君の温もり


「し、失敗だったぁ、ちょっと早まっちゃったなぁ〜…」
 その日、桜乃は冬服にマフラーのみを巻いた姿で登校していた。
 他の生徒の姿もちらほらと見られる早朝、コートをまだ纏っている生徒も数多く見受けられる通学風景。
 時は三月…もう春に近い時期ではあるのだが、昨日、今日の気圧配置の影響で、ここ数日の気温は大きく下がり、冬のそれに近いものに戻ってしまっていた。
 それが桜乃にとって大きな誤算だった。
 一昨日以前の気温は確かに暖かいものが数日以上続き、いよいよ春の到来かと期待に胸を躍らせていた。
 そして、踊りついでに、冬物のコートなどを一斉にクリーニングに出してしまったのが過ちの元だったのだ。
 今日になっていきなり冬に戻った様なこの寒さ。
 慌ててみてももう遅い。
 寒いから学校を休みます、という言い訳が通じるような社会でもなく、仕方なく桜乃はマフラーだけのごく軽装備で登校と相成った。
 桜乃にとってのもう一つの不幸は、彼女自身が酷く寒がりだという事だった。
 低血圧が影響しているのかどうかは不明だが、幼い時から冬には霜焼けを作ってしまったりと、なかなか難儀な体質らしい。
 そんな桜乃にとって今日の軽装による登校は、ある意味拷問に近いものとも言えた。
(うう、準備良すぎたなぁ、もうちょっと後にクリーニング出せば良かった…とにかく今日は帰りにクリーニング店に寄って、コート貰っていかないと…)
 桜乃は、今は立海大附属中学の一年生。
 青学からこの学校に転校を果たして早半年余りの時が過ぎた今はもう、すっかり今の生活に馴染んでいる。
 友人達も出来て有意義な学生生活を満喫している真っ最中なのだが、今日の事もまた、いずれは笑って話せる青春の一ページになるのだろうか。
 しかし、今はそんな未来の事を考えるゆとりはなく、桜乃は少しでも動いて熱産生を図りながら登校している。
 本来は、こんなに早く登校する必要はないのだが、彼女には毎日果たさなければならない仕事があるのだ。
 それは…
「おう、竜崎。おはようさん」
「! あ、仁王先輩…」
 不意に背後から声を掛けられて振り向くと、銀の色が目に鮮やかに飛び込んできた。
 すぐにそれが相手の髪の色だと気付いたところで、桜乃は笑って挨拶をする。
「お早うございます。寒いですね」
「ああ、まあの…」
 そこにいたのは、同じ中学の三年生、仁王雅治だった。
 男子テニス部に所属している、何とも捉えどころのない人物である。
 彼が朝早くに登校するのは、その部の朝練に参加する為であり、それは桜乃も同じだった。
 そう、桜乃もまた、今は立海男子テニス部のマネージャーという任を負っているのである。
 だからこそ、朝早くに登校する必要があったのだ。
 そんな少女をいつにも増してまじまじと熱心に見つめていた仁王は、ん〜、と首を傾げながら相手に問い掛けた。
「そう言う割には寒そうな姿じゃのう…コート、質にでも入れたのか?」
「クリーニングです…」
 相変わらず何処かずれている質問に返しながら、桜乃は相手と並んで再び歩き出す。
 かなりの身長差がある二人だが、彼らの会話には何ら支障はない。
 仁王はその端正な顔立ちと秘密めいた雰囲気で、女子生徒にも人気が高い男である。
 しかも、全国的に名高い立海のレギュラーを張っていた事も彼という男に箔を付けており、よく告白されてもいるらしい。
 が、彼は今はテニスの方が楽しいと、これまでの女性からの告白を全て振っているのだ。
 まぁ、色々と股をかけて付き合うよりも余程ましな対応でもある。
 そんな、実は硬派な一面を持つ若者だが、マネージャーでもある桜乃とは非常に良い先輩後輩の関係を築いており、見せる笑顔も優しかった。
 元々レギュラー全員が桜乃を非常に気に入っており、妹みたいに接しているので、彼の優しさもそう目立っている訳ではないのだが。
 それでも、桜乃は仁王の砕けた表情を見る事が出来る、非常に稀有な存在だった。
「何なんですか、質って…私、そんなに生活が破綻している様に見えますか?」
「いや、そうは言うけどのう…お前さん」
 ぷーっと頬を膨らませて抗議する後輩を可愛いと思いつつも、仁王はぴし、と相手を指差して反論。
「この寒空にそんな薄着紛いの格好されとったら、そう疑いたくもなるじゃろうが。しかも普段は寒がりのお前さんじゃから、疑い、更に倍率ドン」
「ううう…そこまで貧乏じゃないもん…」
 くすん…といじける少女に、仁王はすまんすまんと笑って謝罪し、彼女の詳しい説明を聞いて改めてその寒そうな服装を見つめた。
「…成る程のう、クリーニングか…しかしちょーっとばかり早すぎやせんか?」
「反省してます…部活に参加したらすぐにあったかくなると思うんですけど」
「……」
 己の身体を抱いてぶるっと身を震わせる少女を見ていた仁王は、ふ、と微かに口元に笑みを浮かべると、徐に歩きながら自分のコートを脱いで、ふわりと相手の肩に掛けてやった。
「!?…え」
「着ときんしゃい、竜崎。マフラーだけじゃ流石に辛かろ」
「え、でも…そうしたら仁王先輩が…」
 自分がこれを相手から奪ってしまったら、彼がマフラーだけになってしまう…と、桜乃は慌ててそれを外して仁王に返そうとしたのだが……
「少なくともお前さんよりは、脂肪率少ないし」
「ムカつく〜〜〜〜〜っ!!」
 仕方ないもん、女の子だもんっ!と腕を振り回して断固抗議する相手に、仁王は楽しそうに笑ってまぁまぁといなした。
「ま、俺は割りと寒さには強いからのう…女の子なら、尚更冷えは身体に悪い…ええから、着ていきんしゃい」
「う…」
 相手の言う事は確かに尤もで、着せてもらったコートは先程までの若者の熱を蓄えており、ほっこりと暖かく非常に魅力的なアイテムだった。
「……ほ、本当にいいんですか?」
「ああ、ええよ。可愛い後輩の為じゃけ」
 そういう言い方をこの男がするという事は…
「…何か企んでますね」
「ほう、よく分かったのう……けど、言わん」
「ううっ…悔しいけど、今はぬくもりが欲しーい!」
「ははは」
 きゅ〜っと自分のだぶだぶコートを着て暖を取る少女の姿が非常に愛らしくて、仁王が声を上げて笑う。
 何を企んでいるのかは分からない男だが、今は相手の好意に甘えようと、桜乃は彼の熱の残ったコートに身を包み、ほう…と両手を口元に持っていった。
 その袖も非常に長く、せいぜい桜乃の指先が覗くぐらいだ。
「…あったかい」
「…」
 嬉しそうに素直に微笑んだ少女は、この肌寒さの中で小さな熱を男の心に生んだ。
 確かに、仁王は寒さには強い体質なのか、コートを脱いだその後でも表情がまるで変わらない。
 まぁ普段から「詐欺師」と呼ばれているぐらいなので、取り繕うこともお手の物なのかもしれないが、それでも桜乃の笑顔が彼から一時でも寒さを忘れさせてくれた事は間違いなかった。
「…仁王先輩は寒さに強いんですか? 全然平気な顔してますけど」
「強い、と言うか…まぁ暑いよりは寒いほうがマシってとこかのう。からっとした暑さならまだええんじゃが、ムシムシしとると身体がベタつくあの感じが…」
「あ、分かります…でもあと数ヶ月もしたら、今度はそういう季節になりますよ」
「今から憂鬱じゃのう…」
「ふふふっ…」
 はーやれやれ、と溜息をつく先輩に、桜乃がころころと笑う。
 良かった、どうやらコートのお陰で寒さを忘れて笑えるぐらいにはなった様だと、仁王は心の中でほっと安堵する。
 まさか自分の企みが、相手のその庇護欲をそそる姿なのだとは夢にも思っていないだろう。
 賢しい女も嫌いじゃないが…この詐欺師がこんな無邪気な少女に心をやられてしまうとは…
(…理想と現実の違いってヤツかの…まぁこの場合は、現実の方がよっぽど好都合なんじゃが…)
「…また何かヘンなコト、企んでますね」
「ほう、表情でそこまで読む様になったか」
 何はともあれ、彼らは二人で仲良く登校し、無事に朝練にも間に合い、桜乃はそこで一度仁王に彼のコートを返却したのである……


 勿論、立海の学び舎に入ればそこは完全な空調設備によって管理されている。
 故に桜乃は通常の学校生活の中では問題なく快適に授業を受ける事が出来た。
 しかし、無論、気温の脅威が全て去った訳ではない。
 行きも恐いし帰りも恐い。
 そう、生徒には常に登校という行動と下校というそれが求められるのだ。
(はぁ…夕方も一層冷え込みそう…これは覚悟して下校するしかないわね…でも…)
 部活動中、桜乃はぱたぱたと忙しく走り回りながら、ちら、とテニスコートに立つ仁王の方へと視線を向ける。
(…もしかしたら変な気を遣わせるかもしれないなぁ…帰りはもっと寒くなるかもしれないから、帰りの時間をずらしてもいいかも…でもどうやって…)
 仁王に余計な心配を掛けさせないようにするには…と悩んでいると、一時休憩の合図と共に、元レギュラーに対して集合の号令が真田から掛けられた。
 既に現役からは退いている元レギュラーの三年生達だが、それでも彼らは部活動への参加は欠かさず行っている。
 理由は幾つかあるのだが、先ず何よりも、彼らがテニスから極力離れたがらなかったという事と、後輩達からも、彼らがいる間に出来るだけ技術を学びたいというたっての希望があったからだった。
 だからこの時期でも、附属の高校への進学が決まっている男達は、後輩達の進歩の妨げにならない範囲で部活動に顔を出しているのだ。
 そんな彼らの中でも、主に統括の任を負っていた真田弦一郎が招集を掛けたとは…
「? 何かしら」
 一応自分も話を聞いておいた方がいいかも、と思いながら、桜乃もその場へと急行する。
「あの…真田先輩? どうしたんですか?」
「ああ、竜崎…いや、お前には直接的な問題ではないからな。生徒会が、俺達三年の元レギュラーに対して終業式に際し何か賞をくれるらしいと」
「まぁ! それはいいことですね」
 自分の事の様に手放しで喜んでくれるマネージャーに、真田も苦笑はしたものの、そこはあくまで副部長らしく己を見失う様な行動はしなかった。
「くれるというのなら断ることもないが…それで俺達の何かが変わるという訳でもない。これが、益々己を研鑽する為の契機になればいい」
「ふふ…そうですね」
 いかにも厳格な性格の男らしい発言に、桜乃はにこりと笑って賛同し…改めて招集の内容について確認した。
「じゃあ、今からそれについてのお話ですか?」
「ああ、一応告知だけだ。詳しい事はこの部活動の終了後に生徒会の誰かが来て説明してくれるらしい……お前には直接的な関係はないから、引き止めるつもりはない。片付けなどが済んだら、先に帰宅してくれて構わん」
「そうですか…分かりました」
 正直、少しばかり興味をそそる内容だったが、そういう場所に部外者の自分がいるというのも、何となく野次馬の様に見られかねない。
 しかも、今回に限ってはこれは桜乃にとって絶好のチャンスだった。
(良かった、じゃあ仁王先輩達が集まっている間に私が下校したら大丈夫ね…流石に寒空にコート借りる訳にはいかないもん。帰りにあのクリーニング店に寄ってコートを受け取ったらそれでいいし…うん!)
 そうしようと心に決めた桜乃は、ほっと安心した様子で、レギュラー達の招集が済んだ後でも変わりなくマネージャーの仕事に集中する事が出来た。
 そして、部活動の全ての予定が消化されてから、コートなどの片付けもしっかり抜かりなく行い、桜乃はメンバー達に暇を告げる。
「あのう…じゃあ、私はこれで」
「ああ、お疲れさん」
「気をつけて帰れよ。日は長くなったが、女の一人歩きは危険だ」
 ジャッカルや真田の声が掛けられる中、仁王が何となくこちらを気にして視線を向けている様子が分かる。
「じゃあ、お先に失礼しますね、仁王先輩」
「ああ…コート、持っていかんか?」
 やはり、気にしていたのか、気遣いを見せた先輩の言葉に桜乃は笑って首を横に振った。
「大丈夫です。帰りにクリーニング店に寄ってから帰りますから」
 そこまで言われたら、こちらとしてもそれ以上無理強いをする事も出来ない…か。
 仕方なく、仁王は桜乃にしっかりと念を押した。
「そうか…早く家に戻るんじゃよ。風邪でも引いたら大変じゃ」
「はい」
 そして、桜乃は他のレギュラー達や仁王に言われた通りすぐに帰路について目的のクリーニング店に向かったのだが、そこに大きな落とし穴があるという事を彼女はまだ知らなかった…


 クリーニング店に学校から向かうには、いつもと同じ通学路から外れて、寄り道をしなければならない。
 しかし今日については仕方ないと、桜乃が割り切って普段とは違う帰り道の風景を眺めながら小走りに進んでいると、少し先の通りに何かの行列が並んでいる光景が目に入ってきた。
「ん…?」
 相変わらず朝と同じ…いや、それより冷え込みつつある風に曝されながら、マフラーを頼りに頑張っている桜乃は、何事だろうと視線をそちらに向けた。
 本当なら、何であるかを確認したら、そのまま素通りする筈だったのだ。
 しかし、確認した瞬間、少女の足は冷たい北風が吹きつける中、それでも止まってしまった。
(う、うそっ! あれって、超限定で滅多に食べられない究極のたい焼きじゃないっ!!)
 呼び名はかなりアレだが、桜乃の言葉は嘘ではない。
 何しろ全国紙にも掲載されたことがある店の目玉商品。
 あんこも皮もこだわりにこだわり抜いて、採算も度外視でやっているという噂の一品!
 しかし店そのものが主人のこだわりの為か大きいものではなく、それ故にそのたい焼きは売り出されたら即刻完売状態という、正に幻の名品なのだ。
(きゃ〜〜〜っ!! 丁度売ってるトコロに居合わせるなんてラッキー! あ、でも…)
 どうしよう、私はこれからクリーニング店に行かないと…と一度はその事が頭に過ぎった桜乃だったが、彼女は再度行列を見る。
(…クリーニング店に行ったら、もう売り切れちゃうだろうなぁ…)
 どうしよう、諦めるべきか、食い意地に徹するべきか……
(…そう言えばあれって…)
 仁王先輩も一緒になって話していたっけ…?
 その時桜乃の脳裏に、いつかその店の記事が載っている雑誌を見ながら、仁王と雑談を交わしていた時の事が思い浮かんだ。
 あれは…確か一ヶ月ぐらい前のことだっただろうか。
 部室で、部が始まる前の他愛ない雑談に混じっている時だった。
『何じゃ? スイーツ特集?』
『はい、結構近場でも美味しそうなものがあるんですよー。えーと、立海の近くだと…このたい焼きさんなんか』
 丸井から回して見せてもらっていた雑誌を仁王にも見せながら、桜乃が楽しそうに語ると、向こうもどれ、とそれを覗き込んだ。
『ああ、ここはよく知っとるよ、俺もよく通る道じゃけ。しかし俺らが行く時には、そんな騒動なんか見たことないけどのう…』
『問題のたい焼きさんはお昼に売り出されるみたいですから、私達学生にとっては高嶺の花ですねぇ』
『…たい焼きが花?』
『そこは気分の問題で』
 一応突っ込んだ仁王だったが、さらりと桜乃に返され、苦笑しながら彼は改めてそのたい焼きについて記載されている部分を読んでみた。
 非常に偏食の傾向がある仁王も、読んでいくにつれて徐々に興味の色が瞳に混じってくる。
『ほうほう……ううん、確かにそそられる内容じゃの』
『でしょ? 一度試してみたいですねぇ』
『ま、機会は限りなく少なそうじゃがなー』
 そう言って笑っていた仁王だったが、彼がそこまで言うのは珍しい事で、確かに興味はあるのだろうと知れた。
「……うん」
 回想から現実に戻った桜乃は、意を決してその行列に並んだ。
 もういい、コートは後回し。
 桜乃は寒空の中、マフラーを頼りにたい焼きを買うべく列の流れるのを待ち始めた。
 それを味わうという目的もあったが、何より桜乃が一番に考えたのは、あの天邪鬼な先輩の嬉しそうな笑顔だった。
(べ、別にいいもんね…滅多にない事だし…それに…仁王先輩も食べたいって言ってたし…)
 今日、コ−トを借りてしまったお礼に、これを贈ったら、少しは喜んでもらえるかな…
(……『暇じゃのー』とか、『太るぞ』とか言われそうな気がする…)
 それでも並んでしまう自分って…やっぱり、彼の事が……
「…はぁ」
 きっと向こうはこんな自分の想いなんか知らないだろうな…と、密かな恋心を抱いた少女は、溜息を零しながら、ずっと長い列が消化されていくのを待ち続けた。



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