痴漢に御用心!
幸村が手術を終えて、無事に退院した。
『明日からは、俺も練習に参加するよ』
昨日、嬉しくて仕方ない、といった風に電話口でそう伝えていた幸村だったのだが…
登校途中…
家から最寄の駅へ行き、そのまま電車に乗り込んだ幸村は、いつもの朗らかな笑みを珍しく顔から消し去り、じっと無表情を保っていた。
朝の通勤、通学ラッシュのため、電車の中はぎゅうぎゅうのすし詰め状態。
確かに、不快感を覚える気持ちもよく分かる。
しかし、普段の彼であればたかが混雑程度でここまで気分を害するということはない。
それに何より、今日は彼にとっての久しぶりの登校。
多少の混雑も却って、日常を思い起こさせる心地よい現実の認識となる筈である。
なのに、何故彼は、眉をひそめ唇をきゅっと引き結び、身体を時々小刻みに震わせているのか…
(ついてない……久しぶりの登校日に、よりによって……!!)
今度は、ぐっとその澄んだ瞳を固く閉じ、幸村は更に何かに耐えた。
その彼の苦痛の正体とは……
(痴漢だ……っ!!)
そう、不届き極まりない、社会の敵!
その魔の手が、今まさに幸村を不愉快の極みに陥れていたのである。
乗り込んでから間もなく、車内という逃げ場がない空間でぐいぐいと周囲に押されている時に、不意に臀部に何かが当たった感触があった。
一度目は、偶然と思った。
二度目は、きっと他人の鞄か何かが当たったのだと思おうとした。
しかし、三度目!
今度は明らかな意志をもって、自分の臀部を掌で撫で回す感覚を感じ取り、瞬間、幸村の顔から笑顔が消えた。
(何てことを……!! 俺……男なのに……っ!!)
元々が美しい女顔の幸村は、よく女性と間違われて犠牲になることはあった。
しかし、以前は通学の際に同じテニス部メンバーの誰かと通学する事が多く、そういう時には相手が人壁になってくれていたのか、何とか不愉快な思いはせずに済んでいたため、しばらくそれを忘れていたのである。
ところが、残念ながら今日は一人だけでの通学。
幸村は、思い出さなくていい悪い思い出まで、記憶の端から揺り起こしてしまった。
しかも……今回は特に相手が悪い。
過去、自分が男性と分かった時には、すぐに手を引く相手もいたのだが、今日はどうやら様子が違う。
角度から、明らかに自分が男性だと分かっているはずなのに、それでいて止めようとしない。
そういう嗜好を持つ人間がいるという事は知っていたが、無論、幸村はそうされて喜ぶ異常要素は一切持ち合わせていなかった。
(う……っ!!)
突然、びくんっと背筋を反らせ、幸村が心の中で悲鳴を上げる。
相手の、臀部を撫で回していた手が、彼の股間の狭間に入り込もうとしてきたのだ。
何とか平静を保って、次の駅で逃れようと思っていた幸村も、遂に我慢の限界だった。
「この……っ」
行動に移せば、王者立海テニス部部長を務める程の実力者の彼のこと。
辺りの人垣を物ともせず、その手はあっさりと、不届き者の手を掴み、肩から上まで持ち上げていた。
それに対し、辺りが何事だと人の壁が引き、幸村と痴漢の二人が周囲の目に晒されることになった。
見ると、それ程に年をとっていない、まだ二十前半とも見える会社員風の男。
明らかにうろたえ、挙動不審になっている相手に、幸村がきつい視線を浴びせながら非難する。
例え年上であっても、人道に外れている相手に容赦する男ではない。
「何をしているんです! 人の身体に……!!」
痴漢、と露骨な言葉は使わなかったが、彼が何をしていたかはそれで十分によく分かる。
辺りの、途端に冷えた視線に晒され、会社員は最初こそおどおどとしていたが、今度は開き直ったように幸村に向かって投げつけるような言葉を吐いた。
いや、元々、ばれたらそう言おうと思っていたのかもしれない。
「っ! 誰がお前みたいなオカマ男触るかよ! 自意識過剰じゃねぇか!? 離せよオラァ!!」
学生相手に凄む男は、きっとこれで逃げられると思っていたのだろう。
凄みは確かに効いていた、華奢で弱気の男子生徒だったら、一も二もなく手を放していただろう。
しかし相手が見誤ったことは、幸村は華奢には見えるが、心身ともに見た目とは明らかに違う男だった。
ビシッ!!
実際の音ではない……が、幸村の中で何かが音を立てて切れた。
人、それを堪忍袋の緒、と言う。
「……」
ふ…と幸村の表情が虚ろになり、会社員の腕を握っていた手に、ぐ…と力が込められる。
力を受けた腕の感触を感じて、痴漢男が幸村の顔に再び注目した時、彼は見た。
相手が、うっそりと恐ろしい程に優しい笑みを浮かべている姿を……
「…オカマじゃありません」
『ボキッ!!』
華奢な学生が呟いた瞬間、何かが砕かれる音と、『うぎゃあっ!!』という派手な悲鳴が、車内に響き渡った……
立海 テニスコート
「部長、遅いッスね」
今日も朝錬に参加していた二年生の切原が、きょろっと辺りを見回して言う。
確かに、今日は何度もこうしてコートを見回しているが、一向に部長が現れる気配はない。
不思議に思っているのは切原ばかりではなく、レギュラー陣も幸村の不参加には首を傾げるばかりだった。
律儀な彼であれば、出かける前に問題でもあれば、必ず一報は入れてくれる筈なのだが……
「確かにおかしい…精市らしくないな」
参謀の柳が眉をひそめる隣では、真田が隠しきれない不安の色を覗かせていた。
「まさか、精市の身に何か……」
「副部長、滅多なことは言わないものです。きっと何か事情があるんですよ」
柳生が真田に心配しないように忠告する隣では、仁王がやけに難しい顔をしていた。
「仁王、どうしたい?」
「何か思い当たる節でも?」
丸井とジャッカルが相手に呼びかけると、その詐欺師は、ん〜と空を見上げながらぼそりと呟いた。
「何か……忘れてる気がするんじゃがのう……何じゃろう…ここまで出掛かっとるんだが」
そう言いながら自分の喉元を指すが、当然、周囲にはちんぷんかんぷんだ。
「何だい? それ」
「いやぁ…思い出したくても、思い出したくないような……う〜む」
そうこうしている内に、一番幸村の心配をしていた真田が、ぴくんと横に目を逸らした。
『副部長―――!』
見ると、非レギュラーの一人が真田に向かって手を振っていた。
『部長からお電話が入っているそうです!』
「む…」
ようやく来た連絡に、すぐに真田は足をそちらに向けた。
「何だったのだろうな…」
柳が見送る脇で、どうにも思い出せないのが気になるのか、仁王が面白くない顔をしている。
「赤也、何があったのか脇で聞いてきんしゃい」
こそっと後輩に耳打ちをすると、彼も気になるのは同感だったのかさして逆らう素振りも見せず、寧ろノリノリで頷いた。
「了解ッス!」
そして、言われるままにぴゅ――――っと真田の後を追いかける。
果たして……
物の五分としない内に、切原が戻って来た…が、どこにも真田の姿がない。
今度は何があったんだ?
戻って来た切原は、早速他のレギュラー陣に質問責めにあった。
「部長はどうしたんです?」
「こっちに向かっているのか?」
「また調子悪くなったんじゃないのかぃ?」
柳生や柳、丸井の質問に対し、切原もどうにも腑に落ちないという顔をして首を傾げる。
「いや、あの……俺もよく分からないんスけど…電話口での話しか聞かなかったんで」
「何? 真田は何も説明しなかったのか?」
ジャッカルの質問に、切原は首を軽く竦めてみせた。
「や、電話で何か話した後に、急に青くなって飛び出していっちゃったんスよ。何か、ヘンな話してましたけど…」
「ヘンな話ぃ?」
「………」
丸井がぷーっとガム風船を膨らませている脇で、仁王が何かを思い出したのか、微妙な表情を浮かべて柳へと向き直った。
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