『先輩…!?』
 切原が振り仰ぐと、丸井とジャッカルも何も言わず、ただ向こうの生徒を見ているだけ。
 視線こそ鋭いが、相手がエレベーターの扉の方を向いて背を向けていたら意味はない。
「………っ!!」
 それでも、切原はぐぐぐ…と腕に力を込めて仁王のそれを振り解こうとするが、相手は決してそれを許さない。
『赤也、コートに立ちたくないんか? 幸村と約束したじゃろ』
『…っ!』

『切原…頼んだよ』

 あの白い病室で、部長は今頃何を思っているのだろう…
 自分達が戦うことを、戦って勝利することを、願っているだろうか、信じてくれているだろうか?
 白い部屋で、狭い部屋で、寂しい部屋で
 それでも、それを何でもない事と笑って、自分達を迎えることを望んでくれているだろうか?
「〜〜〜〜〜〜っ…!!」
 ぎりぎりぎり…と奇妙な音がした。
 自分の歯軋りだった。
 目尻が裂けるのではないか、と思う程に瞳を見開いた切原は、必死に、必死に己を押さえつけた。
 己の中で暴れまわる怒りの炎を抑え続けた。
 我慢しろ、我慢しろ、我慢しろ…!!
 約束した、約束した、あの人と約束したじゃないか!!
 ここで俺が我慢したら、それで何事もなく終わるんだ!
 誰にも迷惑かけずに、そのまま試合に行けるんだ、戦いはそこからでいい!!
 ここは引いて……引いて………?

(……立海が引くのか…?)

 切原の中で、もう一人の自分が呟いていた。
(…本当に、このままでいいのか?)
 チン!
 エレベーターの到着を示すベルが鳴り、一階へと通じる扉が開かれる。
 人の波が動き出す、ゆっくりと……
 あの生徒達の背中も、動き出す…
(試合はこれからだけど、やられっぱなしでここを終えていいのか…?)
(……幸村部長)
 彼の最後に見た背中が脳裏に浮かぶ。


『頼んだよ』


「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
 あの言葉を思い出した時、背中を思い出した時、我慢しようとしていた切原の忍耐の糸は遂にちぎれた。
(嫌だ!! やっぱ気がすまねぇー!!)
 約束はしたし、彼の気持ちは無駄にしたくない…・けど、やっぱり部長を愚弄した人間を目の前にして、そのまま放っておくなど許せない!!
 殴りはしない、手は出さない…それも約束だ、約束だったけど。
 けど、だからって黙っているのは……「切原赤也」じゃない!!
「う…?」
 仁王が切原の動きに目をとられ、つい小さな声を出す。
 その時切原は、すぅ、と自分の左足を高く上げ、出て行こうとする生徒のうちの一人が抱えていたバッグの紐を踵で引っ掛け、エレベーターの扉の縁に押し付けていた。
 いつものトレーニングにより培われた、身体の柔軟性が為せる技だ。
「あ…」
 ジャッカルが仁王に続けて声を上げた時、切原の指はエレベーターの「閉」ボタンをぐーっと強く押していた。
「あ…?」
「お……?」
 向こうの生徒の一人が、切原の踵に固定されたバッグに引っ張られ、更にその生徒がもう一人を引っ張ってその場に固定させる。
 そして、切原の指で指示を出されたエレベーターの扉が…

がっしょんっ!!

「うぎゃあっ!」
「いでぇっ!!」
 派手な悲鳴を上げ、あの生徒達がエレベーターの扉に挟まれ、サンドイッチ状態になった。
 そこにいた多くの人々の好奇の目に晒されながら、彼等は再び開いた扉から解放され、外へとバランスを崩して転げ出た。
「………」
 切原以外の立海メンバーが半ば呆然とそれを見つめる中、彼は不敵な笑みを浮かべて不届きな生徒を見下ろして声を掛ける。
「ありゃ〜…危ないッスねぇ。余計なおしゃべりばっかしてるから、ドジ踏むんスよ」
「〜〜〜〜っ!!」
「ちっ!」
 何かを言おうとしていた彼らだが、既に切原が仕掛けたという証拠はない、自分達の言葉と同じように。
 衆目に晒されている羞恥もあり、彼等は早々にそこから立ち去っていった。
「……切原君」
「手は出してないッスよ」
「切原…」
「無理ッス!」
 何かを言われる前に、彼は背を向けたまま強く言い放った。
「立海のレギュラーとして、部長を目の前で馬鹿にされて黙ってるってことは、俺には無理ッス!! 俺は…今の俺には…先輩達みたいには出来ませんっ!!」
 誰も、何も言わない。
 エレベーターから足を踏み出しながら、切原が今度は小さな声で呟いた。
「…すんません…覚悟は、してるッスから…」
「……」
 先を歩いていく後輩を見て、他の立海レギュラー一同は一様に顔を見合わせる。
 そして仕方がないなという様に、肩を軽く竦め、頷くと、ゆっくりと切原の後を追ってコートへと向かって行った。


「来たか」
 コートに着くと、真田と柳が彼らの到着を待っていた。
 向こうの学校の生徒も、順次集まって来ているようだ。
「みんな軽いウォーミングアップの後で試合の準備をしろ。赤也は、何か問題を起こさなかっただろうな」
「……ああ…その…」
 切原は腹を決め、ぐ、と瞳を閉じて自己申告しようとした……が、
「おう、別に何もなかった。美味いメシじゃったよ」
「!? え…」
 背後からの仁王の言葉に、ぎょっとして振り向く。
 先輩達は、本当に何事もなかったかのように、切原の後に続いてそこに並んでいく。
「あの…先輩?」
「? 何かあったのか?」
 柳の質問に、ジャッカルは首を横に振った。
「いやぁ? 別に何もなかったけどな。なぁ、丸井」
「ああ、途中でエレベーターに挟まれたマヌケがいただけだぃ」
「ふむ…」
「小さなアクシデントというところですが、我々とは関係ありません。アップに入りましょう」
 きゅ、と胸元の襟を整えながら、柳生も試合の準備を促したが、真田だけは何となく彼らの微妙な雰囲気の違いを感じ取っていた。
「…まさか、手を出すなと言ったから足を出したとか、そういう真似はしていないだろうな」
(うわっ!! 鋭い、さっすが副部長っ!)
 ぎょっと切原が怯える脇で、仁王はため息をつきながらひらひらと手を振った。
「いや、そういう非情な突っ込みは弁護士を通してほしいのう…何にもなかった以上は俺達も何も言えんよ…」
「むぅ…」
 本当か…?という視線を向けながらも、彼らからそれ以上の話は聞けないと判断すると、仕方なく真田は切原にもアップの命令を出した。
「赤也、お前もアップだ、ダブルスが終わったらお前の番だ、気を抜くなよ」
「はっ…はい!」
 切原がアップに向かったその少し後に、いよいよ練習試合が始まり、ジャッカルと丸井の二人がコートに入ると、相手の二人に近づいた。
 うち、一人は見知った顔だった…・あの仲間内の一人だ。
 丸井は相手の男を見て、続いてもう一人の待機している男へと目をやって、唇を歪めた。
「…ああ、俺、前にもアンタ見かけたことある、あともう一人のヤツも…あいつ、今日はシングルス3だよな? 気の毒に」
 エレベーターでは仁王達より無言だった丸井が、ぷーっとガム風船を膨らませながら、相手に挑戦的な瞳を向けて彼の胸を指差した。
「お前ら、本当に懲りねぇのな。何度痛い目に遭えば分かるんだよ…何度挑発したって無駄なモンは無駄なんだよい」
 丸井の言葉の次にはジャッカルのそれが続き、彼もいつもの温和な表情とは程遠い、怒りを帯びた瞳をしていた。
「今日は悪いが、俺達のおもちゃになってもらうぜ。たまには先輩らしいこともしてやらないとだしな…あと一人のヤツは、赤也が直々に遊んでくれるだろう」
 そして、ゲームが始まった。
 丸井とジャッカルの言う通り、相手はまるで二人の玩具だった。
 すぐに着くだろう決着を敢えて長く引き延ばす様に仕向け、相手の心臓を痛めつけるだけ痛めつける様に、走り回らせた。
 いつもの二人らしくない行動に、柳が首を傾げる。
「珍しいな、丸井達がここまで長く試合を引き延ばすとは」
「流石に向こうはもう体力が限界の様だ…こちらの勝利は揺るがないが、少し遊びすぎではないか?」
 真田達の声を聞いて、切原はすぐに二人の意図を察すと、次に続く仁王と柳生へと目を向けた。
 彼等は静かに試合の行く末を見守っていたが、やがて決着がついて自分達の番になると、ゆっくり立ち上がってラケットを持ち、コートに立つ。
「よお…すまんが、恨むならお仲間を恨んでくれよ」
 にや…と笑う仁王は、詐欺師どころではない、悪魔の様にぞっとする程に冷酷だ。
 そしてペアの柳生も、眼鏡の奥の瞳は氷より冷え切った光を宿していた。
「私達はもう、正直あなた方と遊ぶ時間すら惜しい…早々に終わらせて頂きます」
 彼らの試合は、最初のそれとは正に対照的だった。
 こちらが打った後だろうと、向こうが打ってきた後だろうと、例外なく二分ともたずにボールが向こうのコートへと叩き込まれる。
 柳生のレーザーショットを使うまでもない、まるで大人の遊戯と子供の本気がぶつかり合った様なゲーム展開だった。
 丸井達とは確かに違う、しかし、仁王達は相手のプライドや自信を粉々に打ち砕く、非情なまでの試合に徹したのだった。
「お疲れさん、全く手応えのない試合じゃったの」
 最後にとどめの一言を投げつけると、仁王達はさっさとベンチへと戻り、次に控える切原と擦れ違った。
「切原」
「はい」
「…目障りじゃ、アイツ。とっとと神聖なコートから叩き出して来い」
「了解ッス」
 俺達のテニス部部長を愚弄した奴…・俺達立海を愚弄した奴……
 待ち兼ねた!
 切原はゆらりと立ち上がり、ラケットをぐっと握り締めてコートへと入った。
 ネットの前に立った相手は、切原が例の新参者と初めて知ったらしく僅かに笑っていた。
 こちらが有利だ、という笑い…・切原は最早、怒らない。
「ありがとさん」
 にっこり笑った切原に、向こうは怪訝な顔を向けるが、それは無視して彼は続けた。
「アンタが俺の相手になってくれてすげー嬉しいッス。エレベーターではケガしませんでした? ハンデ、要ります?」
 嫌味ということは分かるのだろう、向こうはちっと舌打ちをして挨拶もそこそこにポジションに向かう。
「…ありゃ、一番言いたいコトあったのに…」
 仕方ないか…と切原も位置に着く。
 こちらからのサーブ…こちらからの『攻撃』…やっと始まる、コートでの戦いだ。
「んじゃまぁ、行くッスよ」
 ぐ…と構え、切原はおぞましいほどに残酷な笑みを浮かべながら、「一番言いたいコト」を言った。

「テメーを紅く染めてやるぜ」


 その瞬間、儀式の始まりを告げるように、切原の瞳が血の様に紅く染まった…






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