兄と両親が外出した後、暫くの時間を経た後で桜乃は部屋の中からこそりと抜け出して、リビングにいた。
朝は物置の収納箱から昔の服を引っ張り出し、それを纏ってからの活動になった。
小学生ぐらいの身長になると、やはり行動にも制限が掛かる為に、彼女は兄の手を借りつつかろうじて朝食とお弁当の準備を済ませると、親達の目に触れる前に部屋の中に引っ込んだのである。
後は、仁王の詐欺師トークタイム。
両親に妹の不調を伝え、部屋の中にほぼ自主的な軟禁状態にさせる事に成功した。
そして、改めて外出しないように言い含めて、彼は学校へと出かけて行ったのである。
そして家の中に残されたのは、小さな少女一人…
「…病気でもないのに、学校お休みするなんて、ちょっと気が引けるなぁ」
病気以上に大問題になっている事に気付いているのか現実逃避か、そんな事を言いながら桜乃はリビングからキッチンへと移動する。
皆が帰って来る夕方までは時間があるから、片付けでもしよう…と思った娘の目に、見慣れた物体が見えた。
しかし、それを見つけた桜乃は、ん?と首を傾げる。
おかしいなぁ…どうしてこれがここに…って、大変っ!
「うあああ!! 雅治お兄ちゃん、お弁当忘れてるう〜〜〜っ!」
慌てて桜乃が手にしたのは、兄に作ってあげたお弁当だった。
朝食は殆ど兄に手伝ってもらったのだが、お弁当は自分ひとりで頑張った力作!
渡したと思っていたのに、ここにあるという事は…やっぱり、相手が忘れていったのだろう。
(ううう…きっと私の所為だ…私がこんなちみっこくなっちゃったから、動揺しちゃったんだ〜〜)
それは間違いない。
しかし問題なのは、これがここにあるという事は…彼の昼食が手許に無いということだ。
(どっ…どうしよう…折角作ったのに〜〜)
学食はあるけど、それでもタダという訳にはいかないし…
うーん、うーん…と悩んでいた桜乃は、遂に、一つの大きな決意を胸にする。
(やっぱり届けよう! 雅治お兄ちゃんの親戚の子供って事にしとけば大丈夫よね!)
親は帰って来ないし、私を見ても知っている人はきっと本人だなんて思わないだろうし…届けるだけなら大丈夫…だと思う。
そう考えた桜乃は、家の戸締りをしっかりと確認し、仁王のお弁当を小さな手提げバッグに入れてそれを持つと、一路、立海へと向かったのだった。
(はぁ…やっと着いた〜〜)
はふ…と桜乃が大きく息を吐く。
疲れた…
中学生の身体では何と言う事も無い距離だったのに、小学生のそれではこんなに疲れてしまうものなのか…
そう思いながら桜乃が見上げたのは、三年生達が使用している靴箱の並んだ校舎の入り口だった。
昼休み近くとは言え、まだ授業が続いているところが殆どなのか、生徒や教師の姿は見えない。
小さな身体を押してここに辿り着いた桜乃は、もう一頑張りと座り込みそうになる身体を奮い立たせた。
しかし、どうしても足がかくかくと震えてしまう。
「え、えーとぉ…雅治お兄ちゃんの教室はぁ…」
あー行って、こう曲がって、そう行けばいいんだよね…?
疲労した頭の中でぐるぐると思考を巡らせていた時だった。
「おや?」
「!?」
背後からいきなり聞こえた声に桜乃がはっと振り向くと、眼鏡をかけた一人の男子が立ってこちらを見下ろしていた。
ぴしりと制服を着こなして、毅然と佇む姿は、それだけで様になっている。
(あわわっ!…や、柳生先輩〜〜〜〜っ!?)
自分の兄の親友であり、品行方正を絵に描いた様な人物である。
そんな彼が授業をサボる筈がない…ここにいるということは体育の授業だったのだろう。
それにしてもどうしよう!? 知り合いの人に早速会ってしまった!
ここは真実を話すべきか、それとも誤魔化すべきか…!
「あ、あう…」
どうしようと思いつつ、どもっていると、相手は少女が何やら困っているのだと思い、静かにその場に膝を付いて目線を合わせてくれた。
流石、紳士の仇名に相応しい対応である。
「ここには珍しい、愛らしいレディーですね…どうしました? 迷子になったんですか?」
(きゃあぁぁ〜〜〜! 柳生先輩…本当に優しい〜〜)
この人がお兄ちゃんの親友だなんて!と改めてその奇怪な事実を不思議に思いながら、桜乃はたどたどしく相手に伝えた。
「あ、あのう…雅治…お兄ちゃんに、これ…お弁当」
「雅治…? もしかして、仁王雅治君?」
「はい…」
それを聞いた柳生は、相手が桜乃であるとは思いもせず、優しく頷いた。
「そうですか、私は仁王君の友人で、柳生比呂士と言います。こんな所までおつかいとは、偉いですね…」
「あ、そのう…」
「しかし、おかしいですね…仁王君の妹は、桜乃さんしかいなかった筈ですが…ご親戚の方でしょうか?」
「……」
どうしよう…と改めて悩んでいる間に、向こうは少し考えた様子でうんと頷いた。
「まぁ、それは後で仁王君に聞いたらいいでしょう…丁度これから昼休みですし、少しはお会いできる時間もあると思います。ご案内しましょう、どうぞ?」
「はい?」
ひょいっ…
「わ…」
柳生は、桜乃をあっさりと左腕で身体の前に抱き上げると、自分の靴をさっさと片付けて室内履きに履き替え、そのまま校内に入っていった。
「あ! あの、あのう…私、歩きます…」
「ご遠慮なく…足が随分お疲れの様でしたよ? 仁王君の家から来たのなら、かなりの距離です、無茶はなさらずに」
相手が年下であってもしっかり淑女として扱う様は、文句の付け所がない程に礼儀正しい。
「あ、有難うございます…」
「いえ、お安い御用ですよ……ふむ」
自分を見つめてくる男性に、桜乃がどき、と動悸を覚える。
もしかして…バレた…?
「…貴女は、私の知る方にとても印象が似ています…仁王君の妹君と。彼女も非常に愛らしくて、優しい方ですよ」
(きゃああああああ!!)
褒められた〜っと真っ赤になりながら、桜乃が内心照れまくってしまう中、柳生はひそりと付け加えた。
「仁王君も、もう少し素直になったらいいんですけどね…」
(…え?)
それってどういう事かな…と考えた時には、彼はもう休み時間に突入していた兄の教室の前に到着していた。
さて、中に入ろうとした時…
「あ〜〜〜〜っ!! 柳生が隠し子連れてるっ!」
大声で叫んだのは、廊下の向こうでこちらを見て騒ぐ赤い髪の若者だった。
よく見ると、ジャッカルや幸村、真田達も一緒だ。
他の若者達は無論、丸井の言葉を鵜呑みにしてはいなかったが、やはり何事かと興味深そうな視線を向けている。
「そういう返答するにも値しない馬鹿な発言をなさるのは…やはり丸井君でしたか」
さらりと相手の指摘をきつく否定しながら、柳生はそこで柳と仁王を除くレギュラーと合流したのであった。
そして一方、昼休みに入った仁王は、前もって呼びつけていた柳にだけ事の次第を話していた。
「つまり、そういう訳じゃ。お前さん、桜乃を何とか元に戻せんのか?」
「小さく…? 身体が縮んだという事か?」
「違う、完全に昔の…もっと子供の頃に戻っとるんじゃ。俺の記憶では小学生になるかならないかという時期じゃの…完全に身体だけ退行しとるんじゃ、うーん…」
相手にそんな説明をしている時、脇から仁王に声が掛けられた。
「仁王君、お客様ですよ」
「ん?」
ひょっとそちらに視線を遣ると、親友の柳生が小さい桜乃を前に抱きかかえ、傍に他のメンバーが揃っていた。
「お弁当を届けに来てくれたそうですよ。全く…大事な妹君の手作りのお弁当を忘れるとは。『コンビニ弁当よりマシ』と言いながら結局完食するんですから、ちゃんと自分で持参ぐらいなさい」
柳生の苦言には耳を貸す様子もなく、仁王は丁度良かったとばかりに彼の抱いている桜乃を指差した。
「ああ、丁度良かったぜよ。参謀、桜乃がこんな感じになって…・」
説明しようとしている間に、仁王はようやく事態に気付く。
桜乃…桜乃?
「ピヨッ!!??」
「…随分、気合が入った驚き方だね」
幸村はのほんとした口調でそう言ったものの、仁王は完全に硬直しており、桜乃は小さい手で『コンビニ弁当よりマシ』と言われた自作弁当を持ちながら、『へぇ〜〜』と異様に冷たい視線で兄を見下ろしていた……
「この子が桜乃ちゃん…?」
「嘘だろ!?」
「信じられね〜〜、完全に小学生じゃんか!」
場所を部室へと移し、真実を知らされても、全員は桜乃を取り囲んでその姿の変化に驚きを隠せなかった。
「…ほ、本当に、桜乃さん、なんですか?」
「はい…すみません、なかなか言い出せなくて…」
何となく落ち着かない様子で柳生が相手に尋ねると、小学生らしからぬ言葉遣いと態度で少女が返す…しかし、それは確かに見たことがある反応で、最早疑いようがない。
「…そ、そう、でしたか……」
その返事を聞いた柳生が、視線を逸らしつつ眼鏡を押し上げる。
どうやら、本人とは気付かないまま、目前で彼女を褒める言葉を言ってしまった時のコトを思い出してしまったらしい。
別に、悪いコトを言ってはいないのだから堂々としていてもいいのだが…やはり照れ臭さはあるようだ。
「…何があったんじゃ」
早速その相棒の反応に気付いた仁王がむすっとした表情で妹に尋ねたが、彼女はつーんっとそっぽを向いてしまう。
「べ・つ・に」
「……」
先程の、柳生の暴露話が彼女のヘソを曲げてしまった事は明らかだった。
「…柳生が余計な事を言うからじゃ」
「私、嘘は嫌いなんですよ」
柳生に文句を言ったものの速攻で返された仁王に、桜乃はんべ、と舌を出した。
「どーせコンビニ弁当程度ですよーだ」
そんな事で揉めている三人の向こうでは、柳が顎に手をやり、彼の私見を述べていた。
「…確かに俺の作成した飲み物でこの事態が引き起こされたと考えるのが妥当ではあるだろうが…残念ながら、あの飲料は既に廃棄してしまったのでな。今更、成分構成を再現することは出来ん…しかし、もし出来たとしても、俺にしてやれる事はないだろう」
「どうしてッスか?」
後輩の当然の質問に、柳は迷うこともなく即答する。
「下手に別の異物を体内に投入するよりも、最初の異物が分解、排出される方を待つ方が身体にも安全で確実だからだ」
「つまり、そのまま元に戻る時を期待する、という訳だな? 蓮二」
「そうだ」
真田の確認に柳は頷いたが、幸村が首を傾げて不安げな表情を浮かべる。
「…戻らないで、このままの姿で改めて成長するって可能性はないのかい?」
「可能性はゼロではない…が、確率は極めて低い。コンマの下にゼロが三つ並ぶ程度だ」
「…それに当たらない事を祈るよ」
三強達が神妙な話をしている向こうでは、当人達が不毛な兄妹喧嘩を続けている。
「まぁお前は元々が子供っぽかったからの、今から小学生やっても、違和感はないかもしれんな」
「む〜〜〜っ」
ぷくーっとほっぺたを膨らませる桜乃に、仁王はふふんと鼻で笑ってみせ、そんな彼に柳生がこらっと嗜めた。
「仁王君! 桜乃さんが優しいのをいいコトに何を意地悪な事を言っているんです」
「うん、昔は確かに優しかったから俺はこのままでも別にええぜよ? 何せこの格好の時期にはまだ『お兄ちゃんのお嫁さんになる!』って言うてくれとったんじゃか…」
「きゃーっ! きゃーっ! きゃーっ!!」
過去の爆弾発言を思い切りよく蒸し返され、桜乃は悲鳴でそれを打ち消そうとしたものの、しっかり周囲には聞かれてしまっていた。
(お嫁さん…)
(普通はパパのお嫁さんになるっていうんじゃ…)
(けど、仁王もまんざらではなさそうだぜい?)
全員は、なかなか微笑ましい発言だ、と思っていたのだが、当人の桜乃はばらされた事で遂に怒りのスイッチが入ってしまった。
「も――――いいもーんっ!! このまま戻らなくてもっ!」
「そーかそーか」
そう宣言して、桜乃はうーっと仁王の顔を睨みつけるが、どう見ても恐いというよりも可愛い…ので、仁王も相変わらず余裕の笑顔。
「戻らなくて一年生からやり直しても、私の方が六歳は年上だし経験が豊富だもんっ! 私だって詐欺師のお兄ちゃんの妹なんだから!」
「心だけ年上で詐欺師の妹なら何が出来るっちゅうんじゃ」
ふん、と再び鼻で笑う仁王…だったのだが…
「…同い年の男の子達を手玉にとって騙くらかして貢がせて、わる〜〜〜い女になってやる〜〜〜〜〜っ!!」
「っ!!!」
ぎょっとする仁王の前で、続けて桜乃は隣で自分の擁護をしてくれていた柳生の腕にぴとりと縋りついた。
「そうじゃなきゃ、優しい柳生先輩のお嫁さんにしてもらうもん」
妹の超問題宣言に、仁王は一も二もなく柳の胸倉を掴み上げていた。
「参謀―っ!! 桜乃を戻せ!! 今すぐ戻せ――――っ!!」
「戻さなくても良かったのでは?」
心情的には物凄く桜乃に味方したい柳がそんな台詞をしれっと言っている傍では、桜乃に縋られた柳生が横に視線を逸らしつつ、別の手の指を数えていた。
(…九つ差でも、問題ありませんよね)
「あー、いーなー」
「俺達も空いてるぞーい」
仁王をからかいたいのか本気なのか、他の部員も彼らに混じり、暫くその場は収拾が付かない程の騒ぎになってしまった…
「まだ怒っているんですか?」
「……」
部活が始まって、それをベンチで見ていた桜乃の傍に柳生が苦笑しながら歩み寄る。
結局、午後は仁王の親戚という事で誤魔化し、保健室に保護してもらっていた桜乃は、放課後に再び『回収』され、今はコート脇にいた。
彼女の視線の先にいる兄は、昼間の騒ぎなど忘れてしまっているかの様に飄々とボールを追いかけている。
その涼やかな表情からは、今も彼が妹と冷戦中であるなど伺えもしない…それが、桜乃にとっては面白くないのかもしれない。
「…お弁当の事なら、もう許してあげなさい」
「だって、『コンビニ弁当よりマシ』って…」
折角作ってあげているのにそんな言い方ってない、と桜乃は当然の主張をしたが、柳生は横にすとんと腰を降ろして小さく笑った。
「……貴女のお兄さんが、物凄い偏食家だということはご存知でしょう?」
「…はい」
確かに、その通り。
兄の仁王は、幼少時より自分が好きな物を好きなだけしか食べない、結構な偏食の傾向にあり、その所為なのか、身体も細い。
そんな男の弁当を作るのは、家庭科が得意な桜乃でもなかなかに骨の折れる作業なのだ。
だからこそ、兄の心無い発言が許せなかったのだ。
「仁王君はあれで結構頑固なところがありますからね…自分の嫌いな物には絶対に手をつけないんですよ」
「…分かります」
「そんな彼が、持参のお弁当だけは、これまで一度も残すことなく、一品たりとも他人に譲ったことがない事は…ご存知ですか?」
「え…?」
意外な相手の発言に、桜乃は彼を振り返ったが、柳生は眼鏡に手をやったまま試合中の相棒の姿を見つめていた。
「友人同士でよく見るおかずの交換も、彼はした事がないんです。上手くのらくらと逃げていますけど…譲りたくないんでしょうね、大事な妹の手作りですから」
「……」
「一度訊いた事もありましたが、『いつもの味じゃないと落ち着かん』だそうですよ。本当に素直じゃないんですから…」
兄の真意を知らされた桜乃が再び兄の方へと視線を向けると、柳生はそれを合図に立ち上がった。
「詐欺師の言葉だったということで、お忘れなさい。仁王君が、桜乃さんを大事に思っているのは紛れもない事実ですよ、詐欺師でも誤魔化しようがない程にね…」
言いながら、彼は桜乃の頭にそっと手を乗せて、自身の顔を相手のそれへとかなりの至近距離で近づけた。
「それでも許せないなら、貴女は私が一生面倒を見ましょうか?」
「え…?」
紳士にあるまじき行為に見えたが、柳生はその直後、自分に向かって飛んで来たボールをあっさりと手にしていたラケットで弾くと、未練なく桜乃から離れた。
「……」
そしてそのまま向き直った先は、ボールを飛ばしたと思われる詐欺師。
「…人の妹にナニ手ぇ出しとるんじゃ」
例え冷戦中であっても、妹に近づく不埒な輩は許さないと言わんばかりの相手に、柳生は苦笑しながら桜乃を見下ろした。
「…ね」
「…」
兄の行為を或る意味誘い出す為に今の様な行動を取った彼の親友は、そのままコートに移動し、残された桜乃は少しだけ顔を赤くしながら、それからも静かにベンチに座っていた。
桜乃はその日の内に冷戦を終結させる事は出来なかった。
別に意地を張っていたのではなく、色々な事がありすぎた精神的疲労と、幼い身体で無理を押して立海に赴いた肉体的疲労が重なり、部活が終わった時には彼女はぐっすりと熟睡状態だったのである。
起こす事も出来ず、仁王は眠ったままの妹を大事に抱きかかえ、そのまま帰路についたのだ。
夕食の支度も何もかも、全てを忘れた様に桜乃は昏々と眠り続け、帰宅した両親には相変わらず具合が悪い様だからと、仁王は詐欺師の十八番で上手く誤魔化し、彼女の眠りを守り通した。
そして、翌日…
「ZZZ……」
『お兄ちゃーん! 朝だよーっ!』
「…ん」
昨日、就寝のぎりぎりまで妹の傍に付いて見守っていた兄は、懐かしい声で起こされて目を開けた。
「…何じゃ、もう朝か…って」
のろりと身体をベッド上に起こしたのとほぼ同時に、聞こえてきたのが桜乃の声である事を認識して仁王は大いに慌てた。
「!! 桜乃!?」
あんな大声を出して…あの姿を親に見られたらどうするつもりじゃ!
いつかはバレるのかもしれないが、その前に元に戻る可能性を賭けてもう少しだけ内密にしておきたかった彼は、慌ててリビングへと急いだ。
「おい!? さく…」
ばんっと扉を開けてリビングに繋がっているキッチンへと目を遣った彼は、そこに立つ妹が元の姿に戻っている事に初めて気付いた。
「…桜乃?」
「お兄ちゃんおそーい! 早く食べないと遅刻だからね?」
相手は昨日の騒ぎなど最初から無かった様に、いつもの通りに制服姿でてきぱきと立ち回っている。
(元に…戻っとる…)
昨日の事は…夢だったのか?
仁王ですらもそう思ってしまう程に、彼女は自然に日常の世界に溶け込んでいた。
「お兄ちゃん、はいお弁当」
「あ、ああ…」
いつもの様に手渡しでお弁当を受け取った仁王は、何度もそれと妹を交互に見つめる。
正直、昨日の件もあったので、暫くはお弁当抜きになることを覚悟してはいたのだが…
(夢じゃないのは確かなんじゃが…)
色々と確認したい事はあったものの、向こうは朝食の準備で忙しく、自分は自分で朝練の時間が迫っていた為に、仁王はそれからも大した会話を交わせないままに立海へと向かったのであった。
その立海でも、仁王は改めて昨日の事は夢ではなかったのだと確認した。
朝練に於いても、昼食時に於いても、彼らが昨日の桜乃の姿を記憶していてくれたからだ。
「でも、戻ったなら良かったじゃんか」
「ずっとあの格好ってのも、よく考えたら大事だしなぁ」
丸井やジャッカルがそう言っている中で、仁王は同意を示しながらも少し浮かない顔だった。
「ああ…まぁの」
どうにもしっくりこないのは…まだ冷戦が続いている状態だったからだ。
昨日はそのまま相手が眠ってしまっていたし、今日まで自分達は仲直りをしていない。
確かにお弁当は作ってはくれたが、もしかして彼女はもう、単なる家事と割り切ってこれを渡したのではないか…?
朝はとても忙しそうな様子で殆ど声も掛けられずにいたが…それも相手の意図するところだったら…まだ怒っている事は十分に考えられる。
(…どーしたもんかの)
受け取ったお弁当も、今のままの心境では味を楽しめそうもないと思いつつ、仁王は他のメンバーに続いてナプキンを解き、かぱ、と弁当箱の蓋を開けた…が、
「……」
開けてすぐ、若者は再びそれを閉じてしまった。
『?』
他のメンバーが何事だと見ている前で、彼は再びナプキンで弁当箱を包むと、がたんと席を立った。
「すまん、ちょっと用事を思い出したけ、外すぜよ」
それだけを言って、そのまま彼は教室を後にすると、一人だけになる為に屋上へと向かった。
いつもの様に誰もいないそこに到着し、仁王はぺたんと床に腰を下ろすと、再度ナプキンを解いて、今度こそゆっくりと蓋を開いた。
自分が食べられるおかずばかりが詰められているその隣の一画に、白米のスペースがある。
普段は真っ白なそこに、今日だけは黒ゴマが振られていた。
『ごめんね』
ゴマで象られたその文字に、仁王は暫く沈黙し、かくんと項垂れた。
やられた…
(…ああもう…敵わん)
そんな事言われたら、こっちも言わんワケにはいかんじゃろうが…大体最初に言うべきはこっちじゃったのに…
「…はぁ」
青空を見上げ、溜息をつき…腹を括った詐欺師はそのまま弁当箱に向かってぺこんと頭を下げた。
「…ゴメン」
誰にも聞かせられない、誰にも見せられない…けど、心だけはちゃんと込めて謝ると、続けて彼はぱん、と両手を合わせた。
「…いただきます」
偏食の自分の為に妹が作ってくれているお弁当…その価値はちゃんと分かっているのだと示すように、食事前の挨拶をして、仁王はようやく箸をつける。
そして、いつもの美味しいお弁当になったそれをもぐもぐと食べ始めたのだったが…
「…目の前で言ってあげた方が喜ばれるのに、どうしてそこまで素直じゃないんですか…お義兄さん?」
「お前さんはいつか絶対にコロス」
いつの間にか気配を消してその場に来ていた柳生に、振り返る事もなく仁王は淀んだ口調で言い捨てる。
仲直りはしても、自分同様に厄介な相棒と妹の恋路はまだまだ許せないらしい、相変わらずの詐欺師だった…
了
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