その時までに(前編)
「もう…会えないんですか?」
「…じゃな」
その日、とある街の片隅、バス停の傍で、一人の少女と一人の若者が重く沈んだ空気を漂わせ、意味深な会話を行っていた。
少女はセーラー服姿で腰まで届く長いおさげを持ち、見るからに女子中学生の様相なのだが、この辺りではあまり見かけない制服である。
対する若者は鮮やかに目に飛び込んでくる銀の髪を持ち、相手より明らかに年長であるだろう大人びた容貌でなかなかのイケメン。
服は、何処かの運動部が指定しているのだろう鮮やかなオレンジ色のジャージを纏っており、その背中には『Rikkai』の文字が洒落たデザインで記されている。
見る人が見たらすぐに分かる、この辺りで最も有名な進学校立海大附属中学、その男子テニス部のものであった。
その日の天気は爽やかな秋晴れであるにも関わらず、少女の顔は暗く沈んでおり、瞳には涙さえ浮かんでいる。
対する若者の方も、笑顔などとは程遠く唇を引き結んだ神妙な面持ちを保っていた。
「…どうして…? どうして私達、別れなきゃいけないの…? あんなに楽しかったのに…」
「…仕方ないじゃろ」
必死に食い下がる少女に対し、銀髪の男は視線を逸らしてつれない返事。
これはもう、傍から見ていたら間違いなく、男女の仲の終焉を迎えている最中だと思うだろう。
何が理由か、よくある若気の至りで破綻した恋なのか…
よくドラマでも見る光景である…中学生ではややませていると言えなくもないが。
こういうシーンでは大体、最後には互いが背を向け合って去っていったり、女性の方が何とか相手を引き留めようと縋るというのが常套パターンなのだが、今回のこの二人については…後者だった。
耐えきれなくなったらしい娘が、いきなり目の前の相手にひしっと縋りついたかと思うと、大いに嘆き始めたのだ。
「うええぇぇぇん! どーしてどーしてこの時期に合宿なんかあるんですかあぁぁ〜〜〜〜っ!!」
「じゃーかーらーっ! お偉方の決めたことじゃけ俺にはどーにも出来んっちゅうに! 戦場に行く訳じゃないんじゃし、大人しく待っとりんしゃい桜乃っ!」
それまでのシリアスな雰囲気、大崩壊。
てっきり恋の終わりを勘違いさせる様な行動をとっていた二人は、実はどうやら男の側の合宿での別れを惜しんでいただけらしい。
二人の仲が芳しくなくなったという訳でもないらしく、その証拠に縋りついてきた少女の身体を、若者はとても大事そうに抱き包んでいた。
台詞こそ多少荒げたものではあったが、それには怒りというものはなく、相手を何とか宥めようという心遣いすら見て取れる。
つまり…どちらも相手をかなり意識しているということだ。
「うぅ〜〜〜…」
「ああもう…いつもは聞きわけいいのにのう…よしよし」
どうしてこの時になって…と若者・仁王雅治は子供をあやすように相手を抱きしめながら、ぽんぽんと背中を叩く。
「だって…雅治さんがいなくなるなんて私…他の事なら我慢出来ますけど、それだけは…っ」
「〜〜〜〜〜〜っ」
ぞくぞくぞく…っ
涙の混じった、小さく細い相手の健気な言葉が、仁王の全身に震えを走らせる。
恐怖している訳でもないのに、『想われている』と実感することがここまで心を戦慄させる。
それを彼に教えてくれたのが、他でもないこの娘だった。
(こんなつもりじゃなかったんじゃけどなぁ…)
そもそも自分の好みの女性は『駆け引き上手な人』だったはず。
なのに、それとはほぼ真逆の、素直過ぎる程のこの少女にここまで夢中にさせられてしまうとは…詐欺師・仁王の不覚と言うべきか。
(いや、不覚ではない、とは思うんじゃよな…寧ろ自分を褒めたい様な)
この子…竜崎桜乃は異なる学校の生徒である。
立海と並ぶテニス強豪校・青春学園…略して青学の一年生であり、夏ごろにそのテニスを通じて自分達は知り合った。
『あの…竜崎桜乃、です。どうぞ宜しくお願いします』
『おう、こちらこそ宜しくの』
互いの初対面時、まさかこういう関係になろうとは想像だにしていなかった。
学校がそもそも違うのだから、向こうのテニス部顧問の親族と言えど、たまに会場で会う程度で終わると思っていたのに…
『あ、こんにちは』
『おう、竜崎か』
いつの間にか、立海にわざわざ見学に訪れるようになった彼女と顔を合わせる機会が増え、必然的に言葉を交わす回数が増えていった。
単に話す回数が増えた事だけが理由だとは思わない、その理屈が通じるのなら自分は同じ立海の女子と恋人同士になっていて然るべきである。
ただ…気になったのだ、ただ、それだけ。
出会って間もない頃ほんの出来心で、立海を訪ねて来た彼女に、校舎内の或る教室への道を反対に教えてみた事があった。
ほんの出来心…迷っても人に訊いたらすぐに解決するようなレベルの悪戯だったのだが……遂に少女は二時間、帰って来なかった。
最後は、騙した筈の仁王が蒼白になって学校中を探し回り、ふらふらと校舎内を彷徨う桜乃をようやく保護したのである。
向こうにも迷子癖があったとは言え、切っ掛けを作ったのは他でもないこちらの戯言。
当然向こうももう自分の悪戯だと分かっている筈だ、ビンタの一つや二つ、罵詈雑言の三つや四つは覚悟していた…が、
『す、すみません仁王さん。私がおっちょこちょいだから、ご迷惑かけちゃって…』
『……』
絶句。
その時仁王は悟った。
(こいつは一人にしちゃいかん…)
一人で生きて行くにはこの子はあまりに素直すぎる、人を信じ過ぎる…こちらが恐怖を覚える程に。
その事件(?)が切っ掛けとなって、仁王は立海に彼女が来ている時には、自然とその動向を注意深く観察するようになったのである。
責任感?…いや、既にその時から興味があったのかもしれない。
兎に角、そんな心がけのお陰で、やがて詐欺師には見えなかった、見ようとしていなかった相手の面が徐々に見えてくるようになった。
か弱い癖に根性は意外と座っているところとか、思っていた以上に人への気遣い、心遣いが出来る子だったこととか…笑うと可愛いところとか、照れたらもっと可愛くなるところとか…
(…俺も大概、イカれとるの…)
こんなにいい子を恋人に出来たのだから、それは寧ろ誇るべきだと思う。
自分にも最低限の男としての誇りはある、遊びや冗談で一人の女子と付き合うことは出来ない。
普段から人を騙しからかう事を愉しんでいる自分だったが、少なくともこの子に対しては自分は真っ直ぐに向き合っているつもりだ……まぁたまに弄るのは愛情表現として。
(正直、俺もちょっとは寂しくは思っとるんじゃけど…そんな事は言えんよなぁ)
しみじみと思っているところに、相手が仁王に念押し。
「…浮気しないで下さいね」
「むさい男共しかおらん中でか? そりゃあ軽くホラーじゃの」
男子オンリーの合宿なのに、どうして浮気が出来るというのか逆に聞いてみたい気もする。
勿論、仁王は己の精神衛生上、それを聞くことはなかったが。
「お前さんこそ、浮気しちゃいかんぜよ? 俺は人の嘘を見抜くのは自信あるんじゃ」
「しません!」
「はは、よしよし…」
そうこうしている内に、向こうに続く道路から、路線バスが走ってくるのが見えた。
合宿所に向かう為に、仁王が乗らなければならないバスだ。
「時間じゃな。もう行かんと」
「…はい」
諭すような言葉を掛けて来た恋人に、桜乃はまだ名残惜しそうな様子だったが、仕方なく相手から離れる。
「わざわざ見送りに来てくれてすまんの。帰りは気をつけんしゃい」
「……」
「…ん? 返事は?」
促す相手に、桜乃は少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、視線を逸らして小さく我儘を言った。
「……帰りたくない」
「っ!!!!」
見えない手で心臓を鷲掴みされたような衝撃に、仁王がぐらっと身体を揺らす。
(っ…これでワザとじゃないなんて、恐ろしい女じゃな…!)
もし自分が後輩の某居眠り魔人だったら、既にショック死か、或いは失血死していただろう。
ちょっとシチュエーションを変えたら、それは究極の女性からの誘い文句なのに、そのまま天然で口にするとは…
正直、それなりのシチュエーションだったなら、自分は果たして軽く受け流せたか自信がない!!
「あ、あー…まぁ、すぐに戻ってくるけ、またその時にな。折角の合宿なんじゃ、帰った時には今よりもっと強くなった俺を見せちゃる。楽しみにしときんしゃい」
「…はい!」
次へと繋げる約束を告げたことでようやく相手から笑顔を引き出すと、仁王は満足した様子で、バスへと乗り込む直前、さりげない仕草で相手の唇を塞いだ。
「…じゃあな」
「…いってらっしゃい、雅治さん」
こちらの不意打ちに赤くなった少女に再び軽く笑い、仁王はいよいよ合宿所に向かうべく桜乃と別れ、バスへと乗り込んだのである…
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