「来て欲しいということなんですから、行って差し上げては」
「嫌じゃ」
あれから、仁王は彼の宣言の通り、ぷっつりと病院に通う事を止めてしまっていた。
軽い気紛れによるものではなく本気であるということは、彼女に関わる全ての電話番号を着信拒否にしてしまったことからも伺える。
お陰で某日の部活動中、練習試合の空き時間の間に連絡係になってしまった柳生がそれとなく勧めたものの、返って来るのはつれない返事ばかり。
因みに、今日は互いが入れ替わる予定の日だったのか、仁王が柳生の姿に、柳生が仁王の姿に変じている。
「どうしてそう頑ななんですか。竜崎先生だって、あれから竜崎さんが素直に謝ってくれたとお礼を仰っていたでしょう。向こうは貴方を責めるつもりはないと思いますが?」
「俺がどうこうせんでも、あいつは謝っとったよ…俺が余計な事をしただけじゃ」
ふん、と鼻を鳴らして仁王はベンチに座ったまま自嘲の笑みを柳生の姿で浮かべてみせる。
一見したらダメージなど一切受けていない様な態度だったが、親友の目は誤魔化せない。
「貴方まで、好んで辛い思いをする事はありませんよ…まだ好きなんでしょう?」
「…さぁのー」
いいえ、とは言わず曖昧な返事に留めると、詐欺師は組んでいた足を解いて立ち上がった。
「けど、俺があいつを殴ったんは事実じゃからの……なのに、今更のうのうと会いに行ける程、俺は厚顔無恥じゃないぜよ。あーあ、次の試合はまだかのう」
これ以上この話題には触れるなとばかりに背を向け、すたすたすた…と立ち去ってゆく相棒を見送り、柳生は溜息を一つついた。
「世話が焼けますね…」
結局この時も仁王をうんと言わせる事は出来ずに部活動の内容ばかりが粛々と消化されていき、あっという間にその活動も終了を迎える。
その時、すぅと自然に仁王の姿をした柳生に近づく一人の人物がいた。
「やぁ、柳生」
「…相変わらず、目敏いですね」
「一応部長だからね…仁王はまだ竜崎さんと仲直りしてないのかい?」
あっさりと二人の変装を見抜いた相手に、柳生は仁王の顔で、しかし自身の口調で淡々と語った。
「仲直りと言いますか…そもそも悪くもなっていないんですけどね。大事な恋人に手を上げてしまった自分を、許せなくなってしまったんでしょう…」
「ああ……それだけ本気だって事なんだろう。けど、時間を置けば置くほどに、二人の為にはならないよ」
「ええ…理解はしていますが」
天邪鬼なだけに、なかなか動いてくれそうもない…といったところで部室に到着すると、二人は一旦それぞれのロッカー前へと移動しつつ別れ、それから暫くは何事も無かった様に着替えの時間が過ぎていった。
そして着替えも済んでみんなが帰宅出来るかという時に、小さな電子音が柳生のポケットから響いてくる。
「何か鳴ってるぞ、仁王」
「ああ、携帯じゃ…ちょっとすまん」
すっとその機器を取り出し、柳生は部屋の隅に移動しながらその通話を繋ぎ、応対する。
もしかしたら桜乃からのものかもしれない、と思ったらしい柳生の姿の仁王がちら、と相棒へ視線を向けたが、特に何を言うでもなく、辺りの若者達もその間雑談に興じていたが、柳生の緊迫した一言が部屋の空気を変えた。
「…えっ…竜崎さんが!? それは本当に…!?」
「!…おさげちゃん?」
「何かあったんスかね? えらい剣幕ですけど…」
何事だと全員が経緯を見守る中、柳生は短い会話を済ませ早々に通話を打ち切ったかと思うと、ずかずかずか…と仁王へと歩み寄り、がしっと相手の肩をきつく掴んで怒号した。
「貴方が…!! 全て貴方の所為ですよ、仁王君っ!」
「え…」
「貴方が変な意地を張って会おうとしなかったから、竜崎さんは思い詰めて…死ぬ思いを…っ!!」
「っ!!」
ざぁっと仁王の顔から見る見る内に血の気が引いてゆき、周囲の若者達の間にも一気に緊張が走った。
この時初めて幸村以外のレギュラーは二人が変装していると知ったのだが、今はそれどころではないことぐらい全員理解している。
「死…って…何だよい、それ…!」
「柳生! それはどういう意味だ、まさか…」
丸井や真田の声にも構わず、柳生は相変わらず仁王の肩を掴みながら相手を糾弾していた。
「この期に及んで、まだ彼女に会いたくないとでも言うつもりですか!? 今になって尚拒むと言うのなら、私は貴方を一生軽蔑しますからね! ダブルスだって解消です、こんな薄情な男と組むぐらいなら、私の方からきっぱり辞めて差し上げます!!」
「…っ!!」
柳生のかつてない剣幕を間近で見ていた仁王は、相手の発言が終わるか否かというところで、肩に掛けられていた彼の腕を振り払って部室の外に飛び出して行ってしまった。
テニスバッグも、鞄も、全てを置き去りにしたまま。
向かった先は想像に難くなく、他の部員達も一斉に彼に続こうとした…が、それは扉の前に立ち塞がった柳生によって阻まれてしまう。
「柳生、何やってんだ!」
「竜崎、大変なことになってんでしょ!? 俺達も行かなきゃ…!」
ジャッカルや切原が声を上げたが、柳生は無言で扉の前から動こうとしない。
「……柳生…?」
相手の様子に、部長である幸村が静かに名を呼んだ…
部室を飛び出した仁王は、そのまま身ひとつでかつて毎日の様に通っていた道を再び辿り、病院へと向かっていた。
(…嘘、じゃろ…おい)
走りながら、仁王は何度も同じ言葉を心の中で繰り返した。
(そりゃ…最後は俺の口から暴露してしまったが、あいつにはもう俺の記憶はなかったんじゃ…俺がおらんでも思い詰めることなどない筈じゃろうが! 何で…っ!)
感情も抑えきれず、お前に手を上げてしまった自分などに、何故そこまで固執する必要があったのか…結局、優しい嘘もつききれず醜態を晒してしまった自分などに。
酷い男と思われているだろうと、そう思っていた。
だから、例え詐欺師でもそんなお前の視線を受け止める自信がなくて、恐ろしくて、会えなくなってしまった…本当に滑稽だ。
そんな出来の悪い喜劇の中で、お前の命が翻弄されているだなんて…!!
(頼む…生きとってくれ…それだけでええから…!)
土下座でも何でもする、ただ命さえあってくれたらいい…これまでも、心の中で何度も願っていたことだ。
なのに、今、彼女にそれを願わなくてはならない事態に追い込んでしまったのは、紛れもなく自分自身だという現実…皮肉の極みにも程がある。
会わなければいけない…が、何て声を掛けたらいいのか分からない、と思い悩んでいる間にも足は動き続け、仁王はようやく目的の病院に到着すると、道を迷うことなく中を進んでいった。
近道になると知っている廊下を歩いているところで、向こうからストレッチャーを運ぶ白衣の人々と、家族らしい数人が歩いてきた。
ストレッチャーに乗せられている患者が、顔を見せることなく頭まですっぽりと白のシーツに覆われているのを見たところで、仁王の身体の奥がぞわりと粟立つ。
病院という場所では珍しいとも呼べない光景だった、しかし、ここまでの恐怖を感じた事はかつてなかった。
違う…違う、違う、彼女じゃない…!!
家族達の泣き腫らした顔が全て初対面である事を確認しながらも、その集団と擦れ違う時、仁王は顔を強張らせ、心拍数も普段より遥かに上がっていた。
見知らぬ彼らが通り過ぎた後も心拍数は落ち着くことはなく、ふらつきそうになる身体を必死に支えながら、仁王は桜乃のいた病室へと向かった。
想像としては、部屋の中から医師達の声が聞こえてくるのではないかと思っていたが、廊下も病室の向こう側も、いつもと同じく静寂に包まれており、それが却って仁王の胸に不安をもたらした。
何が…何が起こっている!?
「桜乃……っ!?」
会うことへの恐れより、相手の命の無事を確かめたい気持ちが勝り、仁王はノックさえも忘れて扉を開けた。
ふわりと頬を風が撫でていったのは、部屋の窓が開かれていたからだろう。
そして扉を開いたすぐ向こうに見える窓の傍に立っていた人物の姿を見た時、仁王は瞳を限界まで見開き、声を失った。
(え…?)
桜乃…?
間違いない…まだ一つ編みの姿だけど、あの長い髪は…そうだ。
けど何で、彼女が…何事もなかったように、そこに立っているんだ…?
だって彼女は…
「…!」
扉が開かれた音に気付き、桜乃が振り向く。
そして、傍に付き添っていた彼女の祖母も仁王に気付いて声を掛けた。
「おや…? 柳生…?」
「あ…」
そうだった、忘れていた。
自分は今、柳生の姿でいたままだったのだ。
それを説明しようかと思いつつ、まだ現状を把握しきれていなかった仁王が何事かを言う前に、先に桜乃が声を上げた。
「雅治さん…!」
「え…?」
懐かしい響き…姓ではなく、名で呼ばれたのはどれだけ振りのことだろう…いや、しかしそれよりも…
相変わらず声も出せない仁王に、桜乃は命の危機に於かれていたとは思えない程にしっかりとした足取りで、軽やかに駆け寄ってそのまま縋りついてきた。
「会いたかった…!」
「! 桜乃…?」
どういうコトだ…!?
最悪の事態さえも考えていた彼女が、こんなに元気な姿で…しかも俺の変装を即座に見破るなんて…!!
そんな事が出来るのは、相棒の柳生の他には、部長の幸村と……あと一人…
「……………」
もう一つ別の答えに行き当たり、はた…と仁王は我に返った。
そして、返ると同時に、再びがばっと相手の顔を勢い良く覗き込む。
まさか…彼女…は…
「もしかして…お前…」
『かんぱーいっ!!』
一方、仁王を除いた立海メンバーは、あれから急遽立てた計画に則り、学校近くのファミレスに立ち寄り、ソフトドリンクで祝杯を上げていた。
「いやー、良かったなぁ! 本当に」
「こればかりは、確率論でも答えは出る事はなかったからな…記憶が戻るのが必然であることすら未確定だった」
「ああ…しかしあの時は、柳生の言葉で正直肝を冷やしたがな」
ジャッカルや柳が話している脇では、腕組みをした真田が少々不満そうな表情で紳士を見詰めたが、今は変装を解いている相手は淡々と眼鏡に手をやりながら謝罪した。
「申し訳ありません。少々演出が派手でした」
「全くッスよ。死ぬ思いって、そこまで露骨な嘘つかなくたって…ゾッとしたッス」
「嘘じゃありませんよ」
切原の追求に、柳生はあっさりとそれを否定し説明した。
「私はちゃんと、「仁王君が会いにいかなかった所為で、向こうは『死ぬ思い』で必死に過去を思い出そうとしたんです。ようやく本懐を果たしたのだから、いい加減行ってもいいんじゃないですか」という意味で言ったんですから。誰も本当に死ぬとか言ってませんし」
「まぁ好都合な言い訳」
「お前、紳士じゃないだろ本当は」
丸井とジャッカルが突っ込み、聞いていた部長の幸村が面白そうに笑った。
「あの仁王を動かすには、それぐらいしないとダメだっただろう。まぁ不快な思いはせずに済んだからそれについては別にいいよ。あの二人も、今頃は君の詐欺に気付いているだろうね」
「ええ…文句は言わせませんけど」
「ふふ…詐欺師ペテンに掛けて無事でいられるのは君ぐらいだよ」
「日々精進していますから」
だから、今の二人の様子も容易に想像出来る。
かつての彼らと変わることなく、睦まじく微笑み合い、語り合っている姿が。
記憶を失っていた時間の溝も、あの二人ならすぐに埋められるだろう。
「…まぁ、早めのクリスマスプレゼントということで」
今度こそ、後は若い二人に任せましょうか…と、柳生は微笑みながら軽くコップを掲げた。
「かけがえのない親友と、彼の恋人の、二度目の恋の成就を祝して…」
了
前へ
仁王リクエスト編トップへ
仁王編トップへ
サイトトップへ