そんな会話が交わされてから幾日が経っただろうか…
「……」
その日仁王は、あの日、合宿所に向かった時と同様に、バスの座席に座って揺られていた。
但し、向かう先は合宿所ではなく…最寄りの駅らしい。
『らしい』というのは、一度しかここに来るまでの道を見ていないので、本当にそうなのかどうか自分の目では外の景色を眺めていたところではっきりしないということだ。
しかし…そう告げられたのだ、自分達『敗者』は。
(ま、済んだ事を悔いてもしょうがない事じゃな…流石に俺の相棒ってところか)
ダブルスだと思って、相棒である柳生比呂士とペアを組んだところで、告げられたのはまさかのシングルス。
あちらは、信頼し合う者同士の戦いの中で生徒達の精神力を試すという目的があったのだろうが、少なくとも自分達二人にとっては願ったりだった。
普段は『相棒』と呼んではいるが、別の意味では自分に最も近い場所にいる好敵手とも呼べる男…テニスプレーヤーとして、一度純粋に戦ってみたいと思っていた。
互いの手の内を知り尽くしているからこそ、己の力量を測れる試合もあるのだ。
そして、勝敗の結果は…この通りだ。
自分としては全力を尽くし、その上で敗北したのだから言い訳などしない。
ただ…
「…ふぅ」
誰にも聞かれない程に小さなため息が、仁王の口から洩れる。
その脳裏に浮かんでいたのは、あの日のバス停で別れる間際の桜乃の笑顔だった。
(強くなるって約束したのに、早々に脱落して帰宅組とは…無様じゃの)
無様なのは自己責任としても、自分にはそれより気がかりな事がもう一つある。
(桜乃…気を遣うじゃろうな)
あの優しい娘のことだ、自分が脱落して戻ったとしても決して軽蔑されることはないだろう…寧ろ脱落した自分自身よりも彼女の方が心を慰めるのに必死になる事は間違いない。
何とも情けないことだ、惚れた女にそんな気苦労を掛けてしまうなど。
合宿が終わり、早く再会することは自分だって望んでいたが、それは決してこういう形でではない…自分はもっと…
そんな事を考えていると、急にバスの中が騒がしくなってきた。
誰かがこの結果に異議を唱えたことを皮切りに、何人もの生徒達がそれに同調する声を上げ始めたのだ。
「…プリッ」
負けた人間がどう吠えようと過去の結果を変える事など出来ない、と、仁王が皮肉を込めていつもの調子でそう返し、それについては同じ立海の副部長も尤もな事を言っていたのだが、そんな彼らの騒ぎが収束する前に、いきなりバスが急停車した。
見ると、舗装された公道から少し外れた森林の一画、そこに誂えられた広場にバスが停まっている。
エンジントラブル…ではなさそうだ。
てっきり近道でもしているのかと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしく、訝る生徒達の前でバスはその乗車口であるドアも開いた。
「全員降りろ」
運転手はただそれだけを言った。
目的も理由も何も語らず、ただ降りる事を彼らに要求したのだ…が、その一言に、その場にいる誰もが、目に見えない残された『蜘蛛の糸』の匂いを感じ取った。
ここで留まれば、バスは間違いなく自分達を『敗者』のレッテルを貼ったまま元の古巣に戻すだろう。
しかしもし、降りてその先に、その未来とは異なる道があるのなら…!
勿論、仁王を含めた全員がその微かな希望に賭けた。
促されるままに荷物を持ってバスから降り、広場から伸びている獣道に沿って全員が当て所もなく歩いて行くと、やがて急に開けた場所に出た。
そしてそこで、彼らは懐かしい顔に出会ったのだ。
「あれは…!」
自分達立海を打ち負かした青学の一年ルーキーと、関西の四天宝寺の一年ルーキー、その二人を連れて一足先に待っていたのは、今回のシングルス戦を組んだ斎藤コーチだった。
一体、何が起こっているのか分からない。
自分達が脱落した以上、彼が用があるのは勝者組の人間の筈だ、なのに何故本人が今ここにいるのか…?
どういう事かと詰め寄る生徒達に、その長身の男は出会った時と同じ穏やかな表情を崩すことなく、彼らに一つの提案をした。
「勝ち残った方と、差を広げられたくないと思った方のみ…この崖を登ってみてはいかがでしょうか」
またも見えない『蜘蛛の糸』が目の前にぶら下げられた。
しかし、最初に感じたそれより、糸は明らかに太い。
そしてその代償であるというかの様に、見上げる崖は尋常ではない高さだった。
普通の人間なら、ましてや中学生なら尻込みする程の崖だ。
斎藤コーチの頭の中で、ここで真の脱落者が出るという予想があったのかどうか定かではない、が、もしあったのなら、それは全くの予想外で終わった。
一度は脱落者と見做された生徒達は尻込みするどころか、我先にと競うように崖の岩肌に走り寄り、各々の手でその固い感触を掴んでいたのだ。
このままで終わりたくない!
その一念が、今の彼らを突き動かしていた。
「…」
崖の傍に歩み寄った仁王は、手を伸ばす前にもう一度、ここからは見えない崖の頂きを見上げた。
あの向こうに行けた先に、別の未来の可能性がある。
正直、登れたからといって楽に敗者復活が出来るとは考えていない、寧ろこういうパターンは以降もとことんまでいたぶられるのがお決まりだ。
血反吐を吐く程に苦痛を味わって、それでも必死に食い下がり、残った者にだけ生き残りのチャンスが与えられる。
それ程に、敗者がその過去を覆すには困難を極めるのだ。
敗者のままこれ以上の苦痛を逃れ、バスに乗って恋人の許へと戻り、傷心を慰めてもらうのも一つの道、しかしそれは紛れもない『逃げ道』だ。
(…すまんの、桜乃。会うのはもう少し後になりそうじゃ。相手に背を向けるのは性に合わんし、何よりも強くなる…その約束がまだ果たせとらんからのう)
仁王はその白く細い指で、冷たく固い岩盤を、何かに誓う様にきつく握った。
前へ
仁王リクエスト編トップへ
中編へ
サイトトップへ