しかし、夕暮れ過ぎた時刻ともなると、更に気温は低くなり、風もより冷たさを増してくる。
(うう……覚悟はしてたけど、やっぱり寒い…)
 寒冷の所為で自然と全身の筋肉に力が入る。
 一気にコリが酷くなりそうな程に緊張した筋肉の所為で、ぶるぶると震えまでもが出始めた。
 それでも、なかなか列は前に進まない…きっと焼きたてを渡しているのだろう。
(う〜〜〜…)
 ガマンガマン…とその少女が必死に寒さに耐えていたその時、ある一つの偶然が通り掛かっていた。
 仁王だった。
 部室での生徒会からの説明を受けた彼は、解散した後に何気なくこの道を選んで通っていたのだ。
 普段から変化を求める性質の若者は、時折こうして道を変えることがままあった。
 だから、こういう事は彼にとっては何でもない日常だったのだが、そんな彼にとっても例の行列は意外なものであり、勿論その興味を引いていた。
「…何じゃあ? 随分と賑やかな列じゃの」
 何だろうとその列に近づいた仁王は、最後尾の何処かの店員が、『たい焼きは本日分、完売しました』というプレートを持っているのを見て、すぐに察した。
 彼もまた、一ヶ月前の桜乃との会話を覚えていたのだ。
(ああ、あの例のたい焼きか…惜しかったのう)
 もう少し早ければ、並んで買えたかもしれない…そうしたら…
(…竜崎に渡せたかもしれんのに…ん?)
 何気なく見ていた列の中で、仁王の目を引く物体が見えた。
 腰まである長いおさげが二本…ゆらゆらと揺れている。
 その後姿の少女は、自分と同じ立海の制服を纏っていて、この寒空の中でコートも着ないで、マフラー一本を申し訳なさそうに首に巻いていた。
「〜〜〜〜〜〜!!!」
 まさかまさかまさか!!!
 コートを着て寒さは凌げているにも関わらず、その瞬間仁王の全身に鳥肌が立つと同時に、彼は大急ぎでその子の傍へと駆けて行く。
 そして傍に来たところで、そんな若者の気配に気付いた少女が、声を掛けられる前にくるっと振り向いた。
「…………」
「…………」
 お互いが、微妙な表情で暫く見つめ合う。
 どうしてこんな所にこの人が…というのが双方の正直な気持ちだっただろうが、はっと我に返った少女…桜乃は、慌ててくるっと背中を再び向けた。
 尤も……今更という話。
「………りゅ〜う〜ざ〜き〜?」
「う……」
 きっちりばれているのはもう分かってはいたが、流石に気まずさに振り返る事が出来ない…
 かなりトーンが下がった仁王の呼びかけにどもっていると、遂に痺れを切らせたらしい向こうが、がしっと肩を抱いて強制的に振り向かせ、淀みのない動きで少女の両頬を引っ張った。
「早く家に戻れと言うたじゃろうが〜〜〜〜〜っ!!」
「ふええええええん、ほへんらはひ(ごめんなさい)〜〜〜〜〜〜っ!!」
 周囲の奇異の視線にも構わず、二人はそれから暫し健全なるお仕置きタイム。
 う〜りう〜りと頬を思い切りこね回して少しは気が済んだらしい銀髪の詐欺師は、ようやく相手を解放してからも、形の整った眉をしっかりとひそめながら苦言を言った。
「今頃はとっくに家でぬくもっとると思っとったのに、何考えとるんじゃ…そんなに暇で太りたかったんか?」
「あああ、自分の予測通りになるのがこんなに嬉しくないなんて…」
 予想していた通りの相手のきつい一言に、ぐすぐすと鼻を鳴らしていた桜乃が、くちゅんっとくしゃみをした。
「!」
 そうだ、きっちりと叱ったはいいが、それで彼女の寒さが軽減される訳ではない。
 まだ暫く行列は続く、かと言って今更諦めろというのも酷な話である。
 しかし、相手の顔色も白いし…仕方ない、コートをまた…
「……」
 貸そうと思いつつコートの前のボタンを外していた仁王は、ふと何かを思いつき、ボタンを全部外して前を開ききったところで桜乃に声を掛けた。
「ほれ、来んしゃい、竜崎」
「はい…?」
 返事を返すと、向こうの若者がコートを開いたまま両手を軽く広げていた。
「人肌であっためちゃるけ」
「っ!!!!!!」
 あまりに大胆な相手の誘いに、純粋な少女は思わずずざっと後ずさりながらぶんぶんと首を横に振る。
「いいいい、いえいえいえいえ!! け、結構で…」

 びゅうう〜〜〜〜〜〜っ!

 断りかけたところで、ナイスタイミングと言うべきなのか、ここ一番の北風が強く吹きつけてきた。
 その一撃は桜乃の冷え切った身体に見事にとどめを刺してくれたらしい。
「〜〜〜〜〜〜!!」
 流石に生存本能には抗えず、一度は断りかけていた桜乃が、とてて〜っと仁王のコートの中に飛び込んでいく。
「……まぁ、素直なんは美点じゃよ」
「うう〜〜…」
 よしよし、と頭を撫でてやって、仁王はそれから再び桜乃を胸元に入れたまま前のボタンを留めた。
 身長の差で、桜乃はほぼすっぽりと上体がコートの中に隠されてしまったが、呼吸は難なく行える。
 外界と隔てた事で、仁王の少し前へと盛り上がったコートの内側は二人分の放熱のお陰でぬくぬくとかなりあったかくなってきた。
(ふわぁ…あったか〜い…)
 これなら自分達のたい焼きの順番が回ってくるまでは十分に待てそう…結局、相手にはまた迷惑を掛けてしまったけど…
 そんな事を桜乃が考えている一方、上手く少女を取り込む(?)事に成功した詐欺師は、コートの中に感じる相手の存在に上機嫌だったが、そんな彼に不意に声が掛けられた。
「あーっ! 仁王だーっ!!」
「おっ、お前も今日はこっちだったのか?」
 見ると、向こうの通りの端から、自分を見つけたらしい仲間の丸井とジャッカルが向かって来ていた。
 特に、この行列の正体を知っている丸井の食いつきっぷりは尋常ではない。
「いーなーいーなー!! これって伝説のたい焼きの行列だろい!? 俺もまだ食ったことないのにー!」
「丸井…お前さっきまでクレープ食ってたろ…それに、この寒いのに何でそんなの飲んでるんだよ」
 げんなりとした表情でそうジャッカルが指摘したのは、相手がしっかりと手に持っている紙パック。
 そこには、ど派手なピンク色の中に『苺ミルク』と大きく印字されていた。
 勿論、コールド品である。
「別にいーじゃん、美味いんだからさ〜。それより仁王、俺の分もたい焼き買って」
「嫌」
 考えるという行為すら拒否して即答した相手に、赤毛の食欲大魔人は激しく抗議。
「ケチーッ!! 俺が飢えて死んだら化けて出てやる〜〜」
「ビデオカメラ準備して待っちょる。いい値段で売れそうじゃな」
 けっと軽く相手の要求を突っぱねていた仁王に、ジャッカルがふと改めて視線を向けた。
 夕暮れの中だったので気付くのが遅れたが、相手のコートがやけにだぼっと膨らんでいる様な…?
「…?」
 んん?とまじまじと見つめてくるジャッカルの視線の先に、先ずは丸井が気付いて仁王に注目し、やがて仁王自身も彼らの言わんとしている事に気付く。
「……ああ」
 詐欺師は、軽く頷いて問われる前に答えた。
「ちょこっと妊娠したんじゃ」

 がはっ!!!

 瞬間、ジャッカルは激しく仰け反り、丸井に至っては派手に口にしていた苺ミルクを仁王に向かって吐き出した。
 しかし、相手もやるもので、咄嗟に構えた鞄でかろうじて直撃を阻止…
「あ〜あ〜、きちゃないの〜〜、只の冗談じゃろうが」
「この世の終わりみたいな冗談を言うな〜〜〜〜〜っ!!」
「苺ミルクで溺死するトコだったじゃねーか、ばっきゃろ〜〜っ!!」
 涙目になってげほげほと激しくむせながら仁王に突っかかった丸井の前で、もぞ、と仁王のコートが内側から動き出した。
「?」
 ん?と見ていた丸井とジャッカルの前に、コートの中からぴょこ、と顔を覗かせたのは…
「! おさげちゃん!?」
「うお、竜崎!?」
「あ、丸井先輩に桑原先輩…今晩はー」

『……………』

 挨拶をされても、今の自分達の状況を客観的に考えるとどう返していいのか分からない。
 しかし挨拶は日常生活の基本だし…取り敢えずは、無難に返しておくか…
「こ、今晩は…」
「…てゆーか、何で竜崎がお前のコートの中で巣篭もりしてるんだ?」
 ジャッカルの当然とも言える質問に、仁王はだきっと桜乃をコート越しに抱き締めながら淡々と答えた。
「俺専用のひでよしカイロじゃ。ぬくくてやわくて経費ゼロのエコ良品」
「いいな〜」
「丸井先輩…」
 本当にいいんですか…と桜乃は問い返したかったが、実際仁王に凍えかけていたところを助けてもらっているだけに、文句も言い辛い。
 それから桜乃は、簡単にここにいる理由を二人にも説明した。
「なーんだ、じゃあ並んでんのは仁王じゃなくておさげちゃんなんだ。で、たい焼きの獲得権もおさげちゃんにある、と」
「しかしその格好で並ぶとはなぁ…あまり無茶はいけないぞ」
「すみません、以後気をつけますので今日のところは見逃して下さい」
 ぺこぺこと頭を下げる桜乃に、早速丸井が交渉を持ちかける。
「見逃してやってもいいけど、ちょっと袖の下が欲しかったり」
「たい焼き二個でどうでしょう」
「乗った」
「いっぺん打ち首になっちまえ、お前」
 先輩の立場で堂々と後輩に賄賂を要求するとは…と、ジャッカルが丸井に言い捨てたが、向こうはやはり聞く耳持たず、今から味わえるだろうたい焼きにばかり思いを馳せている。
 それからも結局丸井、ジャッカルを加えて、仁王達はたい焼きをゲットするまで他愛ない世間話に花を咲かせていた。


 そして、遂に桜乃の忍耐と仁王の協力の成果である幻のたい焼きが手に入り、桜乃は一人の入手限界数十個を無事に五個ずつ袋に入れて抱えていた。
 列の場所から少し離れた道端で、彼らは早速獲物を分配。
「じゃあ、丸井先輩に二個…桑原先輩もおひとつどうぞ」
「え、いいのか?」
「はい、あったかい内にどうぞ〜」
 まさか自分も貰えるとは思っていなかったらしいジャッカルだったが、勧められて後輩の心遣いを有難く受け取り、まだあつあつのそれを口に入れた。
「ふぉっ…!」
 じわっと口の中に広がる自然の甘みに声を上げる彼の向こうでは、じーんと感動に震える丸井の姿。
「仁王先輩もどうぞ」
「おう、すまんの」
 仁王も少女から一つを受け取って、はくんと食べる。
「…おう、これは確かに逸品じゃの」
「美味しい〜〜〜!」
 並んでよかった〜〜!と、桜乃は仁王に相変わらず暖を分けてもらいながらはむはむとたい焼きを夢中で食べた。
 美味しさは万人に共通するということを、彼らはたい焼きで知ったのである。
「いや〜〜、口福口福…んまかった〜〜!! ありがとー、おさげちゃん!」
「ご馳走になったなぁ、竜崎。恩に着るよ」
 感動が薄れない中、丸井とジャッカルはその場で仁王達に暇を告げて去っていき、そこには二人だけが残された。
「…さて、腹も少し膨れて満足じゃな。後は、お前さんはどうするんじゃ」
「私は今度こそクリーニング店に行ってコートを受け取ります。そしたらそれを着て帰れますから」
「そうか…なら折角じゃ、そこまで付き合っちゃる」
「え…」
「今更遠慮はなしじゃよ。お前さんがまた何処かで寄り道せんようにの、これも先輩の務めじゃ」
「あうう…」
 そこを突かれると痛い…
 桜乃は仕方なく、そこから仁王と一緒に目的の店に向かうことになった。
 しかも…
「…意外と動けるものですねぇ」
「人間、死ぬ気になれば大概の事は出来るもんじゃな」
 すたすた、とてとて、とコートの中で四本の足が動いている。
 たい焼きで体内燃焼が始まったとは言え、気温は低いままであり、桜乃はコートの中に保護されたまま仁王と共に移動していたのだった。
 少女は先輩に世話になりっぱなしですみませんすみませんと繰り返し謝罪していたが、仁王の本心としてはその間ずっと相手を自分のすぐ傍に置くことが出来るので、正直歓迎したいところ。
 そうして、普通に歩くよりはやや遅くなりはしたものの、二人は店の前に到着したのだ…が……
「…で、たい焼きの代償に閉店時間を過ぎてしまったと」
「うあああ〜〜〜んっ!!!」
 あ〜あ、と苦笑する仁王の言葉に重なって、桜乃の悲痛な悲鳴がこだました。
 まさかこの時間に閉まっているとは…今日に限っての早めの閉店時間だったらしいが、それでもタイミングが悪すぎる!
「もういやん…仁王先輩に迷惑ばっかり掛けて、どうしてこう裏目になるんだろ…」
「裏目?」
 何のことだ、と訝しむ相手に、桜乃はぐすんと鼻を鳴らしながらおずっと残っていたたい焼きの袋を差し出した。
「…今日の朝のお礼に、仁王先輩にこれ、差し上げたかったから…丸井先輩達の前では渡せなかったんですけど…」
「え…」
 これって…まだ例のたい焼きが五個入っている袋…?
 お礼…?
「…お前さん、まさか俺にこれくれる為に、あの寒空の中ガマンして立っとったんか?」
「ち、ちょっと自分が食べたい気持ちもありましたけど……まぁ、そう、なると…いうか…」
「……」
 唖然として桜乃を見つめていた仁王は、袋を受け取ったまま、ふいっと視線を逸らしてこっそりと呟いた。
「…食っちゃろか」
 そんな可愛い事をしてくれる奴は…いっそ誰かのものになる前に俺が……
「え…?」
「……何でもない」
 聞かれなかった事に安堵しながら、仁王は首を横に振り、相手に促した。
「いつまでもここに突っ立っとるワケにもいかんじゃろ。お前さんの家まで送るけ、今日はゆっくり休んで嫌な事は忘れる事じゃな」
「ええっ!? だって、私の家まで行ったら仁王先輩まで帰りが遅くなっちゃいます…もうここで…」
「ここでお前さんを見失ったら、また何処をほっつき歩くか分からん…前科者には世間は厳しいぜよ」
「うう…仁王先輩が言うと物凄くそれらしく聞こえる…」
 それから桜乃は已む無く相手の好意を受ける形で、再びコートの中にすっぽりと納まりながらのてのて歩き、自分の住んでいる寮へと向かったのだった。
 幸いその道中では大きな事故も迷子になる事もなく、二人は遂に桜乃の寮の入り口へと到着した。
「あ、有難うございました〜〜」
「ん、もう今日は外に出たらダメじゃよ」
「はい…」
 先輩に忠告され、素直に頷いた桜乃は、久し振りにコートの外へと出て外気を感じる。
 じゃあ、ここで、とドアの前で相手に振り向いた時、仁王は何故か纏っていたコートを脱いでいた。
「?」
 不思議に思う少女の前で、それを完全に脱いだ男は、ふわ、とそれを桜乃の肩に掛ける形で着せてやる。
「…明日も寒かったらいかん…貸しとくけ、持っときんしゃい」
「そんな…そこまでして頂く訳にはいきません…!」
 こんなに迷惑を掛けてしまったのに…と食い下がる娘に、しかし仁王は肩に手を置き、腰を屈めて顔を近づけた。
「なに…これはちゃんと別料金を貰うけ、心配しなさんな」
「別…?」
 幾ら払えば…と素直に思っていた桜乃の声が途切れる。
 言葉が、続けられなかったのだ。
 相手の唇に、自分のそれを塞がれてしまった所為で…声どころか、時間さえ途切れてしまった気がした。
(え…っ)
 これって…?と思っている間に、相手からの口付けは一層熱く深くなる。
「ふ…っ」
 微かに離れた唇から洩れる溜息には、仁王から移された熱が篭っていた。
 その吐息は二人の耳を侵し…二人の心をも侵していく。
「にお…せんぱっ…」
 お願い、もう止めて下さい…
 嫌じゃない、けど……自分がどうにかなってしまいそう…
「…桜乃」
 心の声に応える様に聞こえてきたのは、男の艶やかな声だった。
 初めて呼ばれる名前に、ぞくっと痺れるような感覚が背中を走り抜ける。
 違う、これは寒いから震えているんじゃなくて…この人の声が私を震わせているから…
「ん…んっ…」
 甘い声に痺れているのは桜乃だけではなく、仁王もまた唇を離した後、目を開くことも出来ずに小さく震えている少女の姿を見て、かつてない戦慄を感じていた。
 どんな詐欺であっても、誤魔化す事も隠す事も出来ない…震えるほどの戦慄。
 こんな恍惚が、此の世にあるのか…こんな感情を、この子は俺に与える事が出来るのか…
 それなら尚更離せない、離してなどやらない…絶対に。
「…くく…」
 楽しそうに笑いながら、仁王はそっと相手の耳元に囁いた。
「ああ…美味い…コートなんて安いモンじゃよ」
 一度言葉を切り、そしてくすりと笑みを零しながら…
「お前さんを、独り占め出来るんならな…」
「!!」
「誰にも…だーれにもやりはせんよ」
 寒さに強い詐欺師が相手だったんじゃから…まぁ諦めることじゃな。
 真っ赤になり、言葉も継げなくなってしまった桜乃には、最早相手にコートを返すという行為も思い至らず、彼女はそのままそれを置いて立ち去る仁王の姿を見送るしか出来なかった。

 そして寒さに強い詐欺師は、まんまとコート一枚で可愛い獲物を捕まえたのである…

 翌日、仁王に託されていた五個の幻のたい焼きは、まだそれを食べていなかったメンバー達に一個ずつ彼の手から渡されていたらしいが、その時に男が言った、『ま、お祝いに』と言った真意については不明のままである……約一名を除いて。






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