柳宅…
「…いけないな」
柳の机の後ろには、幾度も書かれては消された文が綴られた紙が散乱している。
「こうではない、俺が求めている表現は…・もっと的確に、緻密に、聞き手全てに誤りなく伝える…」
弁論はこれが初めてではない、寧ろ、経験は豊富な方だが、こんなに苦労した記憶はない。
出来上がっている文は、上手く出来ている方だろう、しかしそれは自身の求めている高みには到底、至っていない。
もっと上手く出来るはず、書けるはずなのに、何故か言葉が出てこない、浮かんでこない…そして出てくる文はまるで稚拙なものばかり…俺の中で一体、何が起こっている?
「ふむ…肉体的にも精神的にも異常を疑わせる様な因子は認めない…では、客観的に見た場合の今の俺は…」
そこで彼の思考を止めるように電子音が聞こえ、柳は走らせていた筆を止める。
机の上で充電していた携帯が、メールの着信を伝えていた。
「…?」
思案の邪魔をされた所為か、少しだけ眉をひそめて柳は携帯電話を取り、メールの内容を確認する。
「……」
一瞬、怪訝な顔をした柳だったが、それは程なく無表情に変わり、そして唇が緩やかに笑みを浮かべるに至る。
そのまま携帯を画面が見える状態で置き、柳は改めて机に向かう。
「…これだ。難しく考える必要はない…正確さではなく、俺が感じたことが何だったかを…丁度、今の気持ちを抱いた様に…ふむ…」
さっきまでは止まりがちだった筆が、すらすらと流れるように紙の上を滑ってゆく。
楽しい。
こんなに楽しいのは、テニス以外では久しぶりだ…
ひそめられていた眉もいつの間にか解かれ、柳は穏やかな笑顔すら浮かべていた…
桑原宅…
「だから、どうにも上手くいかないんだよ。馬との呼吸っていうのかさ…」
十分前から、ジャッカルは心底困った様に、同じ乗馬クラブの仲間の一人と話し込んでいた。
「ん…そりゃ分かってるよ。けどさ、アイツとの息が合わなくて、今日なんかボロボロだったんだぜ。別に俺、難しい事をやらせようとしていたワケじゃないのに…」
どうやら、今日のクラブでの調子がかなり気に入らなかったらしく、普段は温厚で知られる彼が珍しく不満を顔中で表現していた。
「ったく、もうすぐ大会だってのに何がいけないんだか…こういう時は言葉が通じないのは痛いよなぁ…っと、待ってくれ、何かメールだ」
話の途中で着信通知を受け、ジャッカルは器用にそちらを一時的に開き、内容を確認した。
「……!」
(え?)というびっくりしたような顔をしたジャッカルが、言葉を詰まらせ、むぅ…と考え込む。
そして、一回だけ深い深いため息をついた後、彼は再び友人との通話へと戻ったが、その時には彼の不機嫌な態度は完全に消えうせ、寧ろ、反省すら思わせる言葉を述べていた。
「ん…あ、いや…急ぎのメールじゃなかった……あのさ、今思い出したんだが…今更だけど、馬にはこっちの大会の都合なんて関係ないよな……アイツら、単純に楽しく走ってたいだけなんだよな…」
そんな事、分かりきってた筈なのに、俺、なにアイツに人間と同じ目的求めてんだよ…と心の中でジャッカルは自分を叱り付けた。
「…別にどうもしてねぇよ…ああ、取り敢えず今度行った時に、アイツに謝るわ。分かってくれるか分かんねぇけど…で、今度はアイツの走りたい様にやらせてみる。もしかしたら、そっちの方が上手くいくかもだしな…悪かったな、相談に乗ってもらって…ああ、何かもう吹っ切れた」
丸井宅…
「だ――――――っ!! これもダメ――――――っ!!」
どがっしゃ―――ん!!と大きな音をたてながら、ボウルとゴムベラと泡だて器が宙に舞う。
「うあ―――っ! 天才って罪だ―――っ!! イメージ沸くのはいいけど、ごちゃごちゃして全っ然固まんねいっ!! やけ食いしちゃる!!」
わしゃわしゃと髪を掻きながら丸井は失敗作の山を次々と口の中に放り込んだ。
失敗であっても、食物を粗末にするのは自分のポリシーに反する。
作った以上は自分が責任を持たなければ、お百姓さん達に申し訳ない。
「う〜〜〜〜…みんなが同じように好む物なんて、それこそ滅多にないんだよな〜…」
げふ…とげっぷを漏らしながら、側にあったトングをぐーっと握り締め、丸井は大いに悩んだ。
けど、評価を得るには独創性も必要だけど、如何により多くの客の心を掴めるかってトコロも試される…
独創性については自信があるし、菓子作りの才能についてもかなりのレベルを自負している。
あと必要なのは、閃き!
見た瞬間に客が引き込まれる『象徴』…イメージが閃けば!
鳥とか動物とか…そんな個人的嗜好で左右されるような弱いものではなく、誰もが同じぐらい良いイメージを持っている何か…
「…ん?」
腰につけていた携帯が、振動をたてて丸井に注意を促した。
「誰だい? こんな忙しい時に全く…」
かちゃっと携帯を取って、届いたメールを開く。
「ん〜〜〜?」
覗きこんだ丸井は、その直後、かしゃーんと持っていたトングを床に落とした。
「……こっ…こっ…」
そして、激しい雷をその身に浴びた様に直立不動を保っていたかと思うと、今度は疾風の様に、先程宙に投げたボウルへ飛びついた。
「これだぁぁ〜〜〜〜〜〜っ!!! まさに天才的イメージ―――――――っ!!」
嬉々として、ボウルに卵と小麦粉を放り込み、かしょかしょと掻き混ぜ始める。
どうやらイメージが完璧に出来上がったらしい少年は、踊るようにキッチンで腕をふるい始めた…
柳生宅…
ひゅんっ…!
幾度も響く、風を切る音…
そして、頬を伝う汗の感覚…
幾度も幾度もそれらを感じながら、それでもまだ足りないという様に、柳生は夜の庭で一人、ひたすらにゴルフクラブを振っていた。
眼鏡の奥の表情は相変わらず隠されたまま…ただ、今の彼が纏う気は、紳士が纏うそれとは思えない程に荒ぶっていた。
しかし彼に、その自覚はない。
(選手権までもう時間は限られている…ここでどれだけ自分の身体に向き合えたかで勝負は決まる筈…!)
何度も何度も、そう自分に言い聞かせて……それなのに、何故自分は…
「…っ!!」
苛立ちを隠すように、せめて声は出さず、柳生は前にある見えない壁を殴りつける様にクラブを振った。
無論、ボールを打つ動作ではない…
(何故…こんなにフォームが乱れるのでしょう…乱れていることは分かっているのに、それを正すために努力もしているのに…私は…)
その時、彼は家の中から家族に呼ばれた。
「…え? メール?」
誰からのかは分からないが、とにかく確認は必要だと判断し、一度彼は家の中に入った。
そして自分の携帯に届いたメールを見て、柳生は眼鏡の縁に触り、もっとよく見ようと顔を近づける。
滴る汗を拭うことも忘れ、彼は家人が訝る程にそのメールを凝視していたが、やがて何かに納得したように数回無言で頷くと、もう庭へは戻らず、自室へと向かった。
「今日はもう練習は終わりにします」
それだけ家族に言い残し、柳生は自室に戻るとクラブをバッグへしまいこみ、バスルームへと向かった。
今日は汗を流した後はもう寝よう、と心に決めていた。
(…あのメールで気づかされた様です。私の今の心はどうやら千路に乱れている…これでは良い練習など出来る筈がない…どうやら今の私に一番必要なのは、休息と、私自身を見つめなおす時間の様です…そうですね、野の花の様に穏やかな心で)
仁王宅…
「ん〜〜〜…」
ダーツの的の前で、仁王は椅子の背もたれに向かう形で座り、ダーツ矢を指で弄りながら気のない声を漏らしていた。
見た目、やる気完全にゼロである。
「どうもやる気が起きんの〜…こりゃどうやらガス欠じゃな」
自分の経験上、一度やる気を削いだ対象に対して再びそれを持ち直すというのは非常に難しい。
関東でも結構大きなイベントで、強者が集まるだろう事は予想出来るのだが、怖気づいたわけでもないのにどうにもやる気に火がつかない。
テニスだったら目の前の敵は明らかで、彼を、或いは彼等を倒すという単純明快な目的がある分、やりやすいし、やりがいもある…ついでに言えば騙しがいも。
「はぁ…こんな気持ちじゃつまらんのー。好きは好きだが、どうもテニスとは勝手が違う…かと言って適当に参加しても、やる気もなしで良い成績が残るとも思えんし、それで負けるのも癪じゃ。幸村が何か企んどるのは知っとるが、俺は降ろさせてもらおうかの…」
掴みどころのない男は、飄々としてそんなことを呟いていたが、それはベッド上に投げ置かれた携帯の着信音によって中断される。
「ん? メールか?」
何事じゃ…と思いながらぴっぴっと素早く目的のメールを確認すると、仁王は、気の抜けた表情から一転、実に面白そうに唇を歪めた。
「…ほーう」
挑戦的な瞳で携帯の液晶画面を見て、彼はダーツ的へ視線を移すとほぼ同時に、距離を目測で測ることもせずに矢を放つ。
タンッ!!
矢は見事に中心点に突き刺さり、仁王はそれを大した事ではないという様に目も向けず、再び携帯にだけ視線を固定していた。
「…ええよ、折角、満タンにしてくれたガソリンじゃ…お前さんを驚かせるっちゅう目的も出来たしのう」
切原宅…
追試も近いというのに、その夜、切原が向かっていたのは机ではなく、テレビゲームだった。
「あーあ、ベンキョー、ベンキョーってうるせっての。やっぱ人生、息抜きは必要だって。ちょーっと点数悪いからって死ぬことはねぇし…」
点数がちょっと悪い程度なら、そもそも追試は受けずに済むのだが、彼にはその認識はないらしい。
格闘ゲームが丁度ラウンド終了を迎えたところで、彼のポケットに入れられていた携帯が持ち主を非難するようにけたたましく鳴り出した。
「うわぁっ!…と、びっくりしたぁ! 何だよ、ケータイか…」
まさか、副部長からとかじゃないよな……と早くも怯えながら、切原はピッと早速それを弄った。
「ん〜…? メール?」
何だろう…?
そしてそのメールを見た切原は、テレビゲームをやっていた時より数倍は真剣な表情を浮かべた。
「………」
十分後、廊下を通りがかった切原の姉が、彼の部屋のドアの隙間から見たのは、ゲームをテレビ脇に追いやり、物凄い気迫で机に向かっている弟の姿だった。
「珍しいわね、赤也がそんなに真面目な顔で勉強しているのって」
あまりに珍しくてつい声を掛けてきた姉にも、彼は視線すら寄越さずに、ひたすらグラマーの問題集に集中している。
「何だよ、邪魔すんな」
「…どうしたの? いつもなら『死ぬことない』って投げてる癖に」
「うるせぇ…十分前から、今回ばかりは死んでも落とすワケにはいかなくなったんだよ」
「…十分前?」
何としてでも…という決心が見える弟の様子に、姉はそれ以上邪魔するべきではないと察し、そこを離れた。
「そう、頑張りなさい。分からないところあったら声かけて、少しは役に立てるから」
「…うん、すまねぇ」
幸村宅…
「…あれ?」
自分の携帯が鳴り出したのを見て、幸村は誰だろうと思いながら中を確認した。
着いていたのは一件のメール。
「?」
何のメールかと確認すると、そこに写った意外なものに、幸村は一瞬はっとした表情を浮かべ、それはそのまま酷く優しい笑顔に変わった。
「…ああ、あの子か……本当に、素敵なことをしてくれるね」
笑顔で暫くそのメールを眺めていると、今度は誰かからの呼出音が鳴り出した。
「はい…もしもし? ああ…そろそろ掛かってくるだろうと思っていたよ」
にこやかに、幸村は予言していた様にそう言った。
どうやら向こうは、テニス部メンバーの誰からしい…
「うん…うん、俺にも届いたよ…素敵な贈り物だよね。そうだね、いい子だ……え?…ふぅん、そうなんだ…うん、うん…そうか、良かった」
頷きながら、幸村は嬉しそうに話し続ける。
「きっと、みんなが幸せのお守りをもらったんだね…そうだね、今度、みんなであの子にお礼を言おうよ」
こんなに自分達を幸せにしてくれた、あの子に…
立海のメンバーに送られたメールには、一枚の携帯で撮影された画像と、短い一文のみが添えられていた。
野に咲いた、四葉のクローバーを写した画像と
『皆さんが頑張った分だけ、幸せが、訪れますように』
という短い一文が…
しかし、その簡単なメールは、それから立海のメンバーの誰の携帯からも、データを削除されることは決してなかった…
了
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