幸せのお守り
「…ふぅ」
鮮やかな茜色の空を見上げ、青学からの帰り道で桜乃はため息をついた。
今日だけで、その数は十を裕に越える。
普段から前向きな彼女がそれだけのため息を一日の内につくのは、そうそうないことだった。
無論、理由はある。
(…立海の皆さん、大丈夫なのかな…)
或る夏の日、奇妙な縁で出会い、それから青学と立海という学校の垣根を越えて自分と付き合いのある、男子テニス部部員達の姿が脳裏に浮かぶ。
まるで妹と接するように親切にしてくれる彼らの人となりに、自分もつい甘えてしまったりして、今は青学男子テニス部メンバーよりも彼らと親しくなっているのかもしれない。
そんな彼等に、最近彼女は全く連絡をとっていない。
別に喧嘩したとかそういう後ろ向きな理由ではなく、とりたくてもとってはいけないのだ。
事の発端は数日前に遡る…
「え?」
ある日、立海メンバーの練習を見学させてもらおうと、彼らのコートを訪ねていった時だった。
何気ない会話の中で、桜乃は彼らの学生という立場の中での別の一面を知ることになる。
「立海って、そんなに色々なイベントの参加も認めてるんですか?」
「まぁ、確かにバラエティーに富んでいるけどね。そういう自身の教養や特技を活かす活動は奨励されてるんだ。それに、こういう言い方は好きじゃないけど、受験とかでも有利な判定になることもあるしね」
ベンチに座り、いつもの様に笑う幸村の隣で、桜乃ははぁーと感嘆のため息をつく。
この日彼女は、立海メンバーはテニス以外の様々な行事にも関わっているという事を聞かされた。
「真田さんは全国武術大会に参加して、柳さんは弁論大会…丸井さんは全国中学生創作菓子コンクール…」
一つ一つ、桜乃は指折り反芻する。
「えーと、桑原さんはホースショー、柳生さんは、ジュニアゴルフでしょ?…仁王さんは、えとえと…協会公認のダーツイベントに応募…で、参加、と…」
大体のメンバーの予定を確認して、桜乃はもう一度はぁ〜っと息をついた。
「何か…これだけ聞いていると、何の部か分からなくなっちゃいそうですね」
「ふふ、そうだね。まさか彼等がテニスまで全国レベルでこなしているとは、その大会の参加者は誰も思わないと思うよ?」
「そうですよねぇ…」
どの趣味も、まるで統一性がない…いや、それはそれで良いことなのかもしれないが…
「で、これから皆さん、それぞれの大会参加に向けて頑張られるわけですね? テニス部の活動もしながらそこまで頑張るなんて、流石です…幸村さんも何かの大会に参加する予定はあるんですか?」
尋ねる少女に、幸村は苦笑して首を横に振る。
「俺の趣味はガーデニングだし、これは年中通してのんびり出来るものだよ。そもそも人と競うようなものじゃない。それにこれから週末は、彼らのいずれかが抜けることになるから、俺まで抜けたら流石に部活に差し支えるだろうし。だから暫くは、俺は部長の役目に専念。無論、普段から手を抜いているつもりはないけどね」
「あ、それは分かります。そっか…幸村さんは、部長で、お留守番役なんですね?」
「ふふふ、そうだね」
「精市? 何を話している」
「あ、弦一郎。丁度、みんなのことを話していたんだよ」
そこに、二人に目を留めた通りすがりの副部長が、彼らの会話に加わってくる。
「俺達の?」
「皆さん、これからそれぞれ大会に参加されるんでしょう? 凄いです」
桜乃の素直な賞賛を受け、真田はすぐに話の内容を理解して頷いた。
「ああ、その事か。確かにそうだが…精市にその分苦労を掛けることになるからな、参加すると決めた今も、正直良かったのか…」
「大丈夫だよ。いつも君たちがしっかり部を見てくれているから、俺は随分と助けられているんだ。折角の、普段の修行の成果を見せる場じゃないか、頑張っておいでよ」
「そう言ってもらえると助かる…決して無様な真似はせん」
「うん。俺への気遣いは無用だよ」
「頑張って下さいね」
「ああ」
桜乃は真田に応援の言葉を述べた後、あっと思い出した様に声を上げた。
そうだ…何か、誰か足りないと思っていたけど……
「あの…イベントに参加されるのは三年生の皆さんだけなんですか? レギュラーだったら、切原さんも…」
その名前が出た途端、幸村の笑みが苦笑に変わり、真田は更に仏頂面になってしまった。
何か…自分は言ってはいけない事を言ってしまったようだ…
「あ、あのう…私何か…」
「君は何も変なことは言ってないよ。でも、それは赤也の前では言わないであげてね」
「はい?」
「あいつには、俺達よりよっぽど重要なイベントが控えている」
真田が腕組みをして、きつい口調で言い放つ。
それが何であるのか、ちょっと気が引けたものの興味には勝てず、桜乃は結局それを尋ねた。
「イベントって、何ですか?」
「…英語を初めとする複数科の追試だ!」
発言が怒りを再燃させてしまったらしく、真田の言葉に更に熱がこもる。
「アイツのテニスの能力については認めるが、勉学となるとすぐに投げ出してしまう悪い癖がある。最大限努力しての結果ならば仕方ないが、テニスを言い訳にしての逃避は認めるワケにはいかん!」
「はぁ、まぁ…それは確かに、そうですね」
桜乃は、真田の正論に返す言葉もない。
「テニスが楽しいんだよ、赤也は。楽しくて仕方ないから全力をかけてテニスをする、何もかもを忘れてしまうくらいに。でも、その後の疲れきってる時に勉強を強いられたら、必要なものだと分かっていても、嫌気がさすのかもね」
冷静に評する幸村の言葉には、桜乃も大いに思い当たるところがある。
宿題をやらないといけないのは分かっていても、つい部活の疲れで後々に延ばしてしまったり…
流石に追試を受ける程に酷い成績ではないけれど。
「何かの切っ掛けで、やる気を起こさせたらいいんですけどね」
「そんな方法が簡単に見つかるなら苦労はせん」
これまで何度アイツの赤点の答案用紙を見て、喝を入れてきたことか…
なのに実った試しはない、と真田はため息をついた。
「まぁ、そういう訳で赤也も今は神経質になっているから、追試の言葉は禁句だよ」
「はい」
それから真田と幸村は、今の練習中に気になった部員の動きについて幾つか話し合い、真田がそこへ指導に向かった。
再びベンチに残った二人だったが、不意に幸村がはぁと息を吐く。
その僅かな動作に敏感に不安の色を感じた桜乃が、首を傾げて彼に目を向ける。
「…やっぱり不安ですか?」
「ん? ああ…いや、俺が残ることについてはそんな事ないんだけどね…」
膝に肘をつき、組んだ両手を口元に当てて、幸村は柔和な表情のまま鋭い視線で、レギュラー陣の様子を伺う。
「テニス以外の活動を行うことは決して無意味じゃない。違う経験を通して、違う視点から自分を見つめることがテニスに活かせることもある、それは大きな収穫なんだ…上手くいけばね」
最後の一言が、まるで今がそうであることを否定しているかの様な口調で、桜乃は酷く気になった。
「…違うんですか?」
そして、幸村の視線を追って、練習をこなしているレギュラー達を見つめた。
「…皆さん、変わりないように見えますけど…」
「うん…君にはそう見えるだろうね。でも、俺には彼等が、自分達でも気づいていない細い繰り糸に絡め取られている様に見える」
「え…」
「テニス以外のあくまで趣味の範囲だから、みんな気軽にやるって言ってるけどね…無理だよ、あんなにプライド高くて負けず嫌いな彼らだから。何をやるにも全て、真剣勝負で挑まずにはいられないんだ」
凄い長所なんだけどね、と部長は困った様に笑う。
「軽い気持ちで参加…とか言って実は頂上目指しているから、緊張やストレスがないわけがないんだよ。厄介なのは、本人自身が軽い気持ちでいると思っているから、却って緊張に気付いていない。それは自滅に繋がりかねない」
「…幸村さんが教えてあげたら…」
「それじゃ意味がない」
鋭い視線を彼等に送る幸村は、その時、確かに立海テニス部を背負う部長の目をしていた。
「これは人に教えられても、その半分も理解したことにはならない。自分で気付いて、初めてそこで自分のものになる。まだ時間はあるし、それに…」
「…それに?」
「……いや、やめておこう。君に聞かせるような話じゃないから」
ふ…と幸村は自嘲の笑みを浮かべてそれ以上の発言を避けた。
最悪…大会で自滅しても、それが痛みを伴う経験となって彼らの心身に刻まれるだろう。
そして、それは立海男子テニス部にとって大きなメリットとなる。
無論、自分は彼らの自滅そのものを望んでいる訳ではない、彼らには最高の状態で最高の結果を残してほしいと心から願っている。
だが同じように、彼等が傷つき、得るものを期待していることも事実だ。
教えても身につかないことであるならば、例え心を鬼にしてでも自分は彼等を信じ、見守るしかない。
それが部長としての己の役目であればこそ、幸村は貫く覚悟だった。
「あの…」
「え?」
不意に掛けられた声で、幸村の瞳はいつもの優しいそれに戻る。
気付いたら、隣の少女が心配そうにこちらを見上げていた。
「大丈夫ですか? 幸村さん、ちょっと恐い顔をしていました…」
「ああ…ごめんごめん。大丈夫、これでも部長だからね、ちょっと熱心に見入っちゃって。」
「そうですか…」
ならいいんですけど…と頷いた少女は、それからまた相手を見上げた。
「これから皆さん、大変なんですね…私も邪魔しないように気をつけますね」
「いや…君は邪魔したりはしていないよ。君も邪魔するために来ている訳じゃないだろう?」
「そうですけど…・やっぱり、暫くは大人しくしておきます。皆さんが自分と向き合わないといけないなら、私なんかがうろうろしてていい筈ないし…あ、でも、大会が終わったら、またお邪魔していいですか?」
遠慮がちに尋ねる桜乃に、幸村はくすりと笑って頷いた。
「いいとも。一段落ついたら、連絡するよ」
そして今に至るという訳だったが…
普段なら数日会わなくても当然のことだし、気にならないのだが、彼らの今現在の事情を知ってしまうと流石に気にならざるを得ない。
(…かと言って、用もないのに連絡取るわけにもいかないし…)
はふ…とため息をついた拍子に下を向いた桜乃は、ふと、道端の雑草に目を遣った。
「…あれ?」
何か、一際目立つ草がある、と思いよく見ると…
「…わぁ」
自然と顔がほころび、桜乃はすぐに足をそちらへと向けた。
こんなにあっさり見つかることもあるんだ…
「やっぱり、四葉のクローバー」
数え違いではない、三回数えて、確かに三回とも四枚の葉を確認できた。
古くから伝わり、この国の誰もが知っているおまじない…
「幸せのお守りなんだよね…」
ごく自然に桜乃はそっと手を伸ばし、その茎を手折ろうとしたが…
「…………」
それから、彼女の手が目的を果たすことはなかった…
その夜…
真田邸
「…たるんどる」
いつもは他者に浴びせる言葉を、真田は道場の中で一人呟いた。
蝋燭の炎もない、ただ月明かりだけが明り取りの窓から差し込む静まり返った場で、彼は見えない敵と戦っていた。
目の前には今日、幾度も斬った蒔き藁が転がっている。
その断面…刃筋が完全にたっていれば藁の全ての繊維が曲がることもなく、断面も美しく切断される筈なのだが、満足出来る結果は一つとしてない。
己にはもう出来る筈の技…なのに、何故…
「…ふぅ」
慢心が己を支配しているのか…と、真田は自分を叱咤しながら新たな蒔き藁を立てる。
その時、彼の目が、道場の隅に置いていた携帯のランプが点滅しているのを認めた。
「む?」
何事かと思い、彼は光へと歩むと、何気なくそれを取って開いた。
(…メール?)
続いてその内容を確認して…真田の瞳は大きく見開かれる。
暫く立ち尽くしていた彼だが、ふ、と我に返った時、自分の肩がやけに軽くなったのを感じて、思わずそちらへと目をやった。
何もない、いつもの自分の肩だ…なのに今はこんなに軽い…
(何だこれは…俺はいつからこんなに無駄な力を入れていた…?)
軽くなって初めて気付く…今の姿こそが、本来の自分なのだと。
「……」
この感覚を忘れてはいけない。
真田は蒔き藁へと視線を戻し、ゆっくりとそちらへ歩いてゆく。
剣を構え、息を吸い、吐き…心と身体を一つに重ねる…そうだ…
一閃
道場の中、一瞬鮮やかに光輝く月が描き出され…
輝きに触れた蒔き藁がゆっくりと二つに割れた。
断面はまるで鏡に映したかの様に対称で、一つ一つの繊維は正円を保っていた。
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