ライバルだったり親友だったり


「あ、柳生さんだぁ」
 その日、桜乃が久し振りに立海へ見学に訪れた時のこと。
 テニスコートへ近づいたところで、彼女の目に一人の若者の後姿が見えた。
 短いが、艶やかで手入れの行き届いているだろう髪。
 すらりとした長身で、しかししっかりとした筋肉を纏った身体。
 右手には愛用のラケットを手にしているその男は、今の桜乃には丁度背を向ける形でコートの方を見つめている。
 立海の男子テニス部の部員はかなりの数がいるのだが、訪れる機会が多い桜乃は、今は後姿だけで大体その人が自分の知己であるかどうかぐらいは見分けられる様になっていた。
「柳生さん、こんにちはー」
「ん?」
 とことこーっと傍に走り寄って来た少女に気付いた若者が振り返る。
 その顔には彼の表情を押し隠す偏光眼鏡が掛けられていたが、桜乃の姿を認めたところで彼が微笑んだという事は分かった。
「ああ、竜崎さんでしたか」
「お久し振りですー」
 振り返った若者と少女が間近で向き合い、互いに微笑み合って挨拶を交わし…たところで、ん?と桜乃が首を傾げ、そしてああ、と頷いた。
「今日は入れ替わっているんですね、仁王さん」
「……」
 自分のものではない名を呼ばれて、相手がぴたりと押し黙る。
 名を間違われた、或いは他人だと言い掛かりをつけられた事に不快になっているのかと疑わせる態度だったが、その数秒後に柳生はいつもの彼らしくなく、にやりと唇を歪めた。
「ほっほー…よく分かったのう、竜崎」
「やっぱりそうでしたか」
 あっさりと指摘を肯定された桜乃はにこりと笑ってそう返したが、柳生の姿に化けていた仁王の方は、一度は笑ったものの、今度は少しだけ眉を顰めて首を傾げる。
「何で分かったんじゃ? 今日は特に気合を入れて化けたんじゃがのう」
「う〜ん?」
 問われてみて、桜乃は素直にそれについて考え込んで唸った。
 この仁王雅治という立海の三年生は、テニス部レギュラーの中でも『詐欺師』という異名で呼ばれる程の曲者である。
 悪者ではなく、人の不幸を手を叩いて喜ぶ様な人間でもない、が、自分の心を相手に見せる程に素直な性格でもない。
 嘘と真を織り交ぜて紡ぐ言葉に周囲の人々は翻弄され、千変万化の外見にころりと騙される。
 しかし、騙されたからと言ってそれが相手の人生のデメリットになることはない…少なくともテニスコートの外では。
 そしてそんな騙された彼らの姿を見て楽しげに笑う…それが仁王だった。
 扱うにも付き合うにも一筋縄ではいかない若者なのだが、そんな彼と特に親しくしている男が同じく立海にいた。
 それが今、彼が化けている柳生比呂士という人物だ。
 親しくしているということは、『似たもの同士』かと思われがちだが、これがとんでもない。
 正に仁王と比較したら真逆の人物なのである。
 根本は仁王と同じく悪人ではない、寧ろそう呼ばれる存在からは最も遠い若者だ。
 仁王が『詐欺師』と呼ばれるのに対し、柳生に付けられた仇名は『紳士』。
 その仇名の示す通り、柳生は全てに於いて真っ直ぐな、人の模範と呼ばれるに相応しい善人である。
 常に礼儀正しく、親切で、相手を不快にさせるような事は一切しない。
 彼がテニスの他に愛するスポーツであるゴルフは、そのルールブックの第一章に『エチケット』が記されているという事も、彼の人となりを示す良い例だ。
 傍から見れば最も縁遠いだろうと思われる筈の二人だったが、今やテニスでダブルスを組む程に親しくなっている事は、外野の人々から見たら奇跡に等しい事だろう。
 出会った当初こそいがみ合っていたらしい二人だったが、そこに何があったかは知らない。
 互いに通じる何かを見つけたのか、それとも互いに無い何かを認めたのか。
 何れにしろ、気がついた時には仁王の勧誘に乗る形で柳生がテニス部に入部し、二人の入れ替わりが極秘に行われるようになっていた。
 元々が身長も近く、顔立ちも同じく整っていたので可能だったのだろうが、やはり最も驚くべきは彼らの性格の擬似。
 今や彼らの成り代わりを見抜けるのは部長の幸村ぐらいだったのだが、最近見知ったこの竜崎桜乃という娘も、その特例の一人になっていた。
 しかも、幸村とは三年近い付き合いがあるのに対し、この桜乃とは一年足らずのそれしかないのだから驚きだ。
 では普段から余程切れる女性なのかと言われたら、これもまたとんでもない話。
 いつもは道によく迷い、自分のついた嘘にすら大いに動揺して自爆、人を騙すなど一生無理だろうという天然娘なのだ。
 そんな彼女に、最初に自分達の変装を見抜かれた時には、少なからず彼らは大いに落ち込んだ。

『あんなラリホー娘に、俺達二人の変装が…』

 プライドもあったのだろう、二人はそれから更に技を磨き、ステップアップを図ったのだが、それでも少女の目は誤魔化す事は出来なかった。
 そして今日もまた…
 ここまできたら半ば諦めの境地に達しているらしい仁王だったが、それでも理由を知りたい気持ちはあるらしく、先程の質問になったのだった。
 それに対し、暫く悩み、考えていた桜乃の返事は…
「…詐欺師スメルがそこはかとなく香ったと言いますか…」
「………」
 聞いた仁王は冗談なのか本気なのか、自らの腕を上げてテニスウェアー越しにくんくんと匂いを嗅ぎ始めた。
「あ、いえ、そういう意味ではないんですけど…」
「…よう分からんの〜」
 結局匂いについては早々に諦めた仁王は、ふと桜乃を見下ろして、にやりと再び意味深な笑みを浮かべた。
 きっとその偏光眼鏡の奥の瞳も楽しげに揺れていたに違いない。
「…ところで竜崎。今度の日曜、お前さん、空いとらんか?」
「はい?」
 何ですか?と顔を向けてくる桜乃の頤に右手を沿え、柳生の姿をした仁王は妖しい笑みを称えながら顔を相手のそれに近づけた。
「俺と一緒に遊ばんか? お前さんの知らん楽しいコト、い〜っぱい教えちゃるぜよ」
「え…」
 思わず、桜乃がたじ、と一歩引いたその時。
「やめたまえ!!」

 ぽっこーんっ!!

「いて」
「きゃっ」
 突然、桜乃に迫っていた仁王の頭が軽く揺れた。
 自分で動かしたのではなく、外部から運動エネルギーを受けて振動したのだ。
 もっと分かり易く言えば、飛んで来たテニスボールが側頭部を直撃して、仁王の身体が仰け反ったのだった。
 ボールが当たった側頭部に仁王が手をやり、何事が起こったのかと桜乃が狼狽していると、その場に地獄の底から響くような声が聞こえてきた。
「に〜お〜う〜く〜ん〜…?」
「あいててて…何をするんじゃ柳生〜」
 痛い痛いと自分の頭を撫でる仁王の主張は完全に無視で、その地獄の使者は銀の髪を揺らせながらつかつかつかっと二人の方へと向かってきていた。
 テニスウェアーに着替えた相棒と異なり、仁王の姿に化けている柳生はまだ制服姿で鞄を持っている。
 先程投げられたテニスボールは鞄の中から取り出されたものなのかもしれない。
「それはこちらの台詞ですっ!! 私の格好でなんて破廉恥な真似をしてくれているんですか!!!…ああ、どうもこんにちは竜崎さん。どうぞゆっくりしていって下さいね」
「はぁ…どうも」
 今は互いが変装し合っているのは頭では理解しているのだが、見た目では仁王が滅茶苦茶丁寧な言葉遣いで柳生の胸倉を掴み上げて怒声を上げ、一方では桜乃に実に優しい笑顔で挨拶をしているので、非常に…気持ちが悪い。
(知らない人が見たら、仁王先輩が頭打ったかと思うだろうな…知っている私でもまだちょっと慣れないもん…)
 ぼーっと桜乃がそんな事を考えている間にも、仁王の姿をした柳生の相手への糾弾は止む様子を見せなかった。
「あなた、先生に叱られる事を察知して今日の変装を申し出ましたね…お陰で私は今の今まであなたの代わりに説教を受ける羽目になりました!」
「ありゃー、そりゃ気の毒にー(棒読み)」
「あなたは大体…げほっ! 普段から…げほげほっ…!!」
「や、柳生さん、大丈夫ですか!?」
 怒りの余りに勢いが過ぎ、むせてしまったらしい相手に桜乃が気を掛ける。
 さすさすさす、と背中を優しく擦ってもらえたことで、ほんの少しだけ柳生の怒りのボルテージが下がった。
「す、すみません、竜崎さん…お見苦しい処をお見せして…」
「いいんですよ…咳、治まりましたか?」
 仁王の姿の柳生と少女が視線を交わして微笑み合ったところで、けっと柳生姿の仁王がやさぐれながら言い切った。
「本ばっかり読んどるから軟弱になるんじゃよ」
「あなたのお陰で未体験の説教を頂きましたからこうなったんですっ!!」
「? どんな事を叱られたんですか?」

『……………』

 何気ない桜乃の質問が、男達二人の時を止める。
 一旦口を閉ざした二人は、ちら、と互いの顔を見合わせた後にそれを逸らし…数秒前の反目し合っていた事すら忘れた様に口を揃えた。

『何でもない(ありません)』

「……」
 絶対に何かある…と確信を抱いた桜乃だったが、向こうは互いにぽんぽんと少女の肩を叩いて、気にしないように促した。
「世の中、知らん方が幸せなコトもあるんじゃよ」
「どうかあなたは、そのまま穢れずにいて下さい…」
「…はぁ」
 正直まだ興味はあったものの、この二人が結束して秘密を守る以上、自分如きでそれを打ち破れる筈もない。
 言いたくない事を無理やり言わせる悪趣味でもなかった桜乃は、少し残念に思いはしたが、そこはそのまま引き下がった。
 そしてそこでタイミング良く部長である幸村の集合の声が掛かって、二人と少女は一時的に離れる。
「んじゃ、いつもの様に気をつけて見学するんじゃよ」
「コートにあまり近づくと危険ですからね」
「はい」
 しっかりと注意を促してコート中央へと向かって走る二人は、桜乃からある程度離れたところで、意味深な会話を始めた。
「あーあ、お前さんがもう少し遅ければ、デートのお誘い上手くいっとったのにのう…」
「それは残念でしたね。確かに私の姿で誘った方が向こうも乗り易いでしょう」
「………すっごい自信じゃな」
「ええ、あなたと同じぐらいにね」
「フン」
 喧嘩越しとも呼べない、ただの軽口の応酬に、仁王が柳生の姿のままで鼻を鳴らす。
 しかしそれもここだけの話で、部員達が集まっている場所に行けば、彼ら二人は互いを完璧に演じるのだ。
 その時ひゅうと風が吹いてきて、塵を吸い込んだのか柳生は再び一度咳をした。
「けほっ」
「ん、平気か、柳生」
「ええ、何でもありません。それよりばれない様にして下さいよ」
「俺を誰だと思っちょるんじゃ」
 詐欺師にその台詞は、釈迦に説法よ、と笑う相棒に、柳生も苦笑しながらも反論せず、一度だけ頷いた。



 そんな平和なのか慌しいのか分からなかった部活動の翌日。
 今日も同じ様にテニス部の朝練が始まろうとしていたが、いつになく仁王が落ち着かない様子で部室内をうろうろと歩き回っていた。
 柳生の姿がないのである。
(おっかしいの〜〜〜、別にいじめたりとかはしとらんし…)
 少々不健全な事を考えていると、そこに部室内に設置されている電話の呼び鈴が鳴り、一番傍にいた丸井がそれを取った。
「へいもしもし?……? アンタ誰?」
「?」
 不思議な事を言った丸井にはた、と仁王が注目し、後ろから器用に相手の持っていた受話器を取り上げた。
「あ」
「もしもし?」
『も"し"も"し"…?』
 向こうから聞こえてきたのは、かろうじて聞き取れるものの、とても普通の人間とは思えない特殊加工された様な声だったが、それを聞いた仁王はあっさりと相手を言い当てた。
「なーんじゃ、やっぱ柳生か。どーした? これから脱皮でもするんか?」
『風"邪"です"っ!!』
 いつもの様に会話を始めた仁王に、後ろから受話器を奪われた丸井がぎょっとした顔を向ける。
「どーしたんすか? 丸井先輩」
「…あの声で誰か分かるなんて、すげぇな〜」
「ああ…愛でしょ、愛」

 どかっ!!

 柳生との会話は続けつつ、背後でいらんコト言いの二年生の後輩を背を向けたまま蹴り飛ばすと、仁王は再び電話に集中する。
「そーか、まぁその声の様子じゃあどの道登校は無理じゃろ……親御さんは? そうか、ん、分かった、先生と幸村には俺が言うとくよ、お大事に」
 そして、ちん!と受話器を置くと同時に、蹴飛ばされた後輩が仁王に迫って文句を言ってきた。
「ちょっと仁王先輩!! いきなりケリ入れるこたないでしょ!!」
「おぞましいコト言うからじゃ」
 あっさりと言い返したところで、彼は続けて幸村に声を掛けた。
「幸村、今日は柳生、風邪で休むそうじゃ」
「そう…大体の事は脇で聞いていたから分かったけど…あの柳生が珍しいね」
「全くじゃな…どうせ夜更かしで読書に明け暮れてでもおったんじゃろ、迷惑な話よ」
 言いながら仁王は胸ポケットからミニサイズの手帳を取り出し、
「ま、俺には関係ないし」
と言いながらぱらりと中を捲り、
「適当に先生に連絡して」
と言いつつ、空いているページに柳生の好物である『心太(ところてん)』の文字をしっかりと書き込み、
「後は放置でええじゃろ」
と、再び手帳をポケットにしまい込んだ。
「…………」
 無言で詐欺師の行動を見詰めている部長の前で、彼は更に、
「ああ、アイツが休みなら、その隙に抜け駆けで竜崎と楽しむんもええかな」
と携帯を取り出して誰かの電話番号を呼び出し…
「……おー、竜崎、お早うさん。仁王なんじゃけど、柳生が風邪で倒れよってなー、今日暇なら見舞いに行かんか?」
 目当ての少女に召集の誘いを掛けていた…柳生の実家まで。
「…………」
 物凄い言行不一致を目の当たりにしながら、幸村は尚無言で相手を見つめていたが、どうやら約束を取り付けたらしい相手が電話を切ったところで、しみじみと呟きながら背を向けた。
「愛だなぁ…」
「違う!!」



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