自宅デートは危険が一杯
「のう、桜乃。今度の日曜、デートせんか?」
「はい?」
或る日、立海に竜崎桜乃がテニス部の見学に訪れた際、銀髪の部員が彼女にそんな話を持ちかけていた。
竜崎桜乃は都内にある青春学園の中学一年生女子。
対する銀髪の若者は名を仁王雅治という、ここ立海の中学三年生男子。
夏の頃に初めて出会った時には、二人に共通することと言えば同じ中学生であるという事と、テニスが好きだということぐらいだったが、今現在はその共通項の中に『恋人がいる』という項目が増えている。
その恋人というのが、実はこのお互いの存在だった。
学校は異なるものの、その青学と立海が中学テニス界に於いて誰もが認める強豪校であり、それ故に試合などで出会う機会も多いことが二人の縁を結ぶことになったのだった。
そこで、仁王は立海のレギュラーとして、桜乃は青学の選手達の応援として存在していた。
選手と応援の生徒という異なる枠ではあったものの、それもコートから抜けたら関係はなくなる。
『おう、竜崎か』
『あ、仁王さん』
そんな軽いやり取りを交わす二人の姿がコートの外ではごく当たり前の光景になり、それから徐々にそんな二人が共にいる時間が長くなっていった。
そのささやかな一時が、二人にとって非常に心地良い時間だったのだろう。
心地良さ、というのは人間にとっては麻薬の様なものだ。
最初は微量で事足りていたのに、それがどんどん長くなり、それでも尚満たされなくなり、相手を渇望するようになる。
最初に自身が中毒になっていると気付いたのは、仁王の方だった。
その時には、まだ彼には元の道を引き返す選択肢も残されていたのだ。
自分は詐欺師とも評される男だ、己の心ですら操るのは容易い。
今ならまだ、彼女に侵食されてしまった心の部分を封印するなり削ぎ落とすなりして、元の自分に戻る事も出来るだろう。
しかしその侵食が更に奥まで及んでしまえば、もう如何に詐欺師とは言え全てが手遅れになるのだ。
言わば、底なし沼の抜けられる限界点ギリギリの処に足を踏み入れて、岸と深奥のどちらも眺めている状態だ。
そして仁王は…迷わず深奥へと足を踏み入れた。
只の暗闇の世界のみであるならば、身を捨てる様な愚かな事はしない。
しかし、あの暗闇の奥には己の求めた安らぎと堪らないスリルが潜んでいる事が分かる…なら、呑まれる愚行も楽しめそうだ。
そう、お前が手に入るならその賭け、乗ってやろう。
なに、お前も俺と同じくこの恋の中毒にしてしまえばいいだけのこと…嘘も真も道連れに、共に深淵に沈んでしまう喜劇も面白いじゃないか。
かくして詐欺師は本気をもって賭けに挑み、唯一己を夢中にさせる事が出来る「恋人」を手に入れたのだ。
まさか、自分がここまでのめり込める存在がこの世にあったとは…
そんな新鮮な驚きをも楽しみながら、仁王は恋人になった桜乃を時にはからかいつつ、しかしとても大切にしていた。
「こないだは練習試合でデートが潰れたじゃろ? じゃから今週、お前さんが暇ならどうじゃ?」
「くす…練習試合も応援に行きましたよ? お弁当も差し入れたじゃないですか」
「あんだけ外野がおったらデートも何もないじゃろ味気ない…真田のヤツは妙に監視の目が厳しいし、赤也のヤツは煩いし、ゆっくりも出来んかったしのう」
「いえ、練習試合なんですからそこは試合しないと…」
本来の目的が抜けてますよー、と桜乃が苦笑して指摘すると、ひょこ、と仁王が相手の顔を覗きこんでニヤリと笑う。
「何じゃ? 桜乃は俺とデートするんは嫌か?」
「そんな、嫌じゃないですけど…」
「なら嬉しいじゃろ?」
「そ…そういう言い方はずるいですよぅ」
嬉しいのは間違いないけど、そういう事を、こんな真昼間からこんなコートの脇で言わせるなんて…と桜乃はたじろいだが、向こうは一向に引かずに更に迫ってくる。
「じゃあいいじゃろ?」
「う…」
からかわれているのか本気で迫られているのか分からなくなってきた桜乃が、思わず頷いてしまおうとしたところで、二人の間に部外者が乱入してきた。
「はい、そこまでです」
「っ、何じゃ柳生か」
「柳生さん…!」
二人の間の空間をラケットで滑らかに切る仕草をしながら、その場に紳士が割り入ってくると、彼は相棒である仁王へと向き直って厳しく断罪した。
「仁王君、時と場所を弁えたまえ。ここは常勝立海の神聖なるコートですよ」
「別にいいじゃろ、今は休憩時間なんじゃし」
「貴方が叱られるのは構いませんが、竜崎さんまで巻き込まれるのはあまりに可哀相ですからね」
「…人の恋人の心配までするとは律儀なヤツじゃの」
微かに牽制の香りを漂わせた仁王に、柳生は怯む事もなく苦笑いを浮かべた。
本当に、この恋人を得てから相棒は変わった。
しかし大切な存在が出来るという事は悪い意味ではなく、非常に良いことだと、柳生は親友としても相棒としても歓迎していた。
「ご心配なく、無粋な真似はしませんよ…それに、私は貴方を呼びに来ただけですから」
「呼ぶ?」
「ええ、幸村部長がレギュラーを呼んでいるんです。この休憩時間に何か確認したいことがあるそうで…」
「……」
視線を動かし、向こうのベンチに控えていた部長の幸村の方を見ると、確かに他のレギュラー達が彼を含めた三強の方へ向かっていっている様子が分かる。
一番離れていた自分達が一番出遅れている状態であり、呑気に構えている訳にはいかないだろう。
「次の試合の組み合わせの件かの…」
「私もその可能性が高いと思いますが…兎に角、行かないことには始まりません」
「じゃな…仕方ない、また後でな、桜乃」
「はい」
軽い挨拶を済ませて軽い足取りで幸村達の元に向かいながら、仁王と柳生は更に短い会話を交わす。
「次のデートの約束ですか?」
「ん…まぁの」
「……」
相手の何気ない返事に、柳生がぴくっと微かに肩を揺らし、眉をひそめる。
普通の人間なら…いや、他のレギュラー達ですら気付かなかっただろう「何か」の違和感に、相棒である柳生は気付いたのだ。
(…何でしょうね…気のせい? いえ…)
先程の相手の返事の中に…不自然な感情が篭っている様に感じられる…喜びの感情を押し隠している様な…そんな感覚。
相手に恋人が出来た事は喜ばしいのだが、今の反応には何となく一抹の不安を感じざるを得ない。
(…ちょっと探りを入れた方がいいですね)
紳士は詐欺師の後ろで密かにそう決心すると、眼鏡をキラーンと光らせた。
そして運命の日曜日…
「…で?」
朝から、詐欺師・仁王は、その日の予定を大幅に…いや、根底から覆されていた。
珍しく彼は普段の休日よりかなり早い時間に起き出し、私服に着替え、二階の自室から一階へと降りてきて、リビングに入った…ところで、動きが止まった。
自分が全く予想もしていない光景が、そこに広がっていたからだ。
居る筈のない者達が、そこにいる…計算外の出来事だった。
「何でお前らがここに『まだ』おるんじゃ?」
「ん?」
「え?」
返ってきたのは、二人分の返答。
一人分は女性の、そしてもう一人分は男性のそれだ。
その双方とも、仁王にとってはあまりにも馴染み深い人間達…血を分けた、姉と弟だった。
「お前ら、今日は朝から留守にすると言うとったじゃろ!? ナニ呑気にだべっとるんじゃ!」
早く出て行けと言わんばかりの仁王の言葉に、向こうの二人はしれっとした態度で答えた。
「あ、私の今日の予定はパス、一日ウチにいるから」
「俺も」
「は?」
どういう事だと仁王が眉をあからさまにひそめると、長髪で、弟に負けず劣らずの美形である姉がう・ふ・ふ、と何かを含んだ笑みで相手に迫った。
「やぁねぇ、姉弟同士なのにそんな水臭いコト言わなくてもいいじゃな〜い? 聞いたわよ」
「ナニを」
「今日、恋人さんとデートなんでしょ…? ウ・チ・で」
「!!!」
知らせた筈もなければ知られた筈もない事実を真っ向から指摘され、流石の仁王も微かに動揺した。
そしてその動揺の隙を突く様に、弟までもそこに首を突っ込んできた。
「初めてだもんね、家まで連れてくる女の人なんてさ。俺達だってちゃんと挨拶ぐらいしとかないと」
「………」
相手二人がカマを掛けてきている訳ではなく、しっかりと確信を以って話している事実を察知し、上手く真実を誤魔化すという選択肢は仁王の頭から消えた。
しかし、それでもまだ晴れない疑問は残っており、先ずはそれを片付けようと詐欺師は鬱々とした口調で二人に問うた。
「…誰に聞いたんじゃ」
「お友達の柳生君」
特に隠すでもなく、誤魔化すでもなく、姉は弟の親友の名を挙げた。
「こないだ、彼から私に電話があったのよ。アンタの態度がどうもおかしいから今度の日曜に何かあるのかって。考えたら今日はウチの両親もいないし、本来ならアンタ一人が家に残る筈だったからね…そんな日にデートってコトでぴーんときたのよ。ウチに呼ぶつもりなのかしらーって」
凍る弟を前に、姉がほほほ、と楽しげに言った。
「これはもう、是非ご挨拶しなくちゃいけないじゃない? それに自分の弟とは言え、男女二人を家に放置してどんな過ちが起こるかも分からないし、そこは柳生君から『しっかり指導して下さい』ってお願いもされたしね」
(柳生〜〜〜〜!! 覚えとれよ〜〜〜〜〜っ!!!)
ぶるぶると拳を震わせて、仁王が心の中絶叫する。
全てを語られた訳ではなく、そこには姉の推理も大きく働いていたが、やはりそもそもの発端はあの親友の情報漏洩にあったのだ。
実は、姉の読みはほぼ当たっていた。
確かに仁王は、今日この日に初めて、桜乃を家に呼ぶ手筈だった。
親も、自分以外の姉弟もいないという日は滅多にない。
この日にウチに呼べば、自室でダーツなどしながら誰にも邪魔されずに思い切りいちゃつけると思っていたのに、何と言う誤算!!
(柳生のヤツめ〜〜! 人をケダモノかナニかとでも思っちょるんか!?…まぁ、キスぐらいは頂くつもりじゃったけど、流石にその先は…まぁ…)
『ない』と言い切れないのは自分が男として健全な証拠だ…と自己弁護しつつ、彼は予定と現実の余りの落差に、少なからず落ち込んだ。
これなら、家に篭るよりも外に出て行った方がまだマシだ!
赤の他人ならともかく、この二人はマズイ、絶対にマズイ!!
(はぁ…仕方ない、今からでも携帯に連絡して、待ち合わせ場所を変えるか…)
ぴんぽーん…
「!?」
予定を変更する企みを脳内で立てようとしたところで、家の玄関のチャイムが鳴った。
誰か…来客の様だ。
(まさか…!)
そんな筈はない…と思いつつも、どうしても嫌な予感が脳裏から離れてくれない。
(いや、今日は最寄の駅についたら俺に連絡をくれるコトになっとる…!)
携帯に今のところ連絡はない…
それを頼みの綱に思いながらも、仁王は不安を抱えたまま玄関へと向かい、その後を追う様に二人の姉弟もそちらへと歩いて行った。
集金か、それとも新聞屋の勧誘か…普段ならうざったいだけだが、今日に限っては寧ろそうであってくれ!とすら願ったのだが…
「あ、雅治さん、こんにちはー」
「〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
今日は仏滅か天中殺か…
予想というか、期待を大きく裏切って、そこに立っていたのは愛しい恋人本人だった。
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