苦い嘘(後編)


「だからと言って、何で私まで…」
「えーじゃろが、二人っきりの場を持つと向こうが怪しむかもしれんじゃろ?」
 そんな日々を過ごしていた仁王は、その日は自分一人ではなく、部活動を共に終えた相棒である柳生と、病院に向かっていた。
 仁王の言う『怪しむ』というのは、彼という人物を怪しむという意味ではなく、彼と桜乃のかつての『関係』を向こうが疑うという意味だ。
「別に気まずくなっている訳ではないのでしょう? 宜しいではありませんか、二人一緒にいることで記憶が戻る切っ掛けになるのやもしれませんし」
「お前さんの言うことも尤もじゃが、そういう関係に至る前の二人っきりってシチュは結構気ぃ遣うんじゃよ。たまには場の空気を攪拌せんと」
「人を攪拌器の様に言わないで下さい。やはりここは若い二人に任せて私は失礼をば…」
「殆ど見合いババァの台詞じゃな、ここまで来て逃走はナシじゃよ」
 あまり友人の口からは聞きたくない台詞だな、と思いつつ、退散しようとした柳生の襟首をむんずと捕まえて仁王が相手の行動を止める。
(やれやれ…)
 愚痴を口に出すことは紳士らしからぬ振る舞いと知っている柳生は、だからこそせめて心の中で溜息をついた。
 付き合いは数年と言えど、親友と看做している相手の心情は自分にもよく分かる。
 詐欺師と言われているがこの男の本心は至って善良な方だ、どちらかと言うと頭が冴えた悪戯っ子という表現が正しいかもしれない。
 そんな相手だからこそ、今、あの少女との微妙な立ち位置に揺れているのだろう。
 恋人であった事を、現在記憶を失っている相手は当然知らない。
 だから、その事実を彼女に押し付ける事は出来ない、してはいけないと。
 詐欺師なら割り切って、今の少女の心をも上手く丸め込んだらいいものを、彼の良心が頑なにそれを拒んでいる。
(辛い…のでしょうね、もう少し素直だったら愚痴も零せるのでしょうが…少々痩せてきた様にも見えますし…)
 普段、向こうが言わない限りは極力相手の意志を尊重する紳士だったが、これ以上仁王が内に苦悩を抱えて苦しむ様だったら、何かしら動かなければならないとも思う。
 動くのが自分でなければならないという必要性はない…が、理由はある、何故ならそれが親友というものだからだ。
 目的の病室に至る通路に続くそれの曲がり道に差しかかったところで、二人の耳にがしゃーんっと何かが割れる音が聞こえてきた。
 音の様子から察するに、ガラスや陶器などが割れたものだと思われる。
「おや…花瓶でも割ってしまったのでしょうか?」
「それより今の音…向こうから聞こえてこんかったか?」
 柳生は音の質について思案し、仁王は音の出所について推測をすると、その視線を同時に自分達が赴く予定だった病室へと向けた。
 何となく、あの向こうから聞こえてきた様な気がする。
「どなたかが誤って手を滑らせたとか…」
「かもな、そうだったら片づけ手伝って…」
 「やろうか」と続けようとしたところで、再び彼らの耳に病院の静寂にそぐわない音が聞こえてきた。
 どたんばたんとやけに賑やかな壁を何かが叩く音…そして…
『出てって!! もうやだ! もういいっ!!』
『桜乃っ!』
 紛れもない、あの少女の悲鳴にも似た叫び声と、それを諌める彼女の祖母の声が。
『!!』
 互いに同時に顔を見合わせ、後はもう何も語ることなく二人は病室前に急いだ。
 さてノックをするべきかと悩んでいたものの、三度向こうから何かが床に落ちる音が聞こえてきて、異常事態と判断した瞬間、彼らは否応なく中に踏み込んだ。
「竜崎さん!?」
「どうしたんじゃ…っ」
 彼らが病室に入ると、そこは普段見ていた光景とはかなり異なる様相を呈していた。
 常に綺麗に掃除、管理されている床には、コップや花瓶だったのだろうと思われる幾つもの破片が散乱し、同じく飾られていたのだろう花々や水も散っている。
 入り口の扉の近くには祖母のスミレがいたが、彼女は押し入ってくる形になった仁王達を困惑の目で見つめ、すぐに病室のベッドへと戻した。
 それがさり気ない形でのアイコンタクトだという事は二人もすぐに理解した。
 向こうが『あれを見ろ』と視線で示したその向こうには、ベッドの上で上体を起こしている桜乃がいたが、その様子を見た仁王は、らしくもなく一瞬身体を硬直させてしまった。
「さく…の…?」
 普段は『竜崎』と呼んで取り繕っていた事も忘れ、恋人だった頃と同じく名を呼んだが、幸か不幸か、小さな声だったので向こうには聞かれずに済んだらしい。
 そこまで仁王を動揺させたのは、普段の温和で気弱な性格とはあまりに異なる、険しい表情をした彼女の姿だった。
 泣き腫らし、真っ赤な瞳でこちらを見据えてくる彼女の眼力は、見慣れていない分余計な効力をこちらの心にもたらしてきた。
「竜崎さん!? どうなさったんですか?」
 常に冷静沈着な紳士たるべしと己を律している柳生が声を掛けると、桜乃は彼の方へと目を向け、それを固く閉じながらシーツを握り締めた。
「どうして…どうして記憶が戻らないの!?」
「!……」
 誰にも答えを出せない問いを投げかけられ、柳生が眉をひそめて言葉に詰まる。
 答えてやれたらどんなにいいことか…しかし容易く気休めを言う訳にもいかないのだ。
 約束も出来ない…己が神でない身である以上。
 彼らが答えられない間に、桜乃はぼろぼろと涙を零しながら悔しさに身体を震わせた。
「みんな…お医者さんも看護婦さんも、『いつか戻る』、『いつか戻る』、『心配しなくていい』って気休めばかり! 誰も知らない癖に、誰も私が記憶を戻せるのか分からない癖に、何の根拠もないことばかり言うの!! 私、頑張ってる…! 記憶戻そうと頑張ってる…なのに!!」
 興奮状態にある孫の姿を痛ましく見つめながら、スミレが傍の仁王にひそりと囁いた。
「毎日毎日…努力しても全く進歩がないから、自分で自分を追い詰めてしまってるんだよ…アタシに当たることで楽になるならそれでもいいが、あんまり興奮すると身体にも悪いし…あの子のことだから、後で落ち込むのは分かってるからね」
「…先生は一度、外にお出になった方が宜しいでしょう。却って興奮が強くなりますから」
「え…けど」
「大丈夫です、落ち着かせたらすぐにまたお呼びしますから。どうしても無理な場合は、主治医を呼んで頂く事になるかもしれませんが…どうか」
「…分かった」
 無言でそのやり取りを聞いていた仁王は、柳生程ではなくても微かに眉をひそめ、それからゆっくりと桜乃のいるベッドへと近づいて行った。
 それと同じくして、スミレを廊下へと出した柳生は再び声を掛けて相手を落ち着かせようとする。
「竜崎さん、落ち着いて下さい。貴女が記憶を失くされたのは事故です。貴女の責任でもないし、竜崎先生の所為でもないのです。貴女が記憶を戻そうと努力されているのはみんなが分かっている事です、焦っても仕方がありませんよ」
「じゃあどうしろって言うんですか!? 記憶の無い不安なんか、皆さんには分からない癖に…!!」
「…」
 桜乃の台詞に、ぴくん…と仁王の肩が揺れ、すっとその瞳から表情が消えた。
 しかしそれに桜乃は気付く様子もなく、心に溜まっていた鬱屈していた感情を吐き出すように尚も叫んだ。
「誰も、誰も私の苦痛なんか分からない癖に、無責任なコト言わないで!!」
 瞬間、仁王の左手がぶんっと勢い良く上げられ、
 ばしっ!!
「!!」
 打たれた少女本人ですら、瞬間、何が起こったのか分からず呆然とする程の速さと勢いで、彼女の頬を思い切り張っていた。
「仁王君っ!!」
 レディーに手を上げるとは!と非難の声を上げた柳生には一瞥もくれることなく、仁王は冷えた瞳で桜乃を上から見下ろしていた。
「…いい加減にしんしゃい、お前さん…辛いのが自分だけだとでも思っちょるんか?」
「…え」
 そこでようやく自分が相手にぶたれたのだと理解した桜乃が、唖然としたまま張られた頬に手をやり、仁王を見上げたが、向こうは変わらず冷えた目で淡々と語っていた。
「お前さんの言う通りじゃ、お前さんの気持ちなぞ誰にも分からん…なら聞くが、お前さんには俺らの気持ちが分かっちょるとでも言うんか? お前さんが記憶を失くした後、俺らがのうのうと何も感じず考えずに、能天気にお前さんに会っとったとでも?」
「仁王君…」
 いけない…鉄壁の筈の彼の心の防御壁が崩れかけている、と敏感に察知した柳生だったが、どう声を掛けるべきか、止めるべきなのか分からない内に、向こうの声に徐々に苛立ちが混じってくる。
 それはまるで桜乃の心の中に巣食っていた暗い感情が、彼に住処を移してゆくように。
 その代償として、桜乃の顔からはいつの間にか険が消え、普段の少女のそれに近く戻りつつあった。
「仁王、さん…?」
「甘えなさんなよ…お前さんの見とらんところで、先生だって何倍も苦しんどるんじゃ! 記憶失くした孫娘の為に心配して苦しんで、それでもお前さんの前じゃ気丈に振舞って笑っとるんじゃ! 今だって、向こうの廊下で先生がどんな顔しとるか考えた事あるんか!? 周りの人間全員そうじゃ、それも知らんで何を甘えて駄々こねとる! 俺だってなぁ…!!」
 ダメだ、これ以上は止めた方がいい…仁王もそれは分かっていた。
 しかし、分かっているからと言って止められない感情もあるのだ…今、胸に渦巻いているこれの様に。
「お前さんをまた名前で呼びたくてしょうがないんじゃ!! またいつかみたいに一緒に並んで歩きたい、笑いたい…!! 詐欺師でもなぁ! 好きだった奴を、好きな奴を、ずっとずっと誤魔化すために笑い続けるんは辛いんじゃ…っ」
「…!!」
 は、として桜乃が仁王を見詰めたが、その時には彼はもう俯いて、視線を合わせようとはしなかった。
 その瞳の向こうに、僅かに苦痛の色が滲んだのは気のせいだったのだろうか…?
「……」
 これは…最悪の事態なのか? それとも…
 どうにも判断しかねた紳士は、僅かに首を巡らせ二人から視線を逸らす。
 どういう結果になったにしろ、部外者にはいづらい空気だったが、かと言って出て行く事も憚られた。
 しんとした部屋の空気はその重ささえも分からず、やがて仁王の囁きが小さくそれを揺らした。
「……酷いこと言ったの…確かにお前さんも辛いのには違いないのにな…」
 気を取り直す様に、再び感情を排斥した口調で断りながら、仁王は桜乃に背を向けつつ、扉へと歩き出していた。
「ぶってすまんかった……俺、もう来んから。お大事にな」
「に…おうさん!?」
 引きとめようとしたらしい桜乃の声も振り切り、柳生の隣を抜けて、仁王は足早に病室を出て行った。
 追うべきかと一度は踵を返しかけた柳生だったが、その動きはすぐに止まり、彼は病室に留まることを選択して、桜乃のベッドへと近寄る。
 今は…誰にも触れられたくないだろう、あの男は。
 例え親友の自分でも、今、荒れに荒れている彼の心を悪戯に掻き回す事は許されない。
「竜崎さん…申し訳ありません、仁王君が貴女に働いた暴力は私が代わってお詫びします」
 悪意をもって叩いた事ではないことは確かだったが事実は事実と、柳生は紳士らしく代わりに詫びたが、向こうにとってはもうそれはどうでもいいだった。
「…柳生…さん」
「…」
「さっき…仁王さんが言ったことって…? あれは……」
「…………こういう話は、少々苦手なんですけどね…」
 断った後で、柳生は首を縦に振った。
「仁王君は、本当にね……こちらが呆れてしまうぐらい、本当に貴女の事を大事にしていましたよ」



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