇ理不尽な言い分だよな、確かに…」
ジャッカルもそれについては賛同していたが、そうしている内に、桜乃に変化が現れた。
「…う、ん」
「桜乃!!」
仁王の呼びかけに桜乃はゆるゆると瞳を開き、それがいつも通りにぱちりと大きく輝くと、相手をしっかりと視界に捉えた。
「あれ? お兄ちゃん?」
「桜乃…っ、お前、大丈夫なんか?」
「え…? あれ? 何で? 私…あれれ?」
きょときょとと辺りを見回して、相手は自分の置かれた状況を理解しようとしている。
そこに同席していた部長の幸村は、薄く苦笑いを浮かべながら兄の仁王へと声を掛けた。
「まぁ大丈夫みたいだけど…今日は一日安静にさせておいた方がいいだろうね。仁王、もう今日の部活は上がっていいよ。一緒に帰って、妹さんについていてあげて?」
言われなくてもそのつもりだった男は、部長の申し出にすぐに頷いた。
「すまんの…そうさせてもらうけ」
その一方、幸村は柳にもお達しを出す。
「残念だけど、その飲料は廃棄した方がいいね…流石に人が倒れたものを、敢えて飲ませる事は憚られる」
「すまんな…まさか、部外者が飲むとは想定していなかった」
部員以外で犠牲者を出してしまった失態に柳は深く反省し、桜乃に対しても詫びた。
その陰では、切原がどうしても拭えない疑問を心で唱えた。
(…関係者だったら、倒れてもいいってコト…なんだよな、やっぱり)
でもそれも、間違ってるんじゃないのか…根本的に。
「わ、私、大丈夫だよ? お兄ちゃん」
「ええから、今日は一緒に帰るぜよ、桜乃」
遠慮する妹の言葉を優しく封じると、仁王はその日はすぐに部活を上がり、彼女を家に連れ帰った。
確かに道中も彼女の身体に異変は認められなかったが、大事をとってその日は桜乃は家で安静にする様指示を受け、素直にそれに従っていた……
翌日…
「ううん…おはよ〜〜」
朝の陽射しを浴びて、桜乃が爽やかに目を覚まし、ベッドの中で伸びをしながら起き上がった。
昨日は随分と早くに寝てしまったけど、その所為か寝覚めがすっきりしている。
さて、今日も元気に朝ごはんとお弁当を…
「…んにゃ?」
あれ?
パジャマが…どうした訳かやけにブカブカしているんだけど…?
まるで子供が大人用のそれを身につけた様な違和感が…と思いつつ桜乃が自分の手を見た時、彼女は一気に残っていた眠気が吹き飛んでしまった。
「う、そ…っ」
小さい…っ!!
明らかにこの形は、昨日までの中学生だった自分のものではない!
「ええっ!?」
思わずベッドから降りようとするも、脚さえも短く小さく…幼少化してしまっている。
更にパニックに陥りながら何とかベッドを降り、姿見の鏡の前に立って確認してみると…
「ええ〜〜〜〜〜!?」
中学生の自分の姿は跡形もなく、そこには幼児へと逆行した姿が真実として映し出されていた。
「〜〜〜〜〜〜!!!!!」
当然、人生に於いて初めての経験であり、彼女は鏡の前でわたわたわたと見事な踊りを披露しながら考えたのだが…
「あわわ…! お、お弁当…え、と、あああ…ど、どうしよ…!」
とても考えるというものではなく、単に混乱しているだけであり、少女はあわあわと踊りながら部屋の外へと飛び出した。
どうしよう、どうしよう!
そうして思い悩みながら、桜乃は藁をも縋る思いでぱたぱたと兄の部屋へと走っていき、とんとんとノックをした。
先ず両親ではなく兄の許に行くというところが、普段は色々と言いながらも、結局は彼を頼りにしていることが伺える…自覚はないのかもしれないが。
「お兄ちゃん、雅治お兄ちゃん!」
暫し待つも返事はない…
(あうう…返事ないし…やっぱりまだ眠ってるよね)
まだ熟睡している時間帯だけど…今日ばかりはそんな事言ってられないし。
桜乃は普段、相手から許可を受けない限りは部屋に踏み込む事はない…が、今回だけはそれを破ろうとしたのだが…
かちゃ…
「!」
「んん…何じゃよ、桜乃…まだ起こすには早かろ」
眠そうに目を擦りながらも、仁王が起き出して向こうからドアを開けてくれた。
「お、お兄ちゃんっ!」
「…?」
ん?と言った様子で仁王が視線を前に遣る…普段の桜乃の目線に合わせる高さで…
しかしそこには人の姿はなく、仁王はあれ?と辺りを見回したが、それでも彼女の姿は見えない。
そこで彼はパジャマのズボンの下をくい、と軽く引かれて反射的に下へと目を向けると、ようやく相手を見つける事が出来た…のだが…
「ん…?」
小さい…見覚えのある少女がこちらを見上げて立っている。
しかし、この子が今、自分の前に現実に立てるワケがない、何故なら彼女はもうその姿ではないからだ。
「……なーんじゃ、まだ夢の中か…お休み」
全てを夢の中での出来事と位置づけた仁王は、さっさと背を向けてドアを閉めようとしたが、桜乃は必死に相手の脚に縋りついて食い下がった。
「うわあぁぁ〜〜〜んっ! 現実だってばお兄ちゃんっ!!」
「…」
生々しい叫びを聞き、ぴた、と動きを止めた仁王がゆっくりと振り返る。
夢…じゃない…?
「なっ…」
うるうると瞳を潤ませてこちらを見上げる少女に動揺し、彼は思わず外の廊下を確認した。
そして誰もいないと知ると、大急ぎで桜乃の手を引いて自室へと連れ込み、取り敢えずは自分のベッドに座らせた。
「さ…桜乃か…っ!?」
「うん…」
こっくりと頷く仕草も表情も、確かに自身の記憶の中に残っている、昔の少女そのままだ。
偽物でもなければ夢でもない…が、それが分かったからと言って全てが解決した訳でもなかった。
「ど、どうしたんじゃ、その身体! 小学生一年ぐらいか!?」
「わ、分からないの…朝起きたらこんなコトに…」
「……」
話が完全に通じているし、仕草や話口調は中学生の彼女と何ら変わりない…肉体だけが逆行したという感じだった。
「しかし、昨日までは全然普通だったよな? 一体何が…昨日、何か悪いものでも食った…」
言いかけた仁王の口がぴたりと止まる。
悪いもの…一つだけ心当たりがある…しかも超巨大な心当たり。
まさか、まさか…
「…あのジュース…」
まさかあれで!? しかし、やはりどうしてもそれしか心当たりがない!
(恨むぜよ、参謀〜〜〜〜〜!!)
分かったところで自分ではどうしようもない事態に、仁王はわなわなと震えた。
取り敢えず、こんな姿の少女を他人に晒すわけにはいかない!
あの元凶の男に、元に戻す為に協力してもらわないと…!
「ど、どうしよう、お兄ちゃん…」
途方に暮れた妹に、兄は励ますように肩を押さえて忠告したが、それはまた自分に言い聞かせる為でもあった。
「兎に角、お前は今日は学校を休みんしゃい。それと、その格好はウチの親にも暫く見せん方がよかろ…今日は風邪か何かだと言って誤魔化すんじゃよ。幸い朝から二人とも家を空けるし、家にじっとしとれば大丈夫じゃ」
「…う、ん…じゃあ、急がないと…」
「…?」
「お兄ちゃん! 朝ごはんの支度するの、手伝って!?」
「…は?」
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