青空とプール
「うわ――――――っ!! 寝坊した、遅刻だ――――っ!!」
「赤也! ご飯食べていきなさいっ!」
夏の始まりの或る日、切原赤也はこの日も起床予定時間を大幅に越え、家の中をばたばたと騒々しく走り回っていた。
始業時間にはまだかなりの余裕があるのだが、彼が所属する男子テニス部には朝錬という行事が存在し、遅れた者にはもれなく副部長の鉄拳制裁が付いてくる。
因みに、部員の中で最も多く副部長・真田の鉄拳を食らっているのが実は切原本人であり、その回数は正確に数えたら他の追随を許さない…というのが参謀・柳のデータだ。
「食ってるヒマねぇって! 悪いけど、鞄の中に突っ込んどいて! えーと、今日の授業は〜!」
夜の内にやっておけばいいものを、これからどうやら今日の科目の準備をするらしい。
普段から、遅れるワケである。
「英語と、国語と…あと、何だったっけか…!」
わたわたと片っ端から鞄とスポーツバッグに詰め込んでいく赤也に、家族もいつものことだと苦笑して、ラップにくるんだおにぎりを入れてやっている。
「えーと、今日は…タオルタオル! 水着水着!! あと〜、それと〜〜っ!」
「今日は良い天気ね、プールなの?」
「そうそう!! プールプール!!」
あっ!と思い出した切原はまだどたどたと家の中を走り回り、ようやく全ての準備を終えると、ダッシュで自宅を飛び出して行った…
切原の全力疾走は、朝錬に五分の遅刻というところで済んだが、残念ながら副部長の拳骨から逃れることが出来なかった。
「たるんどるっ!!」
「すっ、すんません!」
この光景もすっかりテニス部の日常風景になっている。
「まーた遅れたんか、つくづく真田の鉄拳が好きじゃのう。マゾか? 赤也」
「ノーマルっす」
ぶすっとして先輩の仁王のからかいをやり過ごし、コートで練習に打ち込んだ後、切原はやれやれ…と息をつきながら部室に戻った。
自分に割り当てられたロッカーの中に、制服と鞄とスポーツバッグを入れているのだ、当然、授業が始まる前にそれらは出して教室に持参しなければならない。
因みにテニスバッグについては、授業中は部室そのものが施錠されるため、ここに置いていく部員が殆どである。
「あっぢ〜〜〜〜」
季節は夏、当然朝から既に気温は急上昇のカーブを描きつつあり、身体を動かした若者達は既に汗に塗れている。
丸井は先程から汗をタオルで拭き終わってから、アンダーウェアを早速交換していた。
他の部員も、大体同じだ。
「暑いのはいいが、この粘るような湿気は頂けんのう」
「ええ、身体に絡みつくようです。しかし、建物の中は空調管理が整っていますから、まだましな方でしょう」
激しい練習でより発熱している身体を、水分補給で中から冷やしている柳生と仁王の二人は、暑いという割には涼しい顔をしていた。
「今日の最高気温は…」
「だーっ!! 言うな柳!! 知りたくないっ!!」
相変わらず冷静な表情で、その日の予想最高気温を言おうとしていた柳は、ジャッカルの汗だくの懇願を受け、それならばと口を閉ざす。
「全く…お前達、少し気持ちが緩んでいるのではないか? 心頭滅却すれば…と言うだろうが」
副部長の真田が全員に喝を入れるが、流石に彼は汗の量もかなり少なく、普段の鍛錬の成果を見せつけていた。
「はぁ…シントウメッキャク…」
ぶつぶつと切原が呟くのを見逃さず、真田は続きを彼に振る。
「赤也、続きを言ってみろ」
「えっ!? えーと、しんとうめっきゃくすれば…日持ちも長し?」
「………」
びきっ!と真田のこめかみに青筋が二本ばかり浮かぶ。
「言いえて妙じゃのう。合っとるようで合っとらん」
「まぁ、言いたいところは似てるんだけど…国語も苦手かぃ、赤也」
「…すんません…遺書ぐらいは書けるようにしとくっス…」
真田の殺気を背中にびしばし感じながら、がくがく震えて切原は鞄とスポーツバッグを取り出した…ところで、
「ああ――――――っ!!!!!」
「む?」
「どうしました、切原君!?」
大声を上げた後輩に皆が一斉に注目し、その後輩は声を上げた後、がっくりとロッカーの前に膝をついた。
「…こっ…こんなの持って来ちゃったんだ? 俺…道理でいつもより重いと…」
「あん?」
切原のロッカーをジャッカルが覗くと、そこには…
『たのしい ビニールプール 家庭用』
そういうロゴが入った、いかにもなビニール袋が押し込まれていた。
あれだ。
子供のいる家庭で、夏になると庭でよく見る、円形ビニールプール……
その折り畳まれた状態のものが袋に入り、切原のロッカー内にでん、と鎮座している。
「…どうした、ジャッカル」
覗きこんだまま微動だにしない相手に、柳が声を掛けた。
「……あまりにツッコミどころが有り過ぎて…何を言えばいいものか…」
呆然とするジャッカルの隣で、切原はヤケクソの疲れた笑みを浮かべていた。
「あーそー…こんなのあったんだウチ……ってか、俺、何処から持ってきたんだっけ…」
自分が持ってきたのは確実なのに、朝の忙しさに記憶も完全に飛んでいる。
次々、他のレギュラーも彼のロッカーを覗きこんでは、皆一様に微妙な表情を浮かべた。
「…水泳の授業があるのは分かるが、流石にプールは学校が準備するじゃろ。俺達みんながこんなの持ってきて使ってみぃ、すぐに警察が来るぞ」
「私は学校を変えますね…最早、何の未練もなく」
仁王と柳生のダブルス・ペアが、呆れ顔でビニール袋を見ている。
「よく途中で気付かなかったもんだ」
「俺とは別の意味で天才的だな〜…や、別の意味で」
ジャッカルと丸井は、最早、感嘆の表情で切原とビニール袋を交互に眺めていた。
そして真田と柳は、お互いに視線を交わすと、深い深いため息をついて、ロッカーから敢えて視線を外した。
「弦一郎…」
「最早、口を開く気も起きん…俺は教室に行く」
見ざる聞かざる言わざる…を実践している様に、真田はさっさと部室から出て行ってしまった。
没収する程のものでもないし、没収したところで切原の今回の失態を埋め合わせることもない。
確かに、そうするしかないだろうな、と柳も思った。
しかしそれにしても……
(遺伝子に刻まれているのか、性格なのか…全てにおいて奇妙奇天烈な男だ)
最早、狼少年に接する気持ちにも似て、彼は、勝手に一人で落ち込んでいる切原を見つめていた…
午前の授業が終了し、楽しい昼休み…
「ん〜…やっぱりこの時間は屋上でのんびりするのが一番じゃのう…でも、今日は特に暑そうじゃし…」
学校の購買部で昼食分のパンを買い終わった仁王は、今日は何処で食事をとろうかと思案していた。
天気がいいと空も高く、青も鮮やかで非常に気分がいいのだが、如何せん、今は季節では夏…
(はぁ…ん?)
ふと前を見ると、丁度そこに切原が自分と同じくパンを買いに来ているのが見え、仁王は瞬間ピーンとある考えが浮かんだ。
「赤也! おい赤也、ちょっと」
人を掻き分けて、彼はぐいと後輩の腕を掴んだ。
「わ! な、何スか? 仁王先輩」
「お前に頼みがあるんじゃ、ちょっと顔貸しんしゃい」
「へ?」
切原を連れ出すところで、今度は柳生とすれ違う。
「おや、仁王君、切原君とお食事ですか?」
「おう柳生、お前も来い」
「はい?」
詳しい説明はなかったが、こちらの返事を待たずに行ってしまう相棒に、柳生は苦笑して後に従う。
三人が向かっていくのは、彼らの部室だ。
「…ん〜、おいジャッカル、あれ見ろよぃ」
「あ? あいつら…・何しに行ってんだ?」
その三人の姿を廊下で見ていた丸井とジャッカルが、何事があったのかと彼らの様子を伺う。
三人は、部室の前に来ると仁王が持っていた鍵を使って中へと入っていった。
「あ、今日は仁王が鍵当番だったっけ」
「……何してんだ?」
それ程時間を置かず、三人はまた再び部室から出てくる。
ただ違うのは…
「切原が持ってるのってさ…」
「ああ、あのプールの袋だ…って事はアイツら…」
どっかでアレ、使うのか…?
「……」
「……」
どちらからともなく、二人が視線を合わせる。
「…面白そうじゃん、つけてみようぜぃ」
「…そう言うと思った」
こうなったら、丸井を止めることなど不可能だ。
仕方なく、ジャッカルは丸井と、彼が追う三人の姿を追いかけた。
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