夕刻…柳生宅
「…三十八度」
ベッドの中に入りながら、柳生はその日五度目の体温測定を行っていた。
「まだ高めですが、朝よりは幾分マシですね…喉もどうやら元の声に近付いてきた様ですし…」
体温計の本体をケースに入れてから蓋をぱちりと閉め、枕元のキャビネットにしまった。
そして少し起こした身体を再び横たえ、はぁと息を吐き出しながら腕で顔を覆う。
いつも欠かさない偏光眼鏡も、この時ばかりは外されておりキャビネットの上に置かれていた。
「……不覚」
最近、家人の中で風邪が流行り、自分も少なからず彼らの世話をしていたが、その時も流行らない様に十分注意はしていたのに…見えないものが相手というのは厄介だ。
しかし風邪については治せば済む話で、今の柳生はそれ以上にしでかしてしまった不覚を大いに悔いていた。
(仁王君に朝の声を聞かれてしまったとは…間違いなく半年は話の種にされてしまいます!!)
思わずベッドの中でじたばたと悶えてしまいそうになりながら、柳生はその衝動を必死に抑え、改めてもこもこと掛け布団を首までしっかりと引き揚げた。
病人に必要なのは…先ず何より休息だ。
(とは言え、昼過ぎまでずっと寝ていましたからね…寝ようと思ってもなかなか…)
家人たちは全員仕事で出払っているし、あまり食欲もないし、起きだしたところで何をする訳でもないし…
(…読書でも)
ぴんぽーん…
柳生が唯一楽しめそうな暇潰しを思いついていた時に、自宅のチャイムの音が聞こえてきた。
「ん…」
客人…ですか。
思いながらも、柳生はそこから動く気配は見せない。
何故なら…
(…パジャマ姿ですしね…会って風邪を移す訳にもいきませんし…申し訳ありませんが、連絡の無かった方には今日だけは失礼させて頂きましょう)
つまり、居留守を使おうということだ。
しかし、只の宅配業者や勧誘であればその技も通じただろうが、この時玄関に立っていたのは…
「…お返事ありませんねぇ」
「居留守じゃろ」
桜乃を呼び出し、柳生本人には非通知でお見舞いという名の強襲を掛けた仁王その人だった。
二人で、途中何処かで買出しでもしたのか、若者の手にはビニル袋が握られている。
全然家の中から反応がない事に、桜乃は不安そうに首を傾げていたが、詐欺師は分かっているとばかりにふんと鼻で笑っていた。
「あいつの家族は帰りが遅いからの、今の時間は家で寝ちょる奴だけよ…普段、『紳士』を気取っとる奴が、そんな格好で人前にそうそう出る訳ないじゃろ」
「え…じゃあ、私達がお邪魔するのはご迷惑じゃ…」
「そして」
躊躇う桜乃の言葉を遮るように、仁王は発言しながらちゃきっと一本の鍵を取り出すと、その玄関のドアに差し込んで難なく捻った。
ガチャリッ…
心地よく聞こえる開錠の音
「そんなアイツの顔を拝むのが俺の楽しみでもあるんじゃなぁ」
(逃げてー! 柳生さーんっ!!)
いつの間に合鍵なんか作っていたんですか!?という突っ込みも許される間もなく、玄関のドアが容赦なく開かれる。
勝手知ったる他人の家とばかりに、仁王は玄関に悠々と入り、靴を脱いで上がり込んだ。
「柳生の部屋は二階じゃよ。ほれ、行くぜよ」
「あああ…行くしかないと分かっていても物凄く行きたくない…」
まさかこんなお邪魔の仕方をするなんて…と嘆きつつ、桜乃も仕方なく相手の後に続いた。
まさか下でそんな事が生じているとは夢にも思っていなかった柳生は、もうてっきり訪問者は諦めて引き揚げたとばかり考えていた。
(誰だったんでしょうね…けど、流石にもうお帰りになった…)
がちゃがちゃがちゃっ…
「っ!!」
思っている傍から、今度は自室のドアがけたたましい音をたてた。
普段から隙を見せない柳生の性格から、今日は自室のドアにも鍵を掛けていたのだ。
ざーっと顔色が引いてゆく柳生の目の前で、ドアの向こうの気配がぼそぼそと何かを話しているのが聞こえてくる。
『や、やめましょうよぉ、お部屋の中に勝手に入るのは…』
『ええからええから、遠慮なんぞいらん』
まるで自分が部屋の主の様なむかつく台詞と一緒に、がちゃがちゃっ、ピーンッ!とドアノブから嫌な作業が完了した音が聞こえてきた。
(このヘアピンでの鍵開けの技術は…っ!!)
そして…
「おう柳生、鍵ぐらい掛けとかんと襲われるぜよ」
堂々とした様子で銀髪の詐欺師が入室してきたが、病床にある柳生は最早、紳士的に彼を迎える心のゆとりは持ち合わせていなかった。
「掛けてますっ!!」
読もうと思っていた小説の文庫本を思い切り仁王に投げつけたが、あっさりとかわされ、相手はそれを器用にばしっと手で受け止めた。
「お、元気そうじゃの、安心したぜよ」
「あなたのお陰で、たった今、熱が二度ほど上がりました…」
ぜーひーと荒々しい息遣いの柳生は、その眼鏡の掛っていない顔で仁王を軽く睨んだが、確かに相手と似て涼しげな眼元であり、似ていると言えばその通りだ。
一気に上がった熱の所為で顔が若干紅潮していたが、それはある種の艶を醸し出している。
「一体何しに来たんですか…」
「嫌じゃのう…病に臥せった友達の処に来る理由と言えば一つしかないじゃろ?」
爽やかに笑いながら、仁王はひらひらと手を振ってきっぱり。
「冷やかし」
「…………」
無言で、柳生が『さーて』と心の声と共に、部屋の壁に置かれていたゴルフクラブを手に取った。
何と無く密室犯罪の匂いを感じ取って、詐欺師が即座に訂正。
「ウソ、お見舞い」
「不要ですっ!! お引き取り下さい!」
「え〜? つれないの〜、折角柳生クンの大好きなトコロテン、買ってきてやったのに〜」
がさっと手にした白のビニル袋を掲げて、仁王が自分の正当性を主張する。
合鍵を使って他人の家に侵入し、ヘアピン一本で他人の部屋の鍵を開けて無断入室した空き巣紛いの見舞い客など前代未聞だ。
「……要りません」
本当は即座に拒否したかった柳生の返答が、一秒未満ではあるが若干遅れたのは、好物の食べ物の名前を聞いたからだろう。
当然その差を見逃す詐欺師ではなく、彼は更に部屋に居座るべく揺さぶりをかける。
「ありゃ、これじゃまだ足りんか…」
ほう、と頷いた仁王が次に出してきたのは……
「え?」
ドアの陰ではらはらと二人の様子を見守っていた桜乃だった。
「んじゃ、流血大サービスでこいつも付けちゃる」
「っ――――――――!!!」
思わず上げようとした悲鳴を抑えたのはせめてもの紳士としての心意気。
何故いきなりここに彼女がいるのかという疑問はさておいて、吃驚しながらも紳士が先ず真っ先に行おうとしたのはキャビネットの上に置いてあった眼鏡を取ることだった。
かろうじて上げた腕で自身の顔を隠しつつ、キャビネットに走りより目的の物を取ろうとしたのだが…
「本邦初公開、柳生メガネバージョンの仁王雅治」
「きゃーっ!」
「仁王君〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
一足先に相手の動きを読んだ仁王が、彼の眼鏡を取って、すちゃっと自分に装着して桜乃に見せていた。
滅多に見ないスタイルに桜乃も思わず歓声を上げて大喜びしていたが、柳生にとってはとんだ羞恥プレイである。
「いいから返しなさいっ!!」
「はいはい、あんまり怒ると本当に鼻から流血するぜよ」
「あなたはゴルフクラブで頭蓋骨陥没ですね」
さらっと怖い返答を返しながら、柳生は返してもらった眼鏡を掛けた後に、改めて見舞客二人を見回した。
「何なんですか、この見舞客の人選は」
「え、ええと、ええと…今日の朝に柳生さんがお風邪で寝込んだと仁王さんから聞いて、お見舞いに誘われたので…」
「!」
仁王が桜乃に誘いをかけたという事を聞き、柳生が軽く目を見開いていると、にょっとそこに本人の詐欺師が笑顔で割り込んできた。
「お加減どうじゃ? レアなパジャマ姿の紳士サン」
「そうですねぇ…良さそうに見えますか?」
家に侵入されてドアは無断開錠されて眼鏡は奪われてパジャマ姿は露呈されて…これで気分が良かったら、その人物は間違いなくドMだ。
ふるふると震えながら眼鏡のフレームに手をやった柳生に、桜乃が気遣って声を掛けた。
「あのっ…急にお邪魔してすみませんでした……ご迷惑なら、すぐにお暇しますから」
「い、いえ! 決してそういう訳では…!」
「何言うちょるんじゃ、お前さんが一番の薬なんじゃけ帰ったら意味ないじゃろ」
「〜〜〜〜〜〜!!」
何処まで自分の病状を悪化させる気か分からない詐欺師の首を、ぎゅ〜〜っ!と紳士が思い切り両手で絞め上げた。
「ぐええええ!!」
「きゃーっ! 柳生さんストップです〜〜!」
「止めないで下さい竜崎さん…紳士として、最早この宇宙レベルの害悪をこれ以上野放しにする訳にはいきません!」
すわ殺人事件!?とも思えるシーンだったが、勿論それは完全な実行までには至らずに、程なく仁王は相手の手から解放されてけほけほと喉の調子を整えた。
「あー、本当に死ぬかと思ったぜよ」
「こっちは本当に殺すかと思いました」
「…えーとー…」
相変わらずの二人の会話に桜乃が突っ込みかねている間に、柳生がストンとベッドに腰を下ろし、桜乃には室内にあった椅子を勧めた。
椅子は一つしかなかったので仁王は必然的に起立の状態だったが、彼もレディーファーストには賛成の立場であるらしく、彼女が座るのには文句はなかったのだが…
「…俺の椅子がないんじゃが」
「ではここにどうぞ……正座で」
柳生が指差したのは自分の前のフローリングの床。
シチェーション的には、完全に上から目線で叱られる位置である。
「…ノーセンキューじゃ」
「ではそのままでいるんですね」
受諾するはずがないと最初から分かっていた紳士は、向こうの予想通りの返答に即座に返したが、仁王は何となく面白くない顔をして…
「ふーん…」
と言いながらすたすたすた、と相手のベッド脇に近づき、すとっと柳生の隣に座った。
「じゃあここにする」
「全く…」
言いながらも、柳生はもう怒っていない様子で友人の行動に苦笑し、そんな二人を見て桜乃も微笑んだ。
「同じ事を聞いてしまいますけど、お加減は如何ですか?」
「ええ、お陰さまで…朝は喉が少々不自由でしたが、今は父が処方してくれた薬のお陰でかなり楽になりました」
ぶふっ…!
「……」
「……」
「…?」
不意に仁王が漏らした吹き出し笑いに、桜乃がぽかんとしたが、若者達二人はしーんと沈黙を保つ。
『あーの声で少々のう…』
『ほっといて下さい』
交わされた声無き会話には気付かずに、桜乃が更に柳生に問う。
「お食事は食べられてますか?」
「ええ…流石に少しは摂らないと、回復が遅くなりますからね」
「夕食はどうするつもりなんじゃ? 今日は家の人も遅く帰る日じゃろ」
「適当にレトルトがありますからそれで済ませます。最近のはあれで結構バランスも取れてますし…」
「ふーん…予感的中じゃな」
「え?」
にやっと仁王が含みのある笑みを浮かべる脇では、何となくやる気に満ちた桜乃がすっくと立ち上がっていた。
「よし、桜乃号出動じゃ」
「イエッサーです!」
「え?」
張り切ってビニル袋抱えて廊下に出て行く桜乃を見送る柳生に、仁王がしれっと説明する。
「幾つか食材も買ってきたからの。レトルトなんぞより手作りの方が栄養もあるし美味いに決まっとるじゃろうが…アイツの料理の美味さは俺らの中でも折り紙つきじゃし」
「そ、そんな、見舞客にそこまでさせる訳には…」
止めようとした病人の腕を掴んで、仁王は有無を言わさず彼をベッドに引き倒した。
「っ!!」
「お前さんは寝ときんしゃい」
これまでの冗談めいた口調から一転、桜乃が消えた後の彼の言葉は至極真面目なものだった。
「さっき首絞められた時…加減しとったとは言え明らかに力が落ちとったの。ちょっとしぶとそうな風邪じゃ、大人しくしとった方がええ」
「……」
ふざけていても、肝心の時には配慮してくれる親友の言葉に感動しているのかと思いきや…
「…竜崎さん『だけ』が来て下さっていたら、大人しくもしていられたんですが」
「何じゃとこの堅物メガネ」
柳生の心からの溜息と共に吐き出された言葉に、詐欺師がぴきっと空気を凍らせる。
「竜崎はお前には渡さんと、何度言うたら分かるんじゃ」
「竜崎さんはあなたのものだと誰が決めたんですか…まだ恋人のこの字の進展もないでしょう」
「鏡見て言いんしゃい。あの子に気持ちを気付かれてもおらんクセに」
「そちらこそ」
「……」
「……」
恋敵同士のいつになく熱い舌戦だったが、やればやる程に自らの傷も抉られていくことで、二人は空しさを覚えて次第に無言になっていった。
『フン』
同時に鼻を鳴らし、柳生はもこもこと布団を被ってふて寝の状態に入り、仁王は相手に背を向けて、椅子の背もたれに向かう形で座った。
「……あなたを見ていると、時々、酷くイライラします」
「はぁ?」
向こう側を向いての相棒の言葉に、仁王は振り返らずに返す。
「…どうして連れて来るんですか…わざわざ私の処へ」
「……」
「……ただの風邪です、死んだりしません。放っておいて、その間に抜け駆けでも何でもして、恋仲になってしまえばいいじゃないですか…あなたの狡さは私が一番良く知っています」
「…はん」
そこまで堂々と言うんなら、俺が手ぇ出せんことも知っちょるくせに…寧ろ、詐欺師の俺より、お前さんの方が狡いじゃろ。
俺を出し抜くコトが出来るだろうお前さんこそ、何故今になってもアイツに手ぇ出さんのじゃ…
(ま、理由は俺と同じじゃろうな…全く変なトコロで似ちょるもんじゃ…)
自虐的な笑みを浮かべながら、椅子の背もたれに抱きつきつつ、仁王はかろうじて聞こえる声で応じた。
「……そんな事はせんよ……お前さんは…俺の相棒じゃけ」
「……」
『…フン』
もう一度同時に鼻を鳴らした二人は、それ以上は何も言う事もなく無言で背を向け合い、しかし確かな絆を認め合っていた。
そしてその夕方、桜乃の手作りの食事を食べられた事は、柳生にとってかなりの養生となった。
ただ、身体が全快した後も柳生が納得いかなかったのは、仁王が自分の病に便乗して、同じく桜乃の手作り料理をちゃっかり頂いていたという事だった。
もしかしたら、詐欺師は最初からそれが目的だったのかもしれない。
そんな『詐欺師』と『紳士』の二人の付き合いは、桜乃との微妙な関係も含めて、今も相変わらず続いている…
了
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