「とんだ災難やったなぁ、君も」
「いいえ…ちゃんとバッグも戻ってきましたから…有難うございます、本当に助かりました」
 感謝の気持ちが眩い笑顔に変わったのなら、それは自分にとっても幸いなこと。
「い、いやいやいや…」
「あ…」
 謙遜しているのか照れているのか本人でも分からなくなってきて、取り敢えず頭を掻いていたところで、不意に少女は声を上げて忍足の顔を見上げた。
「?」
 きょと、と不思議そうな顔をした若者の頬に、彼女の指先が軽く触れた。
「!!」
 それだけではなく、何かに注目するように彼女が顔を寄せてくる。
 瞬間、硬直した男の緊張振りには気付かず、少女は痛ましそうな表情を浮かべて彼の頬に付いていた小さな擦過傷に触れた。
「怪我、してますよ…きっとさっきので…」
「あ…」
 うわ―――――っ! うわ――――――っ!! うわ――――――っ!!!
(ヤバイ! 可愛えし優しいし、何かもうアカン!! 俺がアカン!!)
 心がいよいよ止まらなくなる…全てがどうでもよくなって…
「な、なぁ…君っ…」
「え…?」
 分かっている…人に名前を聞いたりするには、それなりの順序が必要だということぐらいは…けど、どうせもうここで自分が何も言わなければ、このまま彼女とは会えなくなるし、それならいっそ当たって砕けたほうが…!!
「桜乃?」
 もう少しで発言しようというところで、いきなり外部から誰かの声が割り込み、それに少女が敏感に反応した。
「あ、おばあちゃん!」
「へ…?」
 彼女が向いた先へと顔を向けると、そこには長い髪を後ろで一つにまとめた一人の老婦人が立ってこちらを見ていた。
「何してんだい、目を離した隙にこんな所まで来て。あまり動かないように言ってた筈だよ」
「ご、ごめんなさい」
「うん? お友達かい?」
 向こうは桜乃、と呼ばれた少女へと近づきながら、長身の若者へと視線を向け、彼が反応に困っている間に先に少女が答えてくれた。
「あの…引ったくりに遭ったところを助けて下さったの」
「おや! それは凄いね」
「いやその…」
 向こうは素直に驚いている様子だが、忍足は何となく落ち着かずにそわそわと身体を動かし続けている。
 ただ照れているだけとも言えるのだが……
「ウチの孫が世話になったねぇ、有難う」
「いや…大した事じゃ…」
「十分に大した事だよ…随分と長身だけど、高校生かい?」
「いや…中学三年です」
「おや、そうかい。良ければ名前を教えてくれないかい?」
「あ…忍足…」
「忍足?」
 その苗字に何か思うところがあったのか、婦人は眉をひそめ、桜乃は瞳を大きく見開いて祖母へと顔を向け、楽しそうに笑った。
「…関西弁で忍足さんって…氷帝の忍足さんみたい」

 ぐわんっ!!!!

「はあぁぁぁっ!?」
「きゃっ」
(何でっ!? 何でここでアイツの名前が出てくんねんっ!! ってか、この子、アイツとどんな関係なんや!?)
 驚きから早くも疑いの気持ちが湧きあがった若者は、思わず桜乃に迫りつつ尋ねた。
「氷帝の忍足って…侑士やろ!? 君、アイツ知ってんの!?」
「え…ええっ!? もしかして親戚の方なんですか!?」
「侑士は俺の従兄弟に当たるんやけど…君、一体何者…?」
 それには桜乃ではなく、彼女の祖母が全てを納得した様子で頷いた。
「やっぱりそうか…四天宝寺の忍足謙也だね?」
「…! 何で俺の名前…」
「そりゃあ…次の対戦相手になるかもしれないからねぇ、そのぐらいはチェックしてるよ」
「はぁ!?」
 対戦相手…対戦相手ってことは…まさか…
「アタシは竜崎スミレ、青学の男子テニス部顧問だよ。こっちは桜乃、私の孫でね、中学になってテニスを始めたばかり、まだまだ初心者だよ」
「初めまして、忍足さん」
 祖母からの紹介を受けてぺこんと桜乃が頭を下げる姿を見ながら、忍足はただひたすらに驚くばかりだった。
 何!? この取ってつけたような展開!?
「あ、ああ…初めまして…青学の関係者やったんか、君…」
「関係者と言うより、一年生なんですけどね。マネージャーでもないし、応援するぐらいしか出来ませんけど…」
「へ、え…」
 結果はどうあれ、タナボタで彼女の名前や素性を知る事が出来たのはラッキー!
 心でガッツポーズを取っている忍足に、竜崎スミレが改めて挨拶をする。
「今度の大会ではお互いに全力を出して、もし戦うことになったら良い試合にしよう。渡邉監督にも宜しく伝えておいてもらえるかい?」
「あ、はい」
「今日は桜乃を助けてくれて本当に有難う、ほれ桜乃、お前ももう一度お礼を言いなさい」
「はい。忍足さん、有難うございました。試合、頑張って下さいね」
「あ、ああ、こっちこそ…おおきに」
 敵側やのに、応援してもろて…と言いかけたところで、軽く会釈した拍子に、手にしていた袋からぽろっと買ったばかりの消しゴムの一つが零れ落ちてしまった。
 あの騒動の時に、底の一部が破けてしまっていたようだ。
「あら…?」
「わ…っと! ええと、ほんじゃこの辺で!」
 慌ててそれを拾い上げ、忍足はそそくさとその場を立ち去ってしまった。
 やばい…こんなの見られて、子供っぽいて思われたやろか…!?
 大急ぎでそこを去ってしまった男の背中を眺めながら、桜乃は暫く無言だった。
「ほれ、そろそろ帰るよ? 桜乃」
「あ、うん…おばあちゃん」
 その促しに返事を返し、一緒に歩き出した桜乃は…最後にもう一度だけ、忍足を振り返っていた……


「忍足先輩がおかしいんスわ」
「スピード狂なんはいつものコトやろ?」
 準決勝の会場。
 ベンチに座った財前が、部長の白石に沈んだ顔で進言していた。
「いや、そういうおかしいとちゃいますねん…何か昨日帰って来てからずーっと上の空で、何言うてもボケもツッコミも返ってきませんし…ほっぺ触ってはニヤつくし、挙句の果ては寝言で『侑士のヤツ〜〜』って恨みがましい声で呟くし…白石先輩、部屋変えてくれません?」
「それ聞いた以上は無理やな」
 そういう希望を先輩に言うのもどうなんだ、とは思ったが、そこは黙っておくことにする。
 代わりに白石は、少し離れたベンチで座っている忍足を横目で眺め、普段より随分と大人しい様子の男に、確かに、と頷いた。
 試合前でナーバスになっていることも考えられるが…しかし、そういうキャラだったか?
 そう思っているところに、その忍足に石田が声を掛けてきた。
「忍足はん、外で呼んではる人がいますが?」
「え?」
「何や、お会いしたい言うて…大層礼儀正しい女子でしたな。竜崎、と…」
 がたんっ!!
「行ってくる!!」
 誰の返事も待たず、言うだけ言って飛び出して行った忍足を、白石達は少し身体を引いた状態で見守っていた。
 今…それこそ音速を超えた様な速さだったんじゃ…
「どないしたんや…?」
「ね? ヘンでしょ?」


 後輩の失礼な言葉も耳に入れる時間が惜しいとばかりに疾走した忍足は、ベンチ裏の通路に出たところで、予想していた人物を見つけた。
「…りゅう、ざき…」
「あ、こんにちは、忍足さん…昨日はお世話になりました」
「い、いや…別に」
 今日は青学の制服を着ている少女に、忍足は相変わらず胸の動悸を抑える事は出来なかった。
 昨日の私服も可愛かったけど、今日の制服もまた…って、これじゃ完璧に変態ちゃうんか?
「あ、あー…と…その、何か用?」
 どんな用でも、自分に会いに来てくれた事は嬉しくて仕方なかったのだが、取り敢えずは平静を装って振舞ってみる。
 これでも一応年上だし…下手なトコロは見せたくないし……
「いえ、昨日のお礼をしたくて…」
「は? 礼?…え、ええって、俺は別に当然の事をしただけで…」
 断ろうと手を振った男の前で、桜乃はごそっとポケットを探り、或る物を差し出した。
「あのう、これ…」
「っ!?」
 嘘…何でコレがこんなトコにあるん!?
 ぎょっと驚く忍足の視線の先…桜乃の掌の上で、小さな猫が丸まって眠っていた。
 あれだ! 限定の景品、『眠り猫』!!
 って、何でこの子、俺がこれ欲しかったの知ってるん…!?
「えっ…何でコレ…」
「昨日、忍足さん、消しゴム落とされたでしょう? もしかしてこういうのお好きなのかなーって思って…丁度、私、当たって貰えてましたから…もう、お持ちでした?」
 ぶんぶんぶんと激しく首を横に振る相手に、桜乃がほっと安心したように笑う。
「良かった…じゃあこれ、どうぞ?」
「…けど、ホンマにええの? 可愛えし、君も好きなんじゃ…」
「私より、優しい忍足さんに貰われた方が、きっとこの子も喜びますよ」
「!」
 優しい、と言われてかぁっと再び赤面した忍足は、おず、と伸ばした手で眠り猫を受け取った。
「あ、おおきに…な…」
「はい」
「…なぁ、ええと…一つ、お願いあるんやけど、ええやろか?」
「はい?…何ですか?」
「ええとなぁ…その…忍足って名前やねんけど…君、俺以外でも侑士、知っとるやん?」
「はぁ…そうですね」
「で、でなぁ…どっちも忍足やとアレやし…俺のこと、良ければ名前で呼んで欲しいんやけど…」
「えっ!?」
「あ…やっぱ嫌?」
「い、いえっ、嫌じゃないですけど! だって忍足さん、私より年上なのにお名前なんて」
「や、ええんやって…俺がそっちがええねんから! だからその…お願いされてくれへん? 先輩とかじゃなくて…その…先ずは友達みたいに…」
「……け…謙也、さん…?」
「そう! それでええ!!」
 にっと嬉しそうに笑う忍足に、桜乃は逆に恥ずかしそうに赤くなり、俯いてしまった。
「ちょ、ちょっと恥ずかしいですね…」
「すぐに慣れるて…そうや、じゃあ早く慣れる様にメル友になってくれん?」
「え?」
「俺、関西やし、あまり会えんやろ?…やから、メールで話そ」
「はぁ…メール、ですか…」
 どうしよう、と桜乃は考えたが…
 昨日の件で良い人だというのはもう分かったし、氷帝の忍足さんの親戚という事なら素性もしっかりしているし…実は、ちょっと気になる人だし…
「…はい、いいですよ?」
「ホンマ!? おおきに!」
 それから二人はお互いに携帯のメール交換を行った。
「これでええな…きっと、メールする」
「はい…宜しくお願いしますね」
 試合も近くなり、忍足はそこで名残惜しそうに桜乃に挨拶をしてベンチへと戻っていったが…
「……先ずは友達?」
 ふと思い出した相手の台詞に、桜乃はその場で首を傾げ、ん?と考え込んでいた。


(一目惚れ…って…あり得へんて思てたけど…そうか、一目で全て分かって好きになるんやなくて…分からんから滅茶苦茶その子について知りたい思うことなんかもな…止まらへんぐらいに…はは、確かに俺向きや)
 無論、友達のままで『止まる』つもりはない。
 その想いを届けるのはいつになるのか…まだゴールは見えないが、忍足は迷いなく最初のスタートラインを切り、既に走り出していた……






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