己の背負うもの
病院の中は、何処も白を基調にしているんだ…つまらない景色。
そう最初に思ったのは、いつだっただろう。
元々、元気が取り得の自分が、病んでこんな場所に来ることは滅多になかった。
今も、ここにいるのは自分のためではなく、病と闘っている一人の先輩のためだ。
切原が彼を見舞うのは初めてではない、しかしかつてない程に、彼は今、多くの先輩達に囲まれて緊張のど真ん中にいた。
「…以上が、明日の練習試合に参加するメンバーだ」
柳によって読み上げられた名簿を、ベッドの上で静かに聞いていた幸村は、薄く微笑んでゆっくりと頷いた。
「いいよ…俺に異存はない。意見を聞き入れてくれて、有難う」
静かな言葉に最初に答えたのは、彼の親友であり、立海テニス部・副部長の真田だった。
「精市…お前の意見を尊重しただけではない。ここにいる全員、こいつの実力はよく分かっている。立海テニス部は実力が全てだ、だから今回の練習試合、赤也がシングルス参加の権利を得ることが出来た、それだけの事だ」
真田の言葉に、切原は緊張の中でもおどけて笑ってみせる。
「そうそう、実力ッスよ。ちゃっちゃと勝ってきますから、部長はゆっくり病気の治療に専念してて下さいって!」
「…ただ、不安なのは」
早速調子に乗り始めている後輩を、厳しい瞳で睨んで自重させると、真田は今度は不安の入り混じった目で幸村を見る。
「赤也は実力はあるが、まだ精神的には未熟だ。果たして、こんなに早く練習試合に参加させることが、こいつの益となるのか…」
「何でッスか!? 勝ったらいいんでしょ!? 勝ったら!」
叫ぶ切原の背後から、すかさず仁王が軽く蹴りを入れ、『膝かっくん』をかます。
「っとと…!」
「病院で騒ぐなって幼稚園で習ったじゃろ」
彼らのやりとりを微笑ましく見ていた幸村は、それから視線を真っ直ぐに切原に向けた。
「切原、こっちに」
「? は、はい…」
改めて側へと呼ばれ、再び切原は緊張しながら彼に従う。
「……」
何も言わず、幸村が、両手を軽く上げてこちらに伸ばす。
促されるように、切原も同じように両手を前に出すと、それを相手の両手が優しく包み込んだ。
「!? 部長?」
「すまない、切原」
最初に幸村の口から出たのは、詫びの言葉だった。
「え…」
「この大事な時期に…他のみんなだけでなく、君にも、部長らしい指導一つしてやることが出来ない、不甲斐ない俺を許してくれ」
「ちょ、ちょっと!? 何言ってるッスか!!」
謝罪を受けた切原の方が激しく狼狽し、他のレギュラー陣も一斉に声を上げる。
「幸村、何言ってんだ!!」
「俺達の部長はお前だけだい!」
「そんな弱気なことでは困ります!」
彼らの言葉が響く中、幸村は切原の手を離さず、じっと相手を見つめている。
女性の様に細い身体をした少年であるにも関わらず、その瞳は強い光を宿していた。
「…切原、君は明日から、正式にレギュラーメンバーとして練習試合に参加するんだ。実力のある君に俺が部長としてしてやれるのは、その実力を発揮する場所を提供してやることくらいしかない。けど、これだけは忘れてはいけないよ。君はこれで、立海のテニス部の名も背負うことになるんだ」
「立海の…名」
「そうだよ、いつでもそれを忘れちゃいけない」
「……」
おちゃらけた名残は最早なく、切原は神妙な顔で押し黙り、それを認めて幸村は手を離すと、今度は他のメンバーを見渡した。
「みんな、明日は切原のことをよろしくね。まだ、慣れていないと思うから…弦一郎、みんなのこと、頼むよ」
親友の願いに、真田はしっかりと頷き、他の先輩達も同じく首を縦に振って答えとした。
「任せておけ」
そこに、薬を持ってきたらしい看護師が入室してきた。
「幸村さん、お薬を…」
「あ…はい」
もうすぐ面会の時間も過ぎる。
看護師の訪室を切っ掛けに、レギュラー陣はその日の面会を終えることになり、順に退室していった。
最後に部屋を出たのは切原だ。
「切原…」
不意に呼びかけられ、部屋を振り向くと、幸村が背を向け、窓の外を眺める形でベッドに座っていた。
とても小さく、細い身体に見えた。
「…はい」
「…頼んだよ」
「…はい!」
一言、答え、切原はドアをゆっくりと閉めた。
翌日の練習試合会場は、相手の中学のコートだった。
立海と同様の、大学まであるマンモス校であり、校舎にはエレベーターも設置されている程の大きさだ。
「よし、荷物をコート脇へ置いて集合」
真田の号令の下、立海メンバーが迅速に行動する。
「本日は、午後よりここのテニス部との練習試合を行う。早めに食事を済ませ、各自、アップを行うように」
「はいっ!!」
全員が揃って返事をしたところで、真田はきろりと切原を見た後に他のメンバーへ視線を移す。
「昼食は予め伝えていた通り、ここの学校の第二食堂に用意されている。校舎の十階だ。それと赤也」
「はい?」
「今日は、お前は常に他のメンバーと行動を共にしろ、離れることは許さん」
「ええっ!? ずっとッスか!?」
「そう言った。本当は俺が付いていたいところだが、あちらとの打ち合わせやらで、俺と蓮二はそれだけの暇がない」
「え〜…一人の方が気楽なのに」
ぶーっとふてくされる後輩に、早速真田の喝が飛ぶ。
「精市の言葉をもう忘れたか! お前はもう立海のレギュラーメンバーだ、お前の行動が立海テニス部の行動と看做される。一人が問題を起こせば、それは俺達全員の問題ともなるのだ!」
「うっ…」
「他のレギュラーと共に行動し、何も起こさなければよし、万一問題を起こした時には貴様を登録メンバーから外すからな!」
「えええええっ!!」
大声を上げて抗議する切原だが、他の誰も彼を擁護する人間はいなかった。
「諦めんしゃい、赤也」
「単に、大人しくしていたらいいだけの話です」
仁王と柳生のペアは、苦笑しながら後輩の切原にそう諭す。
「お前達、赤也が何か手を出したら必ず俺に知らせろ」
「りょーかい、じゃ、よろしくな切原クン」
「まぁ、昼食食べて戻ればすぐ試合だ。面倒起こす暇もないさ」
そして、真田の指示を受けた先輩達は、ぐったりと既に脱力の極みにある哀れな切原を引きずって、ぞろぞろと校舎に向かって歩いていった。
校舎のエレベーターを使って食堂に向かった彼等は、真田の言った通り、準備されていた食事にありついた。
「んめー、こういう景色見ながら食べる食事って、いいな」
ぺろっと舌を出して口周りを舐める丸井は、窓の外の絶景を眺めながら上機嫌で言い、ジャッカルも彼の意見に賛同する。
「ああ、設備も整ってるし」
「そうじゃの…」
同じく仁王も二人に続いて頷いたが、その視線は同じ食堂にいる他の学生に向けられている。
あちらの生徒も、時々こちらを窺っている…明らかに意識している様子だった。
「…仁王君?」
「まぁ、初めての練習試合相手じゃないから分かっとるが…面倒臭いの、赤也が心配じゃ」
そう言われたことも知らず、少し前まで団体行動に不満を漏らしていた切原は、今はそれも忘れて食事に集中している。
無論、これから試合なので、食べる量は流石にセーブしているが。
「んー、食った食った…じゃ、行きますかね、先輩方」
「おう、行くか」
メンバーは全員、再びエレベーターに乗り込んだ。
大人数にも対応しているそれには、立海のメンバーだけでなく、ここの生徒らしいスポーツウェアを着た生徒達も数人が乗り込んでいる。
先程まで自分達を見ていた生徒だという事は、無論、仁王には分かっていた。
「ところでよ、今日のテニスの練習試合。立海だってよ、相手」
「へぇ、そうなんだ」
ぴく…
僅かに切原の肩が揺れ、その猫の様な瞳に光が射す。
何気ない会話だったら、彼は聞いていない振りももっと上手く出来ただろう。
しかし彼らの会話の中に滲んだ侮蔑の匂いが、切原の闘争本能に揺さぶりをかけたのだ。
他のレギュラーメンバーは僅かに他校の生徒に視線のみを送ったが、誰も何も言わず、エレベーターの中で直立不動を保っている。
「テニス界の王者って言われてるらしいけど、今年はどうだろうねぇ。何か、部長さんが不在ってハナシだけど」
「ああ、何か病気だってさ。で、今は部長不在で副部長とかが色々代理でやってるらしい」
「マジ!? サイテーな部長じゃん。役立たずだったら、他のヤツにとっとと代表を譲りゃあいいのによ」
「てめ…」
自分達のリーダーを愚弄され、切原が相手に声と腕をかけようとしたところで、その腕は、がしっときつく隣の先輩に掴まれた。
「っ!?」
振り向くと、仁王が彼の腕を掴み、鋭い視線を向けている。
『…仁王先輩!?』
『…やめろ、赤也』
エレベーターの中は、向こうの生徒の声しか聞こえない…静かに稼動する密室の空間で、切原と仁王の声は、互いにしか聞こえない程に小さかった。
『真田副部長の言葉を忘れましたか?』
柳生が彼らに加わり、切原を眼鏡の奥の瞳で見据える。
『けど…アイツら…!』
幸村部長の悪口、言ってるんスよ……!?
俺達にすまないって詫びてくれた部長を!
俺達に頼むって言ってくれた部長を!
何も、何も知らないくせに! あの人がどんなに苦しんでるか、戦ってるかも知らないくせに!!
怒りに震える切原の手を、仁王の腕は微動だにせずしっかりと押さえつけている。
『言わせとけ…いつもの奴らの手じゃよ』
切原は初めてだが、仁王達にとってはもう慣れたものだった。
テニスコートの外でも、既に戦いは始まっている。
この学校だけに限らず、コートの外で自分達の誹謗中傷をそれとなく行い、心理的に揺さぶるという作戦は多く見る。
好ましい行為ではないが、証拠を見出しにくいことからよく行われる戦略だ。
もしこちらが実力行使に及べば、その行為は更に甚大な被害をもたらすだろう、例え相手にも非があったとしても、手を出した方の責が重くなるのは分かりきっている、最悪、試合への出場停止もありえるのだ。
切原を止めた行為は、当然とも言えるものだった。
しかし…
「今回は一年だか二年だか知らないが、新参がチームにいるらしいぜ」
「嘘だろ? 天下の立海も落ちたもんだ。病気の部長さん、熱で頭までおかしくなったんじゃねぇの?」
「ああ、これで立海は連覇はまず無理だな。早々に潰れるぜ?」
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